第16回 天邪鬼

 ついに洋人が一人暮らしを始めることになった。

 資金や物件探し等の援助を親から全面的に受けての『独立』である。これを独立と称すなど笑止千万、片腹痛くて臍が茶を沸かす。全く、甘えているとしか言いようがない。

 しかし、それも致し方あるまい。野球以外のこととなると本能で動く義兄なれば。

 しかも何故か、周囲がそれを容認してしまう。人徳か、カリスマゆえか。否、単に皆、洋人ヒーローに気に入られたいだけだ。それは親といえども例外ではなく。


 洋人が独り立ちしたいと言い出した当初は父も義母ははも諸手を挙げて賛成していたふうでもなかったが、親として息子の自立を尊重すべきとの考えもあったのだろうか。ふたりは洋人に支援を約束した。

 結局、俺ひとりが反対したところで覆ることもなく、両親の協力を得て独立の準備は加速した。




 新たな住まいは、実家から車で七分足らずの所にある中古の十一階建てファミリーマンションに決まった。

 閑静な住宅街の外れに位置し、学校にも程近く立地的にも申し分ない。さらに、部屋は最上階で見晴らしも良く、まさに理想的な環境だ。まな息子のために親が骨を折っただけのことはある。


 必要な家具類も購入し、既に搬入を済ませた。

 引越の当日は、身の回り品を運び入れるだけで事足りた。




「疲れたぁ。ヒロ、炭酸持ってきてー」


 あらかた片付けが終わって、手伝いに来てくれた両親を見送り、俺は真新しいソファで疲れた身体を休めた。

 引越は重労働だ。普段使われない筋肉が久かたの酷使にを上げていた。


「いっそのこと、おまえもこっちで暮らさないか?」


 500㎖ の炭酸ボトルを俺に渡しながら洋人が隣に腰掛けた。


 元々俺は洋人が実家を出て行くことには反対だった。ずっと一緒にいたかったから。

 しかし、洋人と一緒に暮らすことと自分が実家を離れることは別問題だ。この二つは必ずしも合致するわけではない。


「うーん」

 一気に半分の量の炭酸水を乾いた喉に流し込み、考え込むていで俺は虚空に視線を泳がせた。

 洋人とふたりだけで住む。それはとても魅力的なのだが。

「ちょっと……ねぇ。やっぱりここ近すぎるんだよ、学校に。それに俺、お母さんのごはん好きだし」


 俺は喰い意地の申し子だ。

 部活を終えて下校中に考えることは唯一つ。『今日の晩飯は何かな~♪』だ。

 義母の料理は栄養バランスもさることながら、味付けが俺の好みに合っていて文句なしに旨い。なので好き嫌いなく何でも美味しくいただける。これは伸び盛りの身としては有り難いことである。おかげでもうすぐ180cmの大台に届く。そして洋人や矢野主将に追い着き、やがては追い越す。

 それに、時々作ってくれるプリンやケーキも捨て難い。店のものとは一味違った素朴さが何とも言えずノスタルジックで癒し効果も満点だ。ずばり、俺のスイーツ好きはここを端緒としている。


「つまり、こういうことか。お袋の料理や他人の目と兄を天秤にかけた場合、この兄はそれよりも軽いってわけか。哀しいよ、亜斗里。俺はけっこう勇気を出して一人暮らしを決断したんだぜ。他でもない、おまえと完全に結ばれるために」

「ヒロが軽いとか、そういうんじゃないから……」


 確かに、俺の頭の中で天秤が揺れ動き、損得勘定の算盤そろばんが目まぐるしく弾かれたのは事実だ。

 親元を離れて暮らすとなると、日常生活そのものがリアルに圧し掛かって来ることは必至だ。洋人が義母と同等のクオリティで家事をしてくれるはずもない。それを求めるのは酷というもので、むしろ自分の負担になるだろう。

 その上、洋人と同じ家に帰るところを誰かに見られる心配もある。それ自体やましいことではないが、俺たちが義兄弟であることを公けにしていないし、あれこれ詮索されるのも嫌だ。


