第18回 ヘンタイと893

 あれから、百合ヶ丘高校野球部には練習試合の申し入れが殺到した。


『龍洋人を囲む夕べ』の開催による地域への貢献とその龍洋人率いるチームに快勝したことから、男嶽工業高校野球部の評判は爆上がりし、地元民やOBから過去最高額の寄付が集まった。その情報は瞬く間に広がり、われもわれもと男嶽工業に倣う高校ところが現われたのだ。


 申し入れる側が条件を提示すること、つまり洋人にイベントの出演を要求するのは筋違いというものであるが、「うちは二軍ではなく一軍を出しますゆえ、何卒ファンサービスを」と上から畳み掛けるような提案で、年若い監督を丸め込んだ。

 本来ならばそこは、「いいえ、二軍でも構いません」と返せば済んだはずである。実際、わがチームが他校の二軍相手にさえ勝てないことは実証済みだ。

 しかし、先方の海千山千の監督たちから、強いチームとの実戦に勝る練習はないと言い含められ、洋人は全面的に相手側の要求を聞き入れた。

 後々、自身に大きく負担が圧し掛かることになるとも知らず。




 そんな洋人の労に報いることなく、百合ヶ丘高校野球部は悉く負けまくった。




 ようやく、奇跡的に休みが取れたある日曜日。

 俺は義母から作ってもらった二人分のランチを携えて、久しぶりに洋人のマンションへ向かった。

 この時間だと義兄はまだ寝ているかもしれないが、鍵を持っているので大丈夫だ。


 俺のスイーツへの渇望は限界に達していた。しかし、百合ヶ丘のエースとしての意地がある。試合に勝つまでは封印すると決めた。己に課した約束だ。決して反故になどしない。

 その代わり、別の甘味で欲望を満たすのだ。あのシフォンケーキのような唇で。

 洋人! 甘いキスをくれ。おまえの唇を貪りたい。



 エントランスに入りかけた所で、中から一人の女性が出て来て俺の横を足早に通り過ぎた。

 その一瞬、目が合った。


「あっ!」


 俺は思わず声を上げた。


 驚いたように女性は俺を一瞥すると、無言のまま急ぎ足で去って行った。


 誰なのか。見誤るはずはない。自分とよく似た顔を。

 その女性こそ、桔梗様に他ならない。さらに、その眼には光るものがあった。


 このマンションに知り合いでもいるのか? 何やら理由わけありか?

 胸騒ぎがした。男の直感とでも云おうか。洋人の部屋がある十一階までエレベーターが上昇する数秒の間に、俺の頭の中で考察が繰り広げられた。


 桔梗様は洋人の部屋を訪ねたのではないだろうか。だとしたら、おそらくマネージャーの件だ。一度は却下されたが、諦めきれずに直談判に来たのかもしれない。

 そして、桔梗様 = 俺に似ている女。このことから導き出せる可能性は一つ。

 洋人はからぬ交換条件を示して、桔梗様が熱望するマネージャーのポジションをちらつかせた。しかし、誇り高き彼女は自尊心を傷つけられ、失意のうちに泣きながら出て行った、と。

 もしそうなら、これは教育者として、否、人として断じて許されることではない。

 妄想ではあるものの、洋人への怒りが沸々と込み上げてきた。


 怒りのボルテージが最高潮に達したところで、洋人の部屋に着いた。

 勢い良く玄関扉を開け、部屋の中に向かって俺は叫んだ。


「このォ、最低のセクハラ野郎!」

「なっ、なんだ……? 亜斗里か」


 洋人がシャツの袖に腕を通しながら現われた。


 それを見て俺の妄想は爆発し、確信へと変わった。

 もはやコトが済んだ後なのだ!


