第5話 ベビーベッド脱出大作戦
生まれてから、ちょうど二百十日。前世の基準ではおよそ七ヶ月くらいだ。
ついに、俺はハイハイができるようになった。これで行動範囲が広がる!
また、ルーナが俺にかける言葉の意味がほだいたいわかるようになった。日本語と似ても似つかない響きだし、翻訳ツールもないから、わからなかったらどうしよう、と当初は不安だった。しかし、実際にやってみるとなんだか謎解きみたいで案外楽しかった。間違えても怒られることはないので、とても気楽だった。
他の人と話すときは、難しい言葉がたくさん出てきてまだわからない部分も多いが、ある程度わかるようになったのは大きな進歩だと思う。
乳幼児の頭はスポンジみたいに何でも吸収する、というのは本当だったようだ。この調子でさらに言葉を理解して、文字も覚えていきたいところだ。
というわけで、本に触れるために二階の書斎に行きたいのだが……ここで大きな障壁が立ちはだかった。
まず、ルーナがベビーベッドから俺を出してくれないのだ。
安全のためもあるのだろうが、俺は基本的にこの中に囚われている。それは今も例外ではない。
ママ! 私をベビーベッドから出して!
ということを伝えようと、現地語で声に出してみても、俺の発達途中の口では、
「うあうあああああ、あんいああんいああぱぱ」
という謎の言葉しか喋れなかった。
しかも、ルーナはただ俺が無意識に意味のない声をあげていると思ったらしく、微笑むだけで俺を出してくれない。
もちろん、ルーナは俺をずっとこの中に閉じ込めているわけではない。出してくれるときはあるのだが、ルーナの監視下にあるので、好き勝手に行きたい場所に行くことができないのだ。
俺って、もしかして何かの罪を犯して収監されているのかな……ベビーベッドに。
しかし、俺はこのまま囚われっぱなしになる気はさらさらなかった。脱出するために、数日かけて作戦を練っていたのだ。
今日も、ルーナは俺をベビーベッドから出してくれない。今は俺に背を向け机に向かっている。
すると、彼女は立ち上がって、部屋のドアを開けて出ていった。
確かあのドアの向こうにはトイレや風呂に繋がる廊下が伸びているはずだ。
その俺の予想を裏付けるように、トイレのドアが閉まる音がバタンと聞こえる。
俺はルーナの出す物音が完全に聞こえなくなったことを確認すると、ある作戦を実行に移す。
名付けて、ベビーベッド脱出作戦!
この作戦はシンプルだ。ただベビーベッドから脱出するだけである。
しかし、その脱出がものすごく大変だった。
ベビーベッドの柵の一面は開閉するようになっていて、そこには外側に回転式の簡易的なロックが取り付けられている。
前世の高校生の俺なら、そのロックをいとも容易く回して開けられただろう。だが、今はそう上手くいかない。手の動かし方は確実に上達しているので、ロックの解除はできるだろう。だが、座ったままではそもそもロックに手が届かないのだ。
セキュリティが甘いと思いきや、意外と厚いのがこのベビーベッドなのだ。
これまでの俺にとっては。
しかし、俺の体はかなり成長して、這いずりもハイハイもできるようになった。それならば、
俺はまず、尻餅をついて座り、そこからベビーベッドの柵に掴まって、徐々に立ち上がっていく。足がプルプルと震えているが、気合と根性で我慢する。
そして、ついに俺は掴まり立ちをした。とりあえず作戦の第一段階、クリアだ!
しかし、まだ安心してはいけない。俺は慎重に、慎重に柵を辿って足を動かしていく。ちょっとでもバランスを崩せば倒れてしまう。俺は、この世界に生まれてから一番緊張していた。
俺は、なんとかベビーベッドの開閉する面へ辿り着いた。柵に掴まって、その隙間からベビーベッドの外側についているロックに指を引っ掛けて回し、解錠する。
よし、解錠完了! 俺は柵から手を離して尻餅をつく。
そして、ハイハイをしてゆっくりゆっくり柵を押していく。こうして、俺は何とかベビーベッドの入り口を開けることに成功した。
なんだか、囚人が刑務所から脱獄する光景みたいだ。だが、俺は囚人でも何でもない。ただのベイビーだ。
幸いなことにベビーベッドの底面は床とほぼ同じ高さだった。俺はそのまま外に出る。
よし、脱出成功!
俺は小さくガッツポーズ。予想外にうまくいって一安心だ。
だが、脱出は目的ではなく、ただの手段に過ぎない。真の目的は二階の書斎、そこにある本だ!
*
ズリ、ズリ、ズリ、ズリ、ボテ。
この音だけを聞けば、ホラー映画に出てくるゾンビが這いずる音のようだが、実際は違う。俺が一生懸命階段を上る音だ。
最初は段差を上れないかもしれないと思ったが、運がいいことにギリギリ上れる高さだった。かなりの時間がかかったが、俺は階段を上りきって二階に到達する。
つ、疲れた……。かなり体力を消耗してしまった。
だが、目指す書斎はすぐそこ。階段を上がってすぐの一番近い部屋だ。
そこで、俺ははたと気づく。
そういえば、ドアノブがかなり高い位置にあったような気がする。はたして俺の身長でそこに届くのか?
