第1章 自宅編

第2話 謎の空間



 気がつくと、俺は真っ暗な空間にいた。

 身体の感覚はなく、意識だけが空間に取り残されているような感じだ。その意識も少しぼんやりとしている。


 眠気……だろうか? それなら、眠気覚ましに、これまでのことを思い出してみよう。


 まず、この空間にいると気づく前、何があった?


 ……そうだ。大型トラックに轢かれたんだった。

 こちらはちゃんと横断歩道が青になってから渡っていたので、トラックが信号無視をしていたことになる。急ブレーキをかけていたのに俺にぶつかってきたのだから、きっとかなりスピードが出ていたのだろう。


 トラックの運転手は、雨で視界が悪かったために俺を見落としていたのだろうか。はたまた、眠気で注意散漫になっていたのだろうか。とにかく、人を一人轢いているわけだから、法的な責任は免れないだろう。


 ただ、俺にもこの事態を避けるための行動はできたはずだ。図書館の前の道は見通しが良い。だから、スピードの出ているトラックが迫ってきていることには、たとえ距離があったとしても気づけたはずだ。それができなかったのは、俺が勉強のしすぎで疲れていて、ぼんやりしていたからだろう。


 いろいろ考えているうちに、だいぶ意識がはっきりしてきて、頭の回転も良くなってきた。


 それでは、一番重要なことを考えよう。


 すなわち、この空間は何か?


 とりあえず、俺はトラックに轢かれた。そして、気づいた時にはこの空間にいた。


 ……手がかりが少なすぎる。とりあえず、死んだと仮定して話を進めよう。あの状況から生還する可能性は絶望的だ。


 まず思いつくのは、この空間はあの世であるという説だ。


 俺がかつて生きていた世界──とりあえず前世とでも呼ぼうか──では、あの世が本当にあるのか、という議論が盛んだった。だが、あの世が実在するという科学的な証拠を突きつけた人は、俺の知る限りいなかった。なぜなら、死は不可逆だからだ。


 その『死』の後に俺はこの空間に存在している。つまり、ここは前世でいう『あの世』、というわけだ。


 次に考えられるのは、ここは前世と同一の世界のどこかだ、という説だ。もしかしたら、俺は精神体となって、宇宙の巨大なボイドの中を彷徨っているのかもしれない。さらに、時間軸も移動している可能性がある。俺が生きていた時代の数千年後かもしれないし、数万年前かもしれない。


 あと考えられるのは、異世界転生だろうか? 以前友人に貸してもらったライトノベルにそういう話があった。だが、所詮は人間の空想。あり得るかもしれないが、本当にそうである可能性は低いだろう。



 さて、俺がいるこの空間は、この三つのうちどれなのだろうか?



 ずっと考えていても埒は開かない。まずは手がかりを掴むために、この空間がどのようになっているのか確かