第2回 部室へ行ってみた

 その日の放課後。



 女子ソフトボール部の隣に男子硬式野球部の部室はあった。他の部室に比べて明らかに間口が狭い。物置的な用途で使われていたとおぼしき部屋だ。中の広さも推して知るべしといったところか。

 既にその段階で悲愴感が漂っていた。

 あの矢野凛太郎氏から熱心に入部を誘われたら、同情心から断りきれなくなるかもしれない。そんな懸念を抱きながら、扉をノックして入室した。


「失礼します。一年七組の龍亜斗里です」


 長テーブルを囲んでパイプ椅子に座る生徒たちの視線が、いっせいに俺に向けられた。


「リュウリュウくん! よく来たね。来てくれると信じていたよ。さぁ、ここに座りたまえ」


 矢野氏はさわやかな笑顔で俺を迎え、わざわざ席を立って椅子を引いてくれた。


「ありがとうございます」


 既に新入部員らしき三人の一年生がいた。八組の生徒だ。どれも馴染みのない顔だが、まだ中坊感が抜け切れていない幼気いたいけな表情に何故かほっとさせられる。


 それにしても、此処ここは……!

 室内を見回して驚いた。

 淡いクリーム色の壁紙に、小さな窓には白いレースのカーテン、天井近くまである棚に整然と収納された用具類、きちんと閉じられたロッカー。さらには、冷蔵庫、流し台と給湯システムまで設えられてある。まるで女子の文化系クラブの部室だ。

 此処は、いったい如何なる空間か?


 しかしながら俺が最も驚いたのは、このファンシーなインテリアではない。

 実質的に俺を此処へいざなった本家本元、それは今まさに皆の視線を釘付けにし、甘ったるい濃厚な薫りを漂わせ、人数分をはるかに超える圧巻の物量で存在を主張していた。

 長テーブルの中央に並べられたそれは、言わずと知れた甘い誘惑、糖質の権化、スイーツの王の王、愛しのケーキ様に他ならない。 

 百花繚乱の如く多種類に及ぶ、ケーキ! ケーキ! ケーキ!

 ごくり。

 否応なく、生唾が口腔に満ちる。

 部室ここに足を踏み入れた瞬間から、俺は心の中でずっと「ワァ~ォ♪」と快哉を叫んでいたのだ。


「一年生諸君、われわれの声かけに応じ、来てくれてありがとう」

 矢野氏は新入生の俺たちに微笑みかけると、起立して姿勢を正し、落ち着いた口調で語り始めた。

「昨年、同好会として、ここにいる二年生五人で立ち上げた野球部は、今年、四人の新入部員の加入によって公式戦への参加が可能となり、正式に部活動として承認される運びとなった。これは実に喜ばしいことである。われら百合ヶ丘高校野球部の歴史の一ページが、ついにしるされたのだ。今日、集まったナインは、歴史の証人となる。

 そもそも、野球は九人で戦うスポーツだ。ぎりぎりの人数では心もとない。したがって、勧誘は随時行うつもりでいる。理想としては紅白試合ができるくらいの人数が欲しいところだが、それが望めない間は女子ソフトボール部との合同練習などを模索せざるを得ないだろう。案外それも楽しかったりするかもしれない。なので、みんな、退部せずにがんばってくれたまえ。

 何より、がんばる価値がここにはある。この百合ヶ丘高校で、唯一われら男子硬式野球部のみが、あの高校野球の聖地、甲子園を目指すことが許されるのだ。

 諸君、その矜持を努々忘れる勿れ。

 かくして本年度より、われら百合ヶ丘高校野球部は、甲子園出場、ひいては全国制覇を目標に始動する。今ここにいるみんながスターティングメンバーだ!」


 矢野氏の演説に二年生部員たちが熱狂的な拍手で応え、俺たち一年生は気圧けおされるように追随した。


 さりとて、誰も突っ込まないところが恐ろしい。たった九人の貧乏所帯で甲子園出場を目指すなど常軌を逸している。

 確かに、高校野球の歴史を紐解けば、過去において十一人の部員数で甲子園への出場を果たし、ブームを巻き起こした高校がある。だが、それは有能な指導者がいてこそ成し得た偉業である。

 この百合ヶ丘高校野球部に、それらしき指導者がいる様子はない。


 否! 俺の一番の突っ込みポイントはそこに非ず。

 問題は、未だ入部の意思表示もしていない俺が、いつの間にか新入部員扱いされ、しかもスターティングメンバーになっているという点だ。

 つまり、部室を訪ねるイコール入部の意思有り、と看做されたわけである。ただ、ケーキに釣られて来ただけなのに。

 しかし、まだ猶予はある。入部届を俺は書いていない。


「さっそくだが、リュウリュウくん」

 矢野氏が俺の前に一枚の紙とボールペンを置いた。

「君のカッコイイ名前を漢字でここにさらっと書いてくれたまえ」


「これは……!」

「楷書できれいにね。是非、読み仮名も振ってくれ。今どきの若い子の名前は先生方が読みづらいらしいのだ」


 目の前に置かれたのは、入部届の用紙だった。


「あの、でも……」


 俺以外の三人の一年生は既に届け出済みなのか、矢野氏と俺のやりとりには無関心で、彼らの飢えた視線はひたすらテーブルの上の百花繚乱ケーキに注がれていた。おそらく脳内は『ど・れ・に・し・よ・お・か・な~♪』と幸せな選択の最中に違いない。


 俺が入部届の用紙を前にしてまごついている間に、矢野氏は他の皆に告げた。


「さぁ、部員のみんなは各自好きなケーキを食べていてくれたまえ。一人に三個以上ご随意で行き渡るはずだ」


 その言葉を皮切りに、待ってましたとばかりに手が伸びて、皆それぞれ好みのケーキを次々とゲットしていった。


「リュウリュウくんはこれに名前を記入してからだよ」


 つまり、入部届にサインをしなければ俺はケーキを食べられないということだ。

 交換条件などという生易なまやさしいものではない。これは、俺にとっては拷問に等しい。

 ナイスガイ・矢野、見かけによらず策略家か!?


 ええぃ、ままよ!


 俺は書いた。自分のカッコイイ名前を漢字できれいに書いた。読み仮名も振った。


「書きました。どうぞ、よろしくお願いします」


「龍亜斗里……」

 俺の入部届を手にし、矢野氏は感慨深げにしみじみと名前を読み上げた。

「あたかもアニメの主人公のような素敵な名だ。『アトリ、行きまーす!』とかいう声が聞こえて来そうだ。とても感動的だよ。ありがとう、龍くん。

 ようこそ、われら百合ヶ丘高校野球部へ。さぁ、今こそ君もケーキを食べたまえ」


「いただきますっ!」


 いろいろ突っ込みたかったが、構っている暇が惜しいので全て帳消しにした。

 俺は甘い誘惑に負けた。

 結局、己の喰い意地に背中を押されて野球部への入部を決めた。



 紅茶が注ぎ足され、ケーキのおかわりが各自の皿に盛られる。

 男子だってケーキが好きなのだ。皆、幸せな表情かおをしているのが何よりの証拠だ。



「ここで全員の自己紹介、と行きたいところだが、その前に紹介したい人物がいる。このことは二年生も知らない。全くのサプライズだ。

 なんと、本年度からこの百合ヶ丘高校野球部に監督を招聘することになった。しかも、その人物というのは、高校球児並びに高校野球ファンなら知らない者はいない超有名人だ」


 どよめきが起こる中、矢野氏はそこでいったん言葉を切り、腕時計に目を遣った。

 折しもその時、部室の扉がノックされた。

 矢野氏は丁寧に扉を開いて来訪者と対峙した。


「お越しいただき、ありがとうございます。時間に正確ですね。さぁ、どうぞ」


 そう言って、来訪者を招き入れた。


「紹介しよう。この御方こそ、われら百合ヶ丘高校野球部の監督を引き受けて下さることになった、かつての甲子園のヒーロー、龍洋人ひろと先生である!」


 龍洋人? 何処かで聞いたことのある名前だ。

 二個めのイチゴのショートケーキから目を移し、紹介された男を見て、俺は紅茶を噴いた。


 ……ヒロ‼⁇

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