しかし、結論から言うと、ドアノブを掴む必要はなかった。ドアがきちんと閉まっていなかったのだ。
俺はドアに頭突きして、ドアをゆっくり開けていく。ドアノブには俺の身長では届きそうにない。運が良かった。
書斎の床はかなり綺麗だった。やはりルーナが魔法で定期的に掃除をしているからだろう。
本棚は床から天井付近までかなりの高さがあり、それぞれの段にはたくさんの本が詰まっている。とりあえず、俺は一番下の薄そうな本を手に取って表紙をめくり、最初のページを見る。
……わ、わかんねー! 何が書いてあるのか、さっぱり読めない。
でもそれは当たり前の話だ。言葉を知っていても、どの発音がどの文字に対応しているのかがわからないと読めない。それに、この本の内容はどうやらかなり難しいようだ。
俺は本を戻して、なんとか俺にも理解できそうな、できるだけ薄い子供向けの本を探す。
だが、しばらく本を漁った後、俺は諦めた。
やはり書斎だからか、今の俺にはレベルが高すぎる本しか置いていないようだ。
子供向けの本〜、と念じながら、俺は書斎から退却する。少し苦労したが、本は元の場所に戻しておいた。
ただ、収穫がないわけではない。俺が手に取った本は、段組みがしっかりしており、同じ文字はまったく同じ形をしていた。
つまり、この世界には印刷技術がある。もしこれが活版印刷で、この世界が前世と同じように発展しているのなら、少なくともこの世界は前世の十世紀以降相当の技術力を持っていると推測できる。
それにしても、俺が読めそうな本がないのは残念だ。そう思って一階へ戻ろうとした時、俺の脳裏に電球が灯った。
二階には書斎だけではなくシャルの部屋もあるはずだ。彼女はまだ子供と言える年齢で、昼間は学校へ通っている。ならば、彼女の部屋に子供向けの本があってもおかしくはない。しかも今、部屋には誰もいない。
目的地変更、シャルの部屋へ!
俺は書斎の隣にある彼女の部屋へ向かう。
その部屋も書斎と同様にドアが半開きだった。閉めるならちゃんと閉めろよ、と思わず言いたくなる。これじゃあ、ドアの役割を果たしていないじゃないか。
ただ、俺にとってはラッキーだ。先ほどと同じく、頭でドアを押して部屋の中に侵入する。
シャルの部屋は、前回見た時とほとんど変わっていなかった。
時間があれば、この部屋をじっくり観察したいところだが、目的を履き違えてはいけない。俺は子供向けの本〜、と念じながら、シャルの部屋の捜索を開始する。
すると、部屋の隅の小さな本棚の一番下に、ボロい小さな本があるのを見つけた。
もしかして……。
手に取って開いてみると、大当たり。文字数の少ない子供向けの絵本だった。しかも、最後のページには文字の表までついている。おそらく、シャルが幼いときに読んでいた本だろう。
とりあえずパラパラとめくって、内容を大雑把に把握する。
どうやらこの本は物語を楽しむというよりか、単語を学習するための絵本のようだ。一ページあたりだいたい三つほどの単語が絵とともに載っている。単語と絵が対応しているようで非常にわかりやすい。
この本を読めば、少なくともいくつかの単語の綴りはわかるようになる。いずれはルーナに音読してもらって発音も教えてもらおう。
俺は最初のページを開くと、早速読書を始める。だが、次の瞬間。
「ただいまー!」
下の方でドアが勢いよく開く音がして、威勢の良いシャルの声が聞こえてきた。そして、ドンドンと階段を上ってくる音。
あ、マズい、どうしよう! シャルがこっちに来る。勝手に部屋に侵入したことを怒られるかもしれない。それに、せっかく見つけた本を取り上げられるかもしれない!
俺は本を慌てて閉じると元の場所に戻そうとする。だが、シャルのスピードは想像よりとても速かった。
「なんでドアが開いて……」
俺は、そう言いかけて部屋に入ってきたシャルと、目が合った。一瞬、無言の時間が流れる。
……と、とりあえず、スマイルスマイル!
「なんでフォルがここに……?」
とにかくスマイルスマイル! ニコニコしていたら、誰だってきっと赤ちゃんに怒る気なんて失せるだろう、たぶん。
「あれ、この本は……?」
シャルの視線が俺の手にある本に移動してきた。
やべ、まだしまっている最中だった。まさか、取り上げられてしまうのか⁉︎
だが、事態は予想外の方向へ転がる。
「読みたいのなら、読んであげようか?」
おおう、怒られると思ったら、逆に俺の望んだ展開に! シャルはこの状況から、俺の意図を正しく読み取ってくれたみたいだ。もちろん、綴りと発音を一気に習得できるこのチャンスを逃すわけにはいかない。
俺は、激しく肯定の意味で首をガクガクと縦に振る。これも首がすわったからできる芸当だ。
「じゃあ、読んであげるね!」
そう言って、シャルは背負っていたリュックを置くと、俺の後ろに座って背後から本を持って読み上げ始めた。
俺の望み通りにしてくれるなんて、シャルがまるで神様に見える。ああ、シャル神様〜。
俺がベビーベッドから消えたことに慌てたルーナがやってくるまで、俺はシャルの声を聞いて、単語の習得に努めるのだった。
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