第5回 せめてその手で慰めて

 洋人の唇は少し厚めでしっとりとして肉感的だ。

 これが震いつきたくなる唇というものかと何度見ても見惚れてしまう。このエロさにれることはない。

 いったい、これまでに何人の男女がこの唇に魅了されたのだろう?


「ねぇ、大学時代、何人と寝た?」

「数えたことない。なんだ、妬いてるのか? 安心しろ。全員おまえに似てた」

「は? 何それ? そういう問題じゃないだろ」

「いや、重要な問題だ。俺はヴィジュアルから入るんだ」

「もうっ! ……今でも続いてる人いるの?」

「まさか。そんな面倒くさいのは無理」


 とりあえず、今は洋人には特定の相手はいないということか。


「そんなことより……亜斗里、また綺麗になったな。親父さんにあんまり似てないから、亡くなったお母さん似なのか?」


 洋人が俺の髪に指をくぐらせながら頬をすり寄せてきた。


「男に綺麗はないだろ」


 自分が母に似ているという自覚はない。

 アルバムに残る若い母は少女のように可憐だ。赤ん坊の俺を抱いている写真は、母子というよりも歳の離れた姉弟のようにも見える。華奢で小柄な可愛らしい雰囲気の女性だった。

 そんな母に関する記憶は、俺にはいっさいない。



 母は殺されたも同然だったと父から聞いた。俺を乗せたベビーカーを押して歩道を歩いていた時、後ろから猛スピードで走行して来た暴走自転車に追突された。俺はかろうじて無傷だったが、母は命を落とした。

 相手は子どもだったというが、やりきれない思いは今も俺の中に残る。



「おまえこそモテるだろう?」

「全然っ!」


 自分がモテる理由が見つからない。百合ヶ丘高校には男前のカッコイイ女子がそこかしこにいて、至る所で百合の花が咲き誇っている。まるで、あのジュエリーのような歌劇団のショーにも似た絢爛さで。そこに敢えて本物の男など必要だろうか?


「百合ヶ丘は女子が多いから、俺は心配で夜も眠れない」


 全く無用な心配をしている者がここに一名いる。


「昨日、速攻で深い眠りに就いてたやつが何言ってんだか」



 昨夜、遅く帰って来た洋人は慌ただしく部屋に荷物を運び入れ、「ちょっと休憩」とベッドに横になった途端に寝息を立て始めた。

 よほど疲れていたらしい。例のはしごで……?

 肩すかしを喰らった俺は、腹いせに洋人の眉毛を油性のマジックペンで繋げてやった。朝、洗面台の前で愕然とする洋人を見て爆笑したのは言うまでもない。



「忙し過ぎてバタンキューだったからな。その分、今夜取り戻す。リベンジだ! 

 亜斗里、今夜は寝かせないぞ」

「その臭い台詞、今まで何人に言ったんだよ?」

「だから、数えたことないって」

「サイテー」


 洋人が唇を重ねてきた。

 俺は少し焦らしてやろうと口を閉じたままにした。

 だが、洋人はそんなことおかまいなしだ。


「んっ……」

 

 唇を開きかけると、すかさず洋人の舌が歯列を潜り抜けて口腔に侵入した。

 俺がそれを絡めて吸い寄せると、洋人が微かに呻いた。

 その声にならない声に、俺も吐息を重ねる。


 待ちくたびれるほど待った、このキスに惑溺する。

 これを教えてくれたのは、もちろん洋人だ。


 柔らかくしっとりとしたシフォンケーキのような洋人の唇の感触に酔いしれて、俺は極上のケーキを貪る錯覚に陥る。

 俺の一番の好物がこれだ。本物のケーキでさえ代用品になり下がる。



 最初はただのじゃれ合いだった。

 出逢ってすぐの頃、互いに兄弟ができた喜びを純粋に分かち合った。

 まとわりついてくる小さな俺を、洋人はその温かな深い懐にしっかりと受け留めてくれた。

 その頃はキスは挨拶代わりで、ハグの延長線上にあるものだった。


『亜斗里、本当のキスはこうするんだ』


 舌を絡め合うキスを教えられた時、二次性徴を迎えていた俺の身体は激しく反応した。その後、処理の仕方を教わり、やがてふたりで快楽の追求が始まった。

 俺たちは互いの手を労し、時に洋人の柔らかな唇に包まれ、俺は身も心も蕩けた。


 だが、それだけで満足できる時期は、すぐに終わった。



「ヒロ、俺……もう子どもじゃないし。だから……」


 今夜こそとの思いで切り出した。

 今夜こそ、洋人との関係を進めるのだ。


 こんなにも濃密に睦み合っていながら、俺たちは未だ一線を越えていない。

 唯一、それが不満だった。そして不安でもある。俺は完全に洋人のものになっていない。だから、洋人を繋ぎ留めておけないのだと。


「俺の気持ち、わかってないな。俺はおまえが可愛くて仕方ないんだ。亜斗里は特別なんだよ」

「そんな『特別』いらない。ヒロは他の人にしていることを、どうして俺にしないんだ? 俺の気持ちこそわかってくれよ」

「焦らなくていい。先は長いんだ。俺たちにはたっぷり時間があるだろう」

「そのたっぷりな時間、キスとハグだけかよ。このままじゃ……いやだ、ヒロ」


 このままだと、寸止めの生殺しだ。


「どうしたんだ? 亜斗里、今日はなんだか生理前の女子みたいになってんぞ」

「何だ? それは?」

「こっちが聞きたいよ。俺はおまえとは真剣に向き合いたいんだ」


「ううっ、ぐすん」

 何故だか急に泣けてきた。

 情緒不安定なのは、やはり生理前だからだろうか? って、俺は男だ!

 論点をずらされてけむに巻かれた感じだった。それに、明らかに真剣に向き合っていない者から言われた『真剣に向き合いたい』の意味が、今ひとつわからない。

「だったら……お願いだから、もう他のやつと寝るな」


 俺は泣きながら訴えた。

 本当は、俺だけの洋人であって欲しいのだ。


 洋人は俺を抱きしめて何度も頷いた。

 俺たちはきつく抱き合った。寸分の隙間もないほど密着して。


 絡めた下肢が互いの渇望を知る。

 今はまだ、血肉に分け入って融け合えないなら、せめて、その手で慰めて。


 いっそ、何度でも。

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