「許さんっ‼」


 激しい怒りで瞬間的に脳が沸いた。

 次の瞬間、猛然と洋人に殴りかかった。


「亜斗里! どうしたんだ!? 何があった!?」


 洋人は素早く身を躱し、俺の一撃をかいくぐった。


「何があっただと? よくもぬけぬけと。かしたのはおまえだろうが!」


 俺はそう叫んで第二波を繰り出した。

 しかし、その拳ごと易々と捕り抑えられてしまった。


「いきなり何なんだ? どいつもこいつも」

「放せっ! ヘンタイ‼」

「ヘ、ヘンタイ?」


 ヘンタイ呼ばわりに洋人が怯んだ一瞬の隙を突いて、俺は部屋を飛び出した。




 よもや追いかけて来ないだろうとは思いながらも全力で走っているうちに、学校に来てしまった。


 呼吸が整うにつれ、徐々に頭が冷えてきた。洋人の言い分も聞かずに、己の勝手な思い込みで行動したことに少なからず後悔の念が湧いた。


「……謝らないといけないかな」


 独り言を呟きながらスマホを取り出した。

 しかし、連絡先として画面に表示された番号は洋人のものではなかった。


「キャプテン……」

『龍くん? 珍しいね。君から電話してくるなんて。てゆうか、初めてだよね。何かあったのかい?』

「う……ううっ、ぐすん」


 懐かしいとさえ思える矢野主将の声に、はからずも俺は泣いてしまうという不覚を取った。


『龍くん! 大丈夫か!? いや、大丈夫ではなさそうだね、今、何処にいる?』


 俺の涙声を聞いてただ事ではないと察したのか、矢野主将の慌てる様子が電話越しに伝わってきた。


「がっこ……」

『学校だね! じゃあ校門の前で待っていてくれ。すぐに迎えに行くから。僕が行くまでそこを動いてはいけないよ!』




 およそ六分後。


 百合ヶ丘の校門脇に佇む俺の前に、一台の黒いベンツが停まった。


 黒塗りの高級車に乗るような人種といえば……!?

 俺の危機回避センサーが、瞬時にある特殊な数字を弾き出した。


 893……‼


 俺はヤッちゃんに目を着けられたのか!? 

 早鐘のように心臓が拍動し始めた。そう言えば、ここに着くまでにいくつか信号を無視して道路を横断し、クラクションを鳴らされた。もしかしたら、その中にヤッちゃんの車があったのかもしれない。

 でも、そんなことくらいでガキんちょをわざわざ追いかけて来るかな? 否、相手は社会常識が通用しない893。何を考えているのか理解不能のやから集団だ。


「とにかく逃げなきゃ」


 俺はすくむ足に喝を入れ、踵を返した。


 背後で車のドアの開閉音がした。

 その一瞬の後、逃げ出すいとまもなく屈強な腕に羽交い絞めされた。


「うわぁあああ――っ、ごめんなさい! ウ〇コ我慢してたんですゥ!」


 俺は臭い言い訳をして必死に足掻いた。

 ウン〇は俺の中では敵を退けるパワーワードだ。


 しかし、相手は日本語が通じないのかと思うほど全く怯む様子もない。


 パニックに陥った俺の脳内に、誘拐、拉致、人身売買、臓器、終いにはエプ〇タイン島……といったヤバい単語が次々と浮かんできた。


 終わった、俺の短い人生。


 洋人は義弟の最期の言葉を『ヘンタイ』と記憶するだろう。こんなことになるのなら、もっとましな言葉を残しておくべきだった。例えば『愛している、兄者』とか。

 って、いくら何でもこれは恥ずかし過ぎるだろう。やめてやめてェ!


「やめてやめてェ!」


 脳内の妄想を追い払おうとして、俺はいつしか声に出して叫んでいた。


 すると、俺を拘束していた男の力が緩んだ。

 そして、ウインドウが開かれた車の中から懐かしい声が聞こえてきた。


「〇ンコなら僕の家でするといいよ、龍くん」


 俺は振り向き、声の主を見て阿保面で固まった。

 

「矢野……キャプテン……?」 


 あんた、モロ言っとるやん。そこ伏字にする意味ないっしょ。

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