第10回 エース誕生

 矢野主将と桔梗様は他の部員たちより早く部室を出て、監督の洋人の許へ赴いた。

 一応、承認を得るためだ。


 洋人のことだ。おそらく一も二もなく桔梗様のマネージャー就任を承諾するだろう。そして、自分に惚れさせる。その後は……。

 簡単に先が読めるわかり易い展開だ。俺は悔し涙で、また瞼を腫らして登校する。

 次はどんな言い訳をしようか。


 やるせない思いで練習着に着替え、他の部員たちとダッシュでグランドに向かった。 



「あれっ?」


 その場の雰囲気に、誰もが一様に違和感を覚えたようだった。


 俺を含め皆で目をきょろきょろさせていると、矢野主将から整列の号令がかかり、洋人の話が始まった。


「みんなは歓迎していたと思うが、水無瀬さんにはお引き取り願った。

 当分の間、わが部にマネージャーは必要ない。自分たちのことは自分たちで管理できてこそ一人前だ。元より、部活動の主たる目的は人格陶冶である。それがいつの間にか、試合に勝つことだけが至上命令のようになってしまった。このことは、われわれ教育者側にも責任があると言えよう。この点は見直すべきだと思う。

 然るに、創成期にあって少人数のわが部は、部活動の基本理念を第一義とし、野球という素晴らしいスポーツを通じて心身の育成に勉励すべきである。やがて実績を重ねて部員数を増やし、押しも押されぬマジョリティーとなった時、その時にこそ初めてマネージャーを置けばいい。それまでは必要ないと考える」


 幼馴染みの申し出が却下された所為か、矢野主将が肩を落としていた。

 しかし、たとえ桔梗様がマネージャーに就いたとしても、激戦と言われるこの地区で勝ち上がり、さらに県大会で、あの常勝スター軍団BL学園を破って甲子園に行けるのかというと、俺たち全部員が超高校級のプレイヤーでもない限り、ほとんど不可能に近い。少なくとも凡人の俺は超高校級にはほど遠い。

 せっかく桔梗様がマネージャーになってくれたにも拘わらず、好結果を出せる可能性の低さを考えると、むしろこの方が良かったのではないだろうか。

 矢野主将だって、そのくらいのことはわかっているはずだ。


 それにしても、洋人にしては珍しく正論を通すとは! ついに指導者として目覚めたのか。

 矢野主将には気の毒だが、俺は今、実に晴れやかな気分だ。


「では、さっそくだが、ポジションを発表する」

 洋人が矢野主将から渡されたメモを読み上げた。

「ファースト・高橋純也、セカンド・安河内優、サード・松井隆、ショート・菊池陽介、レフト・津田つだ哲郎てつろう、センター・山口やまぐち世那せな、ライト・藤村ふじむら光彰みつあき、ピッチャー・龍亜斗里、そして、キャッチャーは矢野凛太郎。

 極力みんなの希望に添う形にした。こうして見ると、二年生が全員内野、一年生が龍以外は外野、と偏ってしまったが、致し方あるまい。途中でコンバートもあるかもしれない。ともかく、しばらくはこの布陣でやってみようと思う。

 そこで、いきなりで悪いが、今日はみんなの守備力を見たいので、シートノックから始めることにする。軽いストレッチの後、バッテリー以外は所定のポジションに就いてくれ。矢野と龍はまず投球練習からだ。四十球を目途に行ない、それが済み次第ノックを受けろ」


「はいっ!」


 全員の気合の入った返事がグランドにこだました。

 いよいよ高校野球の練習が本格的に始動するのだ。否応なく、気分が昂揚する。



「じゃあ龍くん、最初は肩慣らしから」

「はい!」


 矢野主将と俺は三塁側ファウルグランドで、まず肩を作るキャッチボールを行なう。


「全力で君の球を受けるよ」

「よろしくお願いします」


 俺は矢野主将とバッテリーを組むのか。少し気恥ずかしいのは何故だろう。

 

 十球ほどの肩慣らし程度の軽いキャッチボールの後、俺の要望でさらに十球追加して、ほぼ肩が出来上がった感触を得た。


「次からは座って受けるよ。いいかな?」

「はい。お願いします」


 久しぶりに握った硬球は、しっくりと皮膚に馴染んで弾性を忍ばせた革の質感を掌に伝える。人間の煩悩の数と同じ百八の縫い目が、ちょうど良い具合に指に掛かる。

 ああ、この握り心地! 

 やはり忘れられない。洋人が俺にもたらした画期的な文化だ。

 こんなにも楽しいスポーツがあることを教えてくれて、感謝しかない。

 洋人を好きになったように、野球を好きになった。俺は野球が好きだ。投手というポジションも。


 俺は投げる。矢野主将のミットを目がけて。

 無意識に身体がしなる。全身が憶えている洋人譲りの投球フォームで。

 つい、一球目から全力投球になってしまった。


 ズバババババ ―― ン‼!


 その音は、辺りの空気を揺るがした。

 同時に、皆の視線が俺に集中した。洋人までもが驚きの表情で俺を振り返った。


「り、龍くん……」


 矢野主将がミットを構えた姿勢まま固まっていた。

 漫画なら、そのミットから煙が立ち昇っている光景が描かれたかもしれない。


「すみません。いきなり全力で投げてしまいました。久しぶりだったので……」


 矢野主将が構えたコースにどんぴしゃりの直球ストレートだった。

 コントロールにむらがある俺だが、まぐれにしても上手くミットに収まってくれて助かったと胸を撫で下ろした。


「すごいよ、龍くん。甲子園が見えてきたよ」


 矢野主将が興奮ぎみに言った。


 その瞬間から、俺は百合ヶ丘高校野球部の真のエースに格上げされたのだった。

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