第3話 転生、そして──



 俺は、赤ちゃんに転生していた。


 つまり、あの暗い空間は母親の子宮の中で、俺は胎児だったのか。確かに、そう考えるといろいろと辻褄が合う。暗闇に包まれていたのも、俺と母親の心臓の音が聞こえてきたのも、ふわふわと浮いているように感じたのも、時々母親が食べたものの味を感じたのも、押し出されるようにして外の世界に出たのも。


 現在、五感は完全に機能しているようで、全身で周りの世界を感じている。


 ここで、俺はお腹の上に何かが乗っかっていることに気づいた。


 これは紐、だろうか?


 そう認識した直後、俺はその正体を察する。なるほど、これが臍の緒か。ここからは見えないが、実在するんだな。もしかしたら記憶にないだけで、前世でも同じように紐が乗っているな、と感じていたのかもしれない。


 また、目が慣れてきたのか、真っ白で何も見えなかった状態から、周りが見えるようになってくる。ただ、そうはいっても輪郭がぼやけて全然はっきりしない。色味もほとんど感じられず、明暗がわかる程度だ。前世で俺は視力2.0だったので、ここまで何も見えないのはとても奇妙な感覚だった。


 ただ、俺の目の前に誰かの顔があることはわかった。かなり近いところにいるので、比較的はっきり見える。暗い髪をおさげにしているお姉さんだ。年はかなり若く見える。十五歳前後だろうか? なんだか訝しげに俺のことを見ている。


 ……あ、もしかして、生まれたときに赤ちゃんが泣くのは、この世界でも同じなのか? というわけで、ちょっと声を出して泣くか。



「ホギャーー! ホギャーー!」



 自分の喉から予想よりもはるかに赤ちゃんっぽい、威勢の良い泣き声が出て、自分でもびっくりする。変な泣き声を出してしまって余計怪しまれるかもしれない、と危惧したが、その心配は無用だった。


 この俺の泣き声を聞いて安心したのか、お姉さんの表情が穏やかな笑顔に変わる。


 ふー、良かった。俺の判断は間違っていなかったようだ。


 俺は辺りを見回そうとする。しかし、首が自分で動かせない。そうか、生まれたばかりだから首がすわっていないのか。


 ちくしょう、赤ちゃんの体って不便だなー!


 そんなことを感じていると、お姉さんは誰かに何かを話しかけて、そばに置いてあったらしきものを手に取る。

 角度と距離的に俺からはその正体が見えないが、どうやらそれに何かを巻き付けているようだ。


 そして、お姉さんは別のものを持つ。今度は、お姉さんの持っているものが俺にも見えた。最初は何かわからなかったが、近づいてきたことでそれの正体を理解して、俺は戦慄する。


 それは、黒光りするハサミだった。俺の体が小さいからなのか、ものすごく大きく見える。お姉さんは笑顔のまま、ゆっくりとそのハサミを俺の方に近づけてくる。


 ももも、もしかして俺を殺そうとしているのか⁉︎ やめてくれー! せっかく転生して生まれてきたところなのに。また死にたくない! そう喚こうとしたが、俺の未発達な声帯から出た声は。



「ホギャーー! ホギャーー! ホギャーー!」



 わかってはいたが、ダメだった。生まれたばかりなのに、『天上天下唯我独尊』なんて喋れるわけないんだよ!


 声でダメなら、実力行使だ。俺は腕や足を動かして抵抗しようとする。しかし、リーチは足りないし力も弱い。手足は微かに上下するのみで、お姉さんは気にするそぶりすら見せない。


 しかも、思ったよりも疲れる……。そりゃそうだ、生まれたばかりの赤ちゃんだもの。体力なんてあるはずがない。


 そうこうしているうちに、ハサミはすぐそこまで迫ってきていた。もはや俺に抵抗する術はない。


 ああ、せっかく転生したのに、ここで死んでしまうのか……。俺は自分の運命を悲しんだ。せめて、自分が傷つけられる場面は見まい、と俺は目をキツく瞑った。



 そして、チョキン! とハサミにカットされたのは、俺の体……ではなく、臍の緒だった。


 ……ははぁ、なーんだ、びっくりした。臍の緒を切っただけか。パニックになってしまった。


 考えてみれば、赤ちゃんを殺害するんだったら、俺が母親の体内にいた時点でどうにかしているよな。わざわざ生まれてから殺すより、流産させる方がはるかに簡単だ。


 すると、俺は急に抱き上げられる。何事かと思っていると、別の女性が俺をタオルに包んで、自分の方に近づけているところだった。


 最終的に、俺は女性を見上げる形になる。明るい髪の、ロングヘアーの女性だ。最初のお姉さんとどこか顔が似ているような気がする。年齢はさっきのお姉さんよりも上で、十七、十八くらいだろうか。前世で死んだ時の俺と同い年くらいだろう。


 俺は直感で、この女性が俺の母親だとわかった。確固とした根拠はないが、そうに違いない。これが、母子の絆というやつだろうか。


 それにしても、この年で出産とは……かなりの若年出産だ。この世界では、このくらいの年齢での出産が普通なのだろうか? 前世では、俺の周りにはこの年で出産している人なんていなかったし、そもそも結婚している人すらいなかった。田舎ならこのくらいの年齢で結婚・出産している人もいるかもしれないが……それにしても若い。


 俺は、母親の膝の上に乗せられる。体勢的に、母親を見上げる形になった。


 ……それにしても、おっぱいデケぇな!


