第24回 【佐久間卓の独白】
伊達進也さんとの出逢いは今からおよそ二十二年前。
新卒で入社した会社で伊達さんが教育係として私の指導に就いてくれた。
初めて逢った時の鮮烈な印象は今でも脳裡に焼き付いている。
世に生まれたばかりのひょっこにも等しい若造の目に映る彼は眩しい光輝を放つ美神そのものだった。長身で精悍なマスク、包み込むような大きなオーラ。そう、現在の洋人さんにそっくりの姿形だった。
伊達さんは外見も中身も完璧だった。誰もが彼に憧れていた。
そして、それほどまでの人が自分の教育係であることに私は舞い上がった。
言うまでもなく私の魂は伊達進也の虜になった。日夜彼を崇拝し慕い憧れた。
この感情がやがて抜き差しならぬ熱愛に変わるのに時間は要さなかった。
伊達さんに会えるというそのことを以って私は会社へ行く意義を見い出した。
そして、ただ彼に褒められ認められたい一心で必死になって仕事を覚え、何事にも全力で取り組んだ。その甲斐もあり何より彼の的確な指導のおかげで、私は同期の中でも抜きん出た存在となった。
誰もが完璧と信じて疑わない彼が深い懊悩を抱えていると知ったのは入社から約半年後、初めて個人的に酒に誘われた時だった。
雲の上の神の如き先輩に誘われた嬉しさと言ったら……思わず万歳と叫んでしまった程だった。
伊達さんはそんな私を見て苦笑いしていた。
こざっぱりした居酒屋のカウンター席で酒を酌み交わしながら仕事や趣味の話などをしていい感じに酔いが巡り始めた頃、突然『もう耐えられないんだ』と言って伊達さんが涙を零した。
泣き上戸? 私はそう思った。自分もそれほどアルコール類に強い方ではないが、彼もそうなのかもしれないと。
妻子に恵まれ仕事は順調、社内の人間関係も良好で何の問題も見当たらない。まさにエリートの道を突き進んでいる。さらには端麗な容姿と頭脳。伊達さんはおよそ人が望むほとんどの理想を満たし順風満帆の人生を歩んでいるように見えた。
なのに何が耐えられないのか? 私は見当もつかず彼の話を聞くだけに終始した。
伊達さんは言った。
『自分を偽っているのだ』と。
『素のままで生きられないことが息苦しくて堪らないのだ』と。
『素のまま、とは?』
思い切って私は訊いた。
すると酔いも手伝ってか彼は訥々と語り出した。それは真情の吐露とも云うべきものだった。
『妻と息子の待つ家に帰るのが苦痛でならない。妻は優しく美しい。息子は可愛く、いつも天使の笑顔で俺を見つめる。でも、やっぱり俺はダメだった。
身内は俺の性向に薄々勘付いていたはずなのに執拗に結婚を勧めた。女性の良さが身に沁みてわかれば、そんな心の病などすぐに吹き飛んでしまうものだと何度も言われた。
心の病。当時の俺は女性を愛せないのは心が病んでいる所為だと思い込んでいて、そのことでひどく悩んでいた。だから結婚さえしてしまえばこの病もカモフラージュされ、何より周囲からのプレッシャーもなくなるのではないか。そんな思惑もあり、勧められるままに見合いに臨み結婚に踏み切った。極めて打算的な動機だった。
それでも結婚当初はそれなりに楽しかった。やがて長男が生まれ、親や親戚は喜んだ。俺もこれで少しはまともな人間になれるかもしれないと自分自身に期待した。
しかし、心の病と云われた生まれながらに内包する違和感の芽はそう簡単に刈り取られることはなかった。傍目には全く何の不満も不足もない結婚生活においてさえ、それは俺の中で確実に成長を続けていたのだ。
初々しく陽光に照る若葉のような清新な一人の青年に、俺は……己の生来の性向がついに芽吹いてしまったことを感じた。結婚するまでは、ただ女性を愛せないだけで特定の同性を愛したことはなかった。なのに……俺は見つけてしまったのだ。出逢ってしまったのだ。探し求めていた人に俺はようやく出逢った。
それが、君だ。佐久間くん』
予想だにしなかった告白に衝撃を受け、返す言葉もなく茫然としていると、彼はふっと短いため息をついて続けた。
『甘んじて軽蔑も謗りも受ける。何なら今すぐ席を立って帰ってくれてもいい。それで君の評価が下がるわけでもない。明日からまたいつも通りの日常が始まるだけだ』
そう言って彼は酒を呷った。おそらく、飲みたくて飲んでいるはずもない酒を。
その時の深い寂寥に沈む彼の横顔が、私の想いを揺るぎないものに変えた。
酩酊の靄に覆われかけた思惟が捉えた事実は、自分という存在が彼にとって『探し求めていた人』に当たるということだ。
ならば……!
彼を寂寥から掬い出せる唯一の人間が自分であるというのならば、それを為すことに何を躊躇することがあろうか。
その夜、私は覚束ない足取りの伊達さんを介抱し、自分の住居に連れ帰った。
そして、互いが心身における初めての真の理解者となり得た。
爾来、伊達さんは妻子の待つ家に帰ることなく、婚姻の解消を決意した。
後日、私は彼の荷物を取りに行き、奥さんと赤ん坊の洋人さんに逢った。
どういうことかと不安げに尋ねる彼女に『進也さんの荷物を取りに来ました』とだけ告げ、リストアップされた物品を淡々と車に積んだ。奥さんにしてみれば寝耳に水どころか青天の霹靂だっただろう。
奥さんと洋人さんに対して当時の私は何の感慨も抱かなかった。本当は自分こそが家庭を壊す悪魔に他ならぬ者であるというのに、その自覚もなしに、むしろ彼らを睥睨していた。伊達さんを呪縛する怖ろしい敵として。
その後、私たちは会社を辞め、家族も故郷も全てを捨てて新天地を目指した。実質的には逃避行、謂わば駆け落ちだ。
それから十五年。
本当に、夢のように幸せだった。伊達さんが骨髄性白血病を発症するまでは。
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