第9回 桔梗様登場

 翌朝。


 HRが始まる少し前、矢野主将が俺の様子を見に教室を訪れた。

 颯爽と現われたカッコイイ上級生にクラス中がざわめいていた。


「龍くん、体調はどうだい?」

「おかげさまで、すっかり元気です。ご心配をおかけしました」


「それは何よりだ」

 矢野主将は白い歯を覗かせ、いつものさわやかな笑顔で俺を見つめた。

「実は来週には朝練を開始する予定だ。早朝学習の前だから、かなり早起きしなければならないが、その点は問題ないだろうか?」


「問題ありません。中学の頃から早起きには慣れていますから」


「良かった。ここの……腫れも完全に引いているね」

 矢野主将が指先でそっと俺の瞼に触れた。そして、低く小さな声で言った。

昨夜ゆうべは泣かなかったんだね」


「え?」


 蚊に刺されたという言い訳はさすがに無理があったとしても、野球部に入部できた歓びで俺が一晩中嬉し泣きをしていたと、まさか本気で思っていたのだろうか。 

 むしろそう思われていた方が気が楽だが、矢野主将の今の口ぶりだと、昨日の俺の譫言と関連付けて何事か類推していそうな感じだ。


「じゃ、龍くん、今日も張り切って部活に参加してくれたまえ。待っているよ」

「は、はい」




 放課後。


 部室には異様な空気が漂っていた。

 それもそのはず。

 一人の女子生徒がパイプ椅子に座り、傍らに矢野主将をはべらせて何やら親しげに笑みを交わし、他の部員はそれを遠巻きにして佇んでいる。



 百合ヶ丘高校の一年生全員はその女子生徒を入学式の時に見ている。ある者は憧憬と尊崇の眼差しで、またある者は魂を抜かれ、完全に虜となって。その現象は男女問わずであった。

 ただ俺だけは、驚きと共に一つの懸念を抱いて彼女の顔を凝視していた。

 


「ここにおられる方だが」

 矢野主将がくだんの女子生徒の紹介を始めた。

「一年生のみんなは入学式で彼女の姿を目にしたはずだ。式次第を取り仕切っていたわが校の生徒会長、三年一組の水無瀬みなせ桔梗ききょうさんであられる。

 百合ヶ丘学院の理事長の令嬢であり、百合ヶ丘生からは『桔梗様』と呼ばれ、絶大な人気と信頼を寄せられる神的存在である。そして、ソフトボール部のキャプテンであり、この男子硬式野球部を創設するにあたっての一番の功労者でもある。ここを部室として提供し、内装をデザインして下さった。さらに、龍先生を野球部の監督として迎えるにあたり、最も尽力したのが、この桔梗様である」


 それほどの御方だったとは!

 生徒会長で、理事長の娘で、学校の神的存在で、ソフトボール部の主将で、男子硬式野球部の創設と龍洋人を監督として招聘した功労者。どんだけチート級なんだ!?

 はっ! ということは、洋人とは既に顔見知りということか。いっそう嫌な予感が募る。

 何故なら……


「今日、彼女がここに来たのは他でもない」

 僅かに頬を紅潮させ、矢野主将は続けた。

「なんと! われら野球部のマネージャーになって下さるというのだ」 


「ええ~っ!」

「おおーっ!」

「ひえーっ!」

「なんですとォ!?」


 先輩たちが驚嘆の声を上げていた。

 それとは対照的に、事の重大さと有難みを理解できていない一年生はぽかんと口を開けている。

 反応が見事に二分する中、俺は複雑な思いで桔梗様の顔を見ていた。


「では、桔梗様よりお言葉を賜るので、みんな謹聴するように」


 矢野主将の紹介を受けて、桔梗様は起立して皆にまんべんなく視線を送った後、第一声を発した。


「百合ヶ丘高等学校男子硬式野球部の諸君、今年、甲子園へ行きなさい!」

 

 明瞭にして高らかな命令形の声音から強固な意思が伝わってきた。異論は断じて許さない、と。


 一瞬の沈黙の後、先輩たちがはっとしたように我に返り、いっせいに拍手し始めた。

 桔梗様はそれを制し、尚も言葉を続けた。


「凛ちゃん……矢野キャプテンは、私の幼馴染みで可愛い弟分。その彼が約束してくれたのです。自分が男でない身を嘆いていた私の幼き日、凛ちゃん……もとい、矢野キャプテンは、私を甲子園へ連れて行くと。しかもベンチ入りで。

 凛ちゃん……いえ、矢野キャプテンは、その約束を果たすべく、私を追ってこの百合ヶ丘高校に進学し、野球部を創ったのです。

 諸君、この私のために甲子園へ行きなさい。そして、私も諸君のためにマネージャーをやります!」


「「「「 おおお ―― っ‼! 」」」」


 先輩たちが歓声を上げ、桔梗様の決意に力強い拍手で応えた。

 それに釣られるように、俺たち一年生部員も拍手をした。


 つまり早い話が、この水無瀬桔梗なる女子生徒、所謂『桔梗様』は、自分が甲子園に行きたいがために弟分の矢野主将に野球部を創らせ、自らがマネージャー役を買って出たということなのか。動機はともかく、熱意は感じられる。何より、マネージャーの存在は有り難いかもしれない。

 しかし、この場合は有り難みが度を過ぎている。様付けで呼ばれるハイスペックな神的存在の御方にマネージャーをさせるなど、畏れ多いにもほどがあるというものだろう。それに、本業のソフトボール部の方はどうするつもりなのか? って、そんなことよりも、俺にはもっと気懸かりなことがあるのだ。

 何故なら……


「君……」

 桔梗様は俺に目を留めるとつかつかと歩み寄り、じっと見据え、そして言った。

「確かに、似てるわね」


「俺も、そう思います」


 これこそまさに他人の空似というものなのだろう。

 桔梗様と俺は性別こそ違え、まるで双生児のように顔が酷似しているのだった。

 しかも、認めざるを得ない嘆かわしい事実として、その佇まいは男の俺より何億倍も男前でカッコイイときている。

 ロングレイヤードの艶やかな黒髪、心臓ハートを一撃で射抜くかの如き鋭い眼差し、透き通るような雪白の肌、紅く濡れたシャインリップ、何もかも、全てが黄金比で整えられたような美しい姿形……まるでファンタジー世界のプリンス、否、プリンセスだ。


「つくづく、君がうらやましいわ」


 ため息混じりのその言葉が、何故かやたらと切実さを帯びていた。

 ハイスペック、ハイクオリティの彼女に俺がうらやましがられる要素など、男であるというその一点を除けば皆無なのだが。

 本当はマネージャーとしてではなく、プレイヤーとして甲子園を目指したかったということなのだろうか。


「そう、ですか」


 どう応えて良いかわからない俺は、そう返すのがやっとだった。


 矢野主将を除く他の皆は桔梗様と俺の顔が似ていることに、この時初めて気づいたようで、「言われてみれば……」などと頷き合っていた。


 たとえ自分と似ているとはいえ、入学式の時に一度見かけたきりで、ヒエラルキーの頂点に君臨する雲の上のような御方とは到底関わることもないと、今の今までその存在を忘れてさえいたものを。

 ここにきて大いなる脅威となって、突如俺の前に立ちはだかることになろうとは。



 俺とそっくりな顔の来た。このことから生じる懸念は、唯一つ。

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