第7回 保健室にて

 目を覚ますと、見慣れない天井があった。

 周囲は白いカーテンで仕切られ、すぐそばには心配そうな顔で俺を見ている矢野主将がいた。


「キャプテン……? ここ、って……俺、どうなったんすか?」


 ランニング中に起こった激しい吐き気と眩暈。その後の記憶がない。


「ここは保健室だ。倒れた君を監督が運んでくれた。それだけじゃない。監督は……龍先生は、君が嘔吐して意識を失くした後、気管を詰まらせないようにと自らの口で残りの吐瀉物を吸い出してくれたんだ。事態は急を要した。そうしないと窒息する危険性があった。その躊躇ないとっさの判断と行動が君を救った。龍先生は教育者の鑑だよ」

「ヒ……監督が、俺のゲロを……」


 己の吐瀉物を喉に詰まらせて、危うく窒息しかけたところを洋人が助けてくれたというのか。義兄・洋人、命の恩人だ。

 義兄あにがいなければ俺は今頃、三途の川縁かわべりを彷徨っていたかもしれない。


「気分はどうだい?」


「……大丈夫です」

 少し頭がぼんやりしているが、吐き気や眩暈はおさまっていた。幾分、口の中が酸っぱいくらいで、急に倒れたにしては身体はどこも痛くなかった。

「キャプテンは、ずっとここに?」


「大切な部員を放っておけないだろう。君が眠っている間に、もしもまた嘔吐するようなことがあれば、その時は監督に倣って適切に対処する必要があるからね。

 それに、何より僕の責任だ。君をこんな目に遭わせたのは。練習前の飲食はいけなかったね。考えが足りなかった。心から反省している。本当に、すまなかった」


 悄然と項垂うなだれる矢野主将。その姿に胸が痛んだ。

 俺が食べ損ねたケーキをリベンジだといって用意してくれたというのに、その思いやりを俺があだにしてしまった。反省すべきは自分の方で、矢野主将を責める気は全くない。


「キャプテンは悪くありません。食べたのは自分の意思ですから自己責任です。それに、俺、ケーキ大好きなんで、キャプテンには感謝しかありません」

「そう言ってもらえると救われる。僕もケーキが好きなんだ。食べるのも好きだが、おいしそうに食べている人を見るのはもっと好きだ。ケーキを食べる時、みんな幸せな顔をしているからね。龍くんも幸せそうな顔をしていた。幼い子どものように無垢で、綺麗で……その顔をずっと見ていたいと思ったよ」

「えっ、あの……」


 俺を綺麗とか言う男が、ここにもいた。

 何げに被ってないか? 洋人と矢野主将のボキャブラリー。


「だけど……眠っている君を見ているうちに、とても心配になったことがある」

 やや表情を曇らせて矢野主将は続けた。

「ケーキを食べている時とは打って変わって、君はうなされながら苦しげな顔で『いやだ、ひろ、もうだめ』と、何度も譫言うわごとを繰り返していた。ただの夢ならまだしも、現実に何か心当たりでもあるのだろうかと、心配でならないのだが」


 ギクッ……!

 心当たりがあり過ぎる。それは昨夜、泣きながら俺がさんざん洋人に言った言葉だ。『このままじゃ……いやだ、ヒロ』とか『もう……ダメ』とか。


「その『ひろ』って人に何かされたのかい? 悩みがあるなら何でも言ってくれたまえ。主将として部員の悩みを解決するのにやぶさかではない」

「た、ただの夢ですよ。『ひろ』なんて人、ぜんぜん知らないですし、何もされていませんから」


『ひろ』は、もちろん洋人のことだ。しかし、俺がして欲しい肝心なことは、まだされていない。

 つまり、俺は半分嘘を言い、半分は本当のことを言った。


「知らない人間が夢に出て来るとは……そうか! もしかしたら、これは予知夢かもしれない。今後、君の前にそういう者が現われて、何かされないとも限らない。予兆があれば必ず僕に話したまえ。断固として阻止し、全力で君を守るから!」

「たぶん……大丈夫です」


 近い将来、きっと洋人と俺は身も心も深く結ばれることになる。しかし、そうなるからといって矢野主将に話すわけもないし、ましてやそれを阻まれたくもない。


「遠慮はいらない」

「……遠慮します」


 俺の返事に矢野主将が何か言いたげに口を開きかけた時、折しもカーテンがめくられ、その隙間から洋人と菊池副将が顔を覗かせた。


「龍の容態ようだいはどうだ?」

「矢野きゅん、部活終わったよ~。そんで、龍くんの制服と鞄、持って来たよ~ん」


「先ほど目覚めました。顔色は良くなったと思います」

「そうか。ありがとう。ご苦労だったな。後は俺に任せて、君たちは下校しなさい」


「キャプテン、ご迷惑をおかけして、すみませんでした。菊池先輩、わざわざ荷物をありがとうございました」


 俺は半身を起こし、改めて矢野主将に謝り、菊池副将に礼を言った。


「迷惑なんかじゃないよ。じゃ、また明日。監督、お疲れさまでした」

「監督、龍くん、お疲れさまでした~」

「うむ。お疲れさま」

「お疲れさまです!」



 矢野主将と菊池副将が去り、ふたりきりになると、洋人は野球部の監督の顔から俺だけの兄貴の顔になった。

 そして、限りなく優しい目で俺を見つめながら言った。


「亜斗里、帰ろうか」

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