「打算的な弟にお仕置きだな」

「あ……っ、汗だくだってば」


 シャツの裾から洋人が手を忍び込ませてきた。


「俺は亜斗里の汗の匂いが好きなんだ。甘くむせ返る薔薇の薫りがする」

「そんなわけないだろ。少女漫画の読みすぎかよ。せめてシャワー浴びさせろよ」

「じゃあ浴びて来い」

「家に帰って風呂に入る。ここじゃ着替えもないし」

「俺のを着ればいいじゃないか」


 洋人の服は俺にはワンサイズ大きめだが、家にいる時はゆったり加減が心地良く、しばしば部屋着として借りていた。しかし、此処は俺の部屋ではない。


「いい。明日学校があるし。今日はもう帰る」


「帰るのか。そうか」

 不満げな表情を見せた洋人だったが、その顔にはすぐに不敵な笑みが浮んだ。

「実はな、以前このマンションを音大生が借りていたんだ。ピアノの練習のために防音設備を施してある部屋があって、当然、俺はそこを寝室にした。ふふん、亜斗里、この意味がわかるか?」


「わかりすぎて怖いかも」


 防音。つまり、どんな音声も部屋の外には漏れない、ということだ。

 いつかの夢に出てきたような、俺の情けない絶叫も。


「なんだ、怖気づいたのか?」

「そういうわけじゃないけど」


 しかし、いざこうして御膳立てがされると、途端に後退あとずさりしたくなるのは何故だろう? しかもさんざん焦らされてお預けを喰らっていたものを、心の準備もなしに急に目の前に差し出されたこの状況。戸惑いを通り越して少し怯む自分がいる。


「じゃあ、どういうわけなんだ?」

「……ごめん」


 このまま洋人とその寝室に入る気にはなれなかった。怖気づいたわけでも、勿体ぶっているわけでもない。俺は洋人を愛していて、身も心も深く結ばれたいと望んでいる。だが、今はその時ではない気がした。


「ごめんで済ますつもりか?」


 洋人が俺の腕を掴んだ。


「ヒロ……? なんだよ、放せよ」

「まだ帰るなって」

「今日はその気はないって言ってんだろ」


 俺は洋人の手を振り解いた。こんな一方的な流れでメモリアルとなる関係を進めたくなかった。


「そうか。そんなに嫌か。……わかっていた。おまえの心に俺以外の誰かがいることを。誰よりもおまえを愛している俺だからわかる。矢野くん……だろ? 違うか?」

「は? 何言ってんだ」

「自分のことを好きになってくれた人間を意識しないでいられるほど、おまえはクールじゃないよな」


 俺が矢野主将を無碍に退けられないのは、バッテリーを組む相棒パートナーであることやケーキで別腹を掴まれてしまったことも原因だが、何より洋人と似ているものを感じるからだ。ふとした言葉の端々や急にエロく豹変するところなど。


「だけど、ヒロを想う気持ちとは全く違うものだ」


 些細なことでしょっちゅう心が揺れ動く思春期真っ只中の俺に、クールに割り切れと言う方が無理だ。クールとは程遠い、格好悪くて面倒くさい人間なのだ、俺は。

 天邪鬼。

 たぶん、そのような類だろう。この、ままならない己の感情に辟易する。


「おまえの気持ちも考えずに……亜斗里、ごめんな」


 こんなふうに素直に反省するところも似ている。


 謝られて、しんみりとなった。

 また別れて暮らす寂しさを改めて思い起こした。これからは、義兄弟ふたりの濃密な時間はなくなり、会話も少なくなるだろう。

 そう思うと涙が込み上げてきた。最近、涙もろい。


「ぐすん。謝って欲しくない。今日は……俺の体調が悪かっただけだから」

「そうか。多い日、だったのか」

「……?」


 おそらく洋人は何かくだらないジョークを言ったつもりだったのだろうが、例によって俺には通じなかった。


「ヒロ……俺、きちんと結ばれたい。こんなふらついた気持ちじゃない時に」

「そうだな。つい、ムラムラした。汗をかいたおまえがセクシーだったから」

「なんだよ、それ。じゃあ、もしかして部活の時にもムラムラしてるのかよ」

「ときどき」

「ヒロ、それ教育者としてアウトだから」

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