第19回 バレた……!?
自分の部屋より明らかに広いトイレの中で、俺は便座に腰掛け、しばし茫然としていた。
元より、出るモノなどない。たとえあったとしても、この空間では一発の放屁すら憚られるというものだろう。足元は大理石の床、高い天井には煌びやかなシャンデリア、背後は全面鏡張り、壁には数点の絵画、丈のある観葉植物の数々、極めつけは金ピカの便器。果たしてそれは、
此処は、矢野邸のゲスト用トイレ。
『怖がらせてすまなかった、龍くん。何故か君が逃げようとしていたので、とっさに、捕まえるよう指示したんだ』
車の中で矢野主将は謝った。
俺を羽交い絞めにした屈強な男は彼の専任スタッフ、つまり執事であるとのことだった。一高校生にして執事を擁する身分である矢野主将とは、いったい……!?
実は彼こそは、本邦の名だたる超大金持ち、矢野財閥の御曹司だったのである。
高級車に乗せられて行く道中、俺は緊張のあまり全く喋ることができなかった。その様子を鑑みて矢野主将は俺の括約筋が我慢の限界に近い所為だと解釈したようで、屋敷に到着するや、ストレッチャーに乗せられて此処に通されたのだった。
トイレから出ると、ドアの外にメイド服を着た若い女性が待ち構えていた。彼女は恐縮する俺を優しくエスコートして応接間に案内してくれた。
ゆうにテニスコート二面分はあると思われる広さのその部屋には、黒服やメイド服姿の複数のスタッフが居並び、次期当主の申し付けを細大漏らさず聞き逃すまいとしているかのように引き締まった面持ちで静かに控えていた。
しかも、そこには先客が……!
「龍くん、お腹の方は大丈夫?」
その次期当主、矢野主将が俺の手を引いて自分の隣に座らせ、心配そうに尋ねた。
「あっ、は、はい」
「じゃあ、ケーキでも食べる?」
「ケーキ♪」
一瞬、甘い誘惑にテンションが上がりかけた。しかし、すぐに己を律した。
「いいえ、今ケーキ断ちをしてるんで。試合で一勝するまでは食べないって決めたんです」
俺は一度決意したことを簡単に覆すような漢ではない。
「おおっ、さすがだ! それでこそエース。僕もその姿勢を見習いたい。もっとも、君以外の部員は、それ以前に一にも二にも練習あるのみなんだけどね」
「俺の方こそ練習あるのみです。ところで、キャプテン……」
先ほどからずっと気になっている先客に、俺は遠慮がちに目を遣った。
「ああ、そうそう」
矢野主将が俺の視線の先を追って、件の人物に微笑みかけた。
「君を迎えに行っている間に来てくれてたんだ」
一クラスの生徒全員が余裕で座れるほどの長大な革張りのソファの中央に、その人は鎮座していた。
おそらく神様の気まぐれ
その人こそ誰あろう、水無瀬桔梗。所謂『桔梗様』に他ならない。
「君とは少し前に会ったわよね」
真っ直ぐに俺を見据えて桔梗様は言った。
「あの時すれ違った人は、
緊張を覚えながらも、俺も視線を逸らさずに応えた。
「えっ、ふたりとも……何? どういうこと?」
矢野主将が桔梗様と俺を交互に見遣りながら、頭上にインタロゲーションマークを立ち昇らせていた。
「あのマンションに知り合いがいるんですか?」
矢野主将への説明よりは、俺は確かめたい事柄を優先させた。
「答えなきゃいけないかしら?」
「ええ、是非とも答えて欲しいです」
桔梗様の顔に浮かぶ動揺につけ入り、俺は強気に出た。
「ちょっと、龍くんも桔梗様も、僕を置いてけぼりにしないでくれないかな」
さすがの矢野主将も、見えない会話を続ける俺たちに苛立ったようだ。
「いいわ。話すわ」
幼馴染みに頷いて見せ、観念したように桔梗様は続けた。
「私、龍先生の家を訪ねたの。理由は、マネージャーの件よ。インターフォンを押すと先生が『なんだ、鍵忘れたのか』って言いながら開けてくれたんだけど……出て来た先生は……そのォ……全裸、だったの」
「「 全裸ーっ‼⁇ 」」
矢野主将と俺は声を揃えて仰け反り、互いに顔を見合わせた。
「先生は最初、私を誰かと勘違いしてたみたいで、間違いに気づいて慌てて前を隠したんだけど……私は見てしまったの。龍洋人の全てを。
生身の男性の裸を見たのなんて初めてだし、もう怖くてショックで何が何だかわからないくらいに取り乱して、『ヘンタイ‼』って叫んで、泣きながらここに来たの。私の心を落ち着かせて慰めてくれるのは、凛ちゃんしかいないから」
男の裸体という衝撃映像がフラッシュバックしたのか、桔梗様は両手で顔を覆って肩を震わせた。
「それはショックだったね。可哀想に、桔梗様。もう大丈夫だからね」
桔梗様に寄り添い、頭を撫でながら矢野主将が宥めていた。
普段はクールなイケメン系女子の桔梗様だが、幼馴染みの前では素に戻るようだ。
こんなふうに、桔梗様と矢野主将は幼い頃から互いを慈しみながら育ってきたのだろう。将来を誓い、美男美女に成長したふたり。しかし、矢野主将にはやんごとなき事情があった。
仮に譲歩の末に結婚したとして、果たしてふたりは幸せであり続けるだろうか?
