第6回 グランド三十周!

「龍くん、どうしたんだい? 目が赤いよ。瞼も腫れているようだね。思うに、野球部に入部できた歓びで……すまない。調子に乗ってくだらないことを言いそうになった。よもやエースの君が部員数ぎりぎりの野球部に入部できたからといって、夜通し嬉し泣きしていた、なんてことあるわけないよね」


 思いきりくだらないことを言っているのは、矢野主将だった。


 放課後。

 部室に行くと既に練習着に着替えた主将がいた。


「蚊に刺されたんです」


 クラスメイトにも同じ言い訳をした。

 朝に比べれば充血や瞼の腫れはほとんど引いていたが、矢野主将には気づかれてしまった。

 二匹の蚊にでも刺されなければ両瞼が同時に腫れることなどあり得ない。こんな嘘はすぐに見抜かれるだろうが、義兄の腕の中で一晩中泣いていた、などと本当のことを言えるはずもない。

 昨夜の前半は関係が進まないもどかしさに泣き、後半は洋人の執拗な慰めのテクニックに泣いた。

『もう……ダメ』

 何度もそう言ったのに。


「両の瞼を刺すとは、なんと貪欲な蚊であることか! くれぐれも気をつけたまえ。日本脳炎やデング熱、さらには西ナイル熱などに罹ると厄介だ。

 ところで、龍くん、君にはこれをあげよう」


 俺の嘘の言い訳を信じたわけでもあるまいに、矢野主将はそう言うと冷蔵庫からケーキを二つ取り出した。昨日、俺が食べ損ねたものと同じ種類のイチゴのショートケーキとザッハトルテだ。


「どうして、今日も? キャプテン」

「昨日は野球部に入部できた歓びやら緊張やらで食べられなかったんだろう。そんな君がとてもいじらしくてね。つい胸がキュンとしてしまったよ。だが、今日はもう大丈夫だよね。これは君の分だ。さぁ、二個とも食べたまえ。そして、元気いっぱい部活をしよう」


 その発言には突っ込みたい部分も多々あったが、俺は早くも目の前のケーキに目が眩んでいた。 


「はいっ、ありがとうございます。いただきます!」

「ケーキにお茶は欠かせないので、今日はハーブティーを用意した。鎮静作用もあるらしい。その瞼の腫れにも効くといいんだが」


 矢野主将が淹れてくれたお茶は心が落ち着くような不思議な薫りがした。それに、初めての味だが嫌いではなかった。


「君の口に合うだろうか?」

「おいしいです」


 素直に感想を言うと彼は嬉しそうに微笑んだ。癒される笑顔だ。

 侮り難し! ハーブティー効果と主将の笑顔。



「ちわ~す!」

「ちゅーっす」

「っす!」

「どーもっす」


 しばらくして二年生部員が揃って部室にやって来た。

 掃除当番で遅れたとのことだ。



 副将の菊池きくち陽介ようすけ、会計の松井まついたかし、書記の高橋たかはし純也じゅんや安河内やすこうちゆうだ。

 会計や書記といった役職が運動系クラブにあるというのが珍しかった。


 四人とも矢野主将と同じクラスで、とても仲が良い。それに、ほのぼのとしてゆるくて優しい。体育会系クラブにありがちな序列やしごきや虐めといった好ましくないイメージとはかけ離れた雰囲気だ。

 二年生が最上級生の新設クラブであることも関係しているだろうが、一番の要因は発起人の矢野主将の人間性だと。その彼の許に集まってきた同志たちもまた、似た品性を持つのだろう。まさに『類は友を呼ぶ』だ。


 それにしても、野球というハードなスポーツに臨むプレイヤーとして、この緩さはいかがなものだろうか? よくスポーツ漫画などでは、負けん気の強い厳格な先輩や筋骨たくましい肉体派が登場する。彼らがそこにいるだけで周囲の人間が緊張を余儀なくされるような怖くて存在感のあるキャラクターだ。


 幸か不幸か、ここ百合ヶ丘高校野球部には、そういう人はいない。だが案外、現実はこうなのかもしれない。



「あっ、ケーキだ! 矢野きゅん、今日もあるの?」


 ケーキを頬張る俺を見つけて、菊池副将が頓狂な声を上げた。

 主将を『きゅん』付けだ。


「これは龍くんだけだ」


「え~っ、俺も食べた~い」

「僕もォ」


 菊池副将と高橋先輩が口々に言った。

 松井先輩と安河内先輩は物欲しげに指をくわえて無言のアピールをしている。


「龍くんは特別なんだ。昨日はいろいろあって食べられなかったから、今日はリベンジだ」


「……えっ?」


 俺は思わず驚きの声を漏らした。

 特別? リベンジ?