 その大きな胸が張り出しているせいで、母親は俺の顔を見づらそうにしている。俺と同い年でここまで成長しているとは……。しかも美人だし、前世でこんな奴がいたら絶対男子の注目の的になっているだろうな!


 ここで、母親と目が合った。俺はどういう表情をすればいいか一瞬迷うが、とりあえず笑顔を浮かべることにする。スマイル! スマイルは人間関係の第一歩だ!


 俺はニコッ、と笑う。上手くできているかはわからないが。


 だが、母親はにっこりと笑ってくれた。どうやらスマイルはちゃんとできているらしい。


 ふぅ、なんだかちょっと疲れてきた。やはり、泣いたり暴れたりしたからだろうか。本当に赤ちゃんは体力がない。なんだかお腹も空いてきた。


 すると、そんな俺の欲求を察したのか、母親は胸元を開き始めた。そして、左の乳房を出すと、俺を抱えて近づけた。


 お、おお、おお! 俺の目と鼻の先に巨乳がある!


 俺は動揺してしまう。前世ではもちろん童貞だったし、レーティングもきちんと守ってきた。だから、俺はこういう状況に遭遇したことも見たこともなかった。


 というか、俺は今、赤ちゃんなのだから、乳離れするまでは必然的に俺のご飯=母乳だよな? 栄養的には優れているとはいえ……精神的にちょっとキツい。


 でも、飲まないと俺は餓死してしまう。赤ちゃんはなおさら体力がないから、すぐに死んでしまうだろう。それに、これから何度もこのような状況がやってくるはずだ。


 ここは恥ずかしさを堪えるしかない! 前世でも赤ちゃんの時は、母親のおっぱいを吸っていたはずだ。そして今、俺は赤ちゃん。何もおかしいことはない。勇気を出すんだ、俺!


 というわけで、俺は母親のおっぱいをちゅーちゅー吸い始めた。


 うわ、羞恥心やばい……。でも、意外と美味しいかも……。






 *






 生まれてから二日目の夜。周りが暗い中、俺は目覚めた。


 寝ていたところを触ると、モフモフしている。どうやら、布団らしきところの上で、仰向けに寝かされているようだ。自力で頭を動かせないので、目だけを最大限に動かして辺りを見回すと、木でできた柵のようなものがかろうじて視界の端に入った。おそらくここはベビーベッドだろう。


 近くに母親の姿はない。これまでずっと母親の近くにいたので、少し不安だ。たぶん、寝てしまっているのだろう。さすがに世話を放棄してはいないだろうから、近くに待機しているとは思うが……。


 こんな夜中に目覚めたので、さっさと眠りたいのだが、そうは問屋が卸さない。なぜなら、赤ちゃんの生活リズムはものすごく独特だからだ。


 眠ったら覚醒。そして食事。それからしばらく眠って覚醒。そして食事。その繰り返しだ。どうやら朝も昼も夜も関係ない。一日の睡眠時間は合計すると四分の三ほどになりそうだ。赤ちゃんって、本当に眠るのが仕事なんだな……。


 もちろん、食事は母親の母乳。何度も与えられて、いい加減慣れてきた頃合いだ。恥ずかしいという感情も薄れてきている。


 ただ、厄介なのが排泄だ。言うまでもなく、生まれたばかりなので俺は自力でトイレに行くことができない。それに、体が未発達なので、ほとんど下痢に等しいし、それを垂れ流すことしかできない。体は〇歳、意識は十八歳なので、本当に精神的に参りそうになる。これもそのうち慣れていくのかもしれないが……。


 ああ、早く成長して自分でできるようになりたい。



 とりあえず俺は眠くなるまで、状況を整理することにした。


 まずは、俺を取り巻く人物についてだ。


 今までにこの世界で確認できた人物は二人。一人は明るい長髪の十八歳くらいの巨乳の女性。どうやら、この人が俺の母親のようだ。もう一人は暗い髪をおさげにしている十五歳くらいのお姉さん。二人は顔が似ている。もし二人が親族ならば、お姉さんも俺の親族になる。考えられる中で一番もっともらしい茶髪のお姉さんと俺の関係は、叔母と甥だろうか? まあ、そのうちわかるだろう。


 ちなみに、俺の父親らしき男性はまだ見ていない。遠くに出張しているのだろうか? それとも、育児に無関心なのだろうか? すでに死んでいるとか、失踪しているとか、実は他に本妻がいるとかだったら嫌だなぁ……。


 でも、若い女の人が二人だけで暮らしているなんて不自然だ。だから、この家には少なくとも一人以上の男性がこの家に同居していると思う。まだその姿は見ていないが、きっとこれから会えると信じている。もちろん、父親が出てきてくれれば一番良いのだが……。


 俺は視線を天井から逸らす。


 ベビーベッドが接している壁には大きな窓がある。俺の位置からはそれを通じて空が見えた。夜空には、散りばめられた無数の星が明るい帯を形作っていて、その隣には大きく明るい丸い光が一つある。それぞれ、前世の天の川に相当する星々と、前世でいう月にあたるこの惑星の衛星だろう。


 ただ、その他の景色は何も見えない。窓の位置が高く、俺が仰向けになっているため、どうしても上しか見えないのだ。窓の外の地上付近がどうなっているのかはわからない。建物が立ち並んでいるかもしれないし、鬱蒼とした森になっているかもしれない。



 次に、この家について。


 まず、この家は木造だ。一部は違うが、ほとんどの部分が木でできている。


 一階には、リビング、キッチン、ダイニング、暖炉があることが確認できた。どうやらかなり広い家のようだ。俺が見ていないだけで、もっと部屋があるだろう。もしかしたら、お金持ちの家なのかもしれない。やったぜ。


 また、この家には少なくとも二階以上があることもわかっている。二階があることを確信したのは、上へ繋がる階段を見たからだ。ただ、何階まであるのかはわからないし、もしかしたら二階ではなく屋根裏部屋に繋がる階段かもしれない。


 さらに、この家には電球や冷蔵庫などの家電の類はないようだ。つまり、俺が生まれたのは電気エネルギーの利用法が発達していない社会か、電気エネルギーの恩恵を受けられないほどの辺境か、そのいずれかだ。ちなみに、家の灯りにはランプらしきものが使われていた。


 そして、この家が木造であることと電気が通っていないらしいことから、この世界は技術レベルが前世で俺が死んだ時点には達していない可能性がある。夜空に綺麗な星が見えることもその仮説を支える証拠の一つだ。この家が街中にある場合、街には夜になると星の光をかき消すほどの強い光源がないということになるからだ。それに、空気が綺麗なので、煤煙などを出す工業が未発達である、とも予想できる。



 さて、状況を整理したところで、これからの方針を決めよう。


 生まれてからまだ日が浅いため、体力が全然ない。だから、当分の間はおとなしく体の成長を待って、体力をつける。その間に言語の習得に取り組んで、なるべく早く話の意味を理解できるようになる。体が成長してある程度自由に行動できるようになったら、家の中を探索し始める。


 そして、ここからはある意味博打になるが……もし、この家に本やそれに類するものがあるのなら、それを見つけて、この世界の文字の読み方、書き方を習得して、この世界のことをより詳しく学ぶ。


 さらに、歩けるようになったら、家の外の探索もする。ここまでを三歳くらいまでにはやっておきたいところだ。


 とにかく、重要なのは情報だ。まずはこの世界についての情報を手に入れることが、この世界で生き抜くための鍵となる。前世で友人に貸してもらった異世界転生もののライトノベルが少し役に立った。ありがとう、友人! あの時無理やりにでも俺に貸してくれて!



 俺はこれから歩む第二の人生に想いを馳せる。


 この先、いったいどんな人生が待っているのだろうか。俺の目の前にはレールは敷かれていない。どうするもこうするも、俺の選択次第だ。そう考えると、とてもワクワクしてくる。


 前世では、俺は母親に敷かれたレールの上を歩み、そこから外れる勇気をついぞ持てなかった。


 だったら、この世界では自由に生きてやろう。なぜか知らないが、幸運にも舞い込んできた二度目の人生。事故死でそのまま消滅するのでもなく、あの世に行くのでもなく、どこかの誰かの子供として生まれ変わった。これからの人生のレールは、俺自身が敷くんだ。そして、思い切ってレールから外れられるような、何にも囚われずに自由に生きていく勇気を持つんだ。


 一度目で後悔したことを、二度目では絶対に後悔しないようにしよう。そう俺は決意した。


 この時、ちょうど眠気がやってきた。俺はこのまま眠りにつこうとする。


 ……そういえば、ずっと股下がスースーするんだよな。思い返せば、生まれた時から少し違和感があった。


 そして、俺は気づいた。気づいてしまった。






 俺、女の子だ。






 俺は、『転生』だけではなく、『転性』もしていたのだった。


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