洋人の父親の例がある。彼は自分を偽ることに耐えかねて結婚生活を破綻させ、妻子を不幸にした。義母と洋人の哀しみと苦労は測り知れない。しかし、だからといって一方的に洋人の父親を責められない気もするのだ。彼もまた、時代の犠牲者だったのではないか。って、悠長に傍観している場合ではなかった!
問題は洋人だ。『鍵を忘れたのか』という発言から、インターフォンのモニター画面で桔梗様を俺だと勘違いしたことは十分考えられる。洋人の目には身内贔屓とも云うべき補正がかかっている所為で何故か俺のことが美人に見えるらしいから。
長年見慣れた義弟の顔を他人と見間違うとは情けない話だが、自宅の中とはいえ真っ昼間に全裸で来訪者を出迎えたとなれば変態呼ばわりされても仕方ない。
桔梗様の驚きと恐怖は尋常ではなかったはずだ。
そうなると、俺は自分の勝手な思い込みで洋人を『ヘンタイ‼』と罵ったことになる。やはり、きちんと謝らねばなるまい。
それにしても桔梗様と俺。思考や行動パターンまでもが似ている気がしなくもないのだが。
「はっ!」
突然、桔梗様が顔を上げ、何かに思い当たったような表情で俺を見つめた。
「先生はモニターに映る私を、龍くんと間違えたんじゃないかしら。君が来るとわかっていたから。つまり、先入観も手伝っていたのね。さらに、『鍵を忘れたのか』という言葉から推察されることは、君は合鍵を持っていて、先生が裸を見せても平気なほど心を許している存在だということね。そして、決定的なのは、姓が同じということ。先生は龍洋人。君は龍亜斗里。つまり、ふたりは……」
とうとう洋人と俺が兄弟だとバレた!?
突如として始まった桔梗様の推理ショーに虚を突かれ、俺は返す言葉を失った。
俺たちの関係が知られたところで何らやましいことなどないのだが、『何故今まで黙っていたのか』だの『兄弟にしては似ていない』だの、いろいろ詮索されるのは煩わしい。家庭の事情を説明するのも面倒だ。
「待って!」
このタイミングで矢野主将が何事か閃いた様子で俺を刮目した。
「今思い出したけど、洋人……ひろ。龍くんが譫言で言っていた『ひろ』って、もしかして監督のことなのでは?」
幼馴染み二人組の鋭い考察と閃きにより、言い逃れできない状況に追い込まれた。気づかれてしまったのなら、今さら隠し立てする必要はない。
俺は腹を括った。
「実は……」
「わかったわ!」
俺が言いかけるのと同時に、桔梗様が推理ショーを締め括るかのように声高らかに宣った。
「同じ苗字、合鍵、譫言にも出て来るほどの相手。つまり、龍先生と龍くんは……」
俺のこめかみをひとすじの汗が伝い落ちる。
今まで秘密にしていたことが暴かれる瞬間だ。
「結婚してたのね! しかも通い婚!」
「「 ええーっ‼⁇ 」」
洋人と俺は結婚していたのか!? しかも通い婚。って、桔梗様のボケを真に受けてどうする!
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