 ピックアップされた二つの単語が呼び覚ます瞬間のデジャヴ。脳裡をかすめたのは、洋人の言葉だった。


『リベンジだ!』

『亜斗里は特別なんだよ』


 昨夜のことを、また思い出してしまった。

 急に切ない気分になってフォークを持つ手が止まった。


「どうしたんだい? 龍くん」

「キャプテン、あの……自分だけ食べるのが悪い気がして」


 とっさに思いついた理由で誤魔化した。


「気を遣わなくてもいいんだよ。菊池くんたちにはお茶を淹れるから。君は遠慮しないで食べてくれたまえ」

「はい……」



 矢野主将はその後来た一年生たちにもハーブティーを淹れていた。


 主将自ら部員たちにお茶を振舞う百合ヶ丘高校野球部とは、いったい……!?



 そして、まったりと練習が始まった。




「君たち、やる気はあるのか!? そんな締まりのない顔で俺の指導を受ける気概はあるのかと訊いている!」


 ティータイムですっかり絆された顔でグランドに集合した九人に、やはりと言うべきか当然と言うべきか、監督の洋人から喝が入った。


「あります! 何卒、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします!」


 矢野主将が深々と頭を下げた。 


「なんだ? 矢野だけか?」


 洋人の鋭い視線が主将以外の全員に注がれた。

 俺たちは慌ててこうべを垂れ、「よろしくお願いします!」と大声を出して挨拶し、気を引き締め直した。



 うっかり忘れていた。洋人はこう見えて筋金入りの体育会系男子だったのだ。


 洋人の出身高校は、郷土の誇り、泣く子も黙る名門中の名門、天下のB L (ビューティフル・リバティ)学園である。甲子園のアルプススタンドの応援席に咲かせる紫の薔薇(ラプソディー・イン・ブルー)を象った人絵画マスゲームは有名で、その高い芸術性は国の内外を問わずアーティストの間でも注目されるほどだ。

 甲子園というネームバリューの高い大会に毎年のように出場し、何度も全国制覇を成し遂げた野球部の輝かしい歴代の戦績を讃える数多くの優勝旗(レプリカ)は、校内のビクトリーロードと呼ばれる廊下に設置された長大な展示ケースにずらりと並ぶ。

 洋人が在籍していた代は、春夏合わせて五回の連続優勝を果たし、三りゅうの真紅(夏の選手権大会)、二旒の紫紺(春の選抜大会)の優勝旗を手にした。この途轍もない前人未踏の大記録は『千年の不滅』と称され、高校野球の歴史にその名を刻む伝説となった。

 無論、そこに至るまでには常人の想像を絶する血と汗と涙の苛烈極まる地獄の修練があったことは言うまでもない。強豪中学から集められた猛者たちでさえ練習について行けず、毎年何人も脱落していった。

 俺の義兄・龍洋人はその中を生き抜いて一年生で頭角を現わし、五期連続でエースナンバーを背負って戦い続けた、伝説の立役者の一人なのである。



「ただ今よりグランド三十周! 時速8kmを目安に走れ。菊池が先頭で皆を引っ張り、矢野は殿しんがりを勤め、落伍しそうな者の尻を叩け。では、よーい、スタート!」


 いきなり懲罰的ランニングだ。このグランドの一周が約300mだとしたら9kmの長旅になるが、大丈夫だ。俺はロードワークは苦手ではない。


 しかし、余裕で走り抜いてみせると意気込んだものの、二周目にかかる頃から早くも体調に変化が起こり始めた。

 胃がむかむかして吐き気がする。直前に摂取したケーキとハーブティーの所為だろうか? せっかくの矢野主将の心遣いが仇になったというのか!?

 ハイペースのランニングで胃がシェイクされ、ついに内容物が込み上げてきた。


「うっぷ……っ」


 胃酸と混ざり合ったケーキが食道を焦土と化しながら喉元に上がって来る度に、無理やり胃に押し戻す。そんな荒業を何度か繰り返し、ひたすら気力を振り絞って走り続けるうちに、やがて眩暈までも襲ってきた。


 景色が歪み、地面がたわむ。 


 こんなコンディションで9kmもの距離を走破できるだろうか? 

 否! なんとしても踏ん張るしかないのだ。部活の練習初日からぶっ倒れるような醜態を晒したくない。特に、洋人の前では。


「うっ……」

 気分は最悪だ。身体が動かない。もう、限界だ!

「ヤバ……い……!」


 突然、景色が反転して視界が真っ暗になった。


「龍くんっ‼」


 俺を呼ぶ矢野主将の声を最後に、意識が途絶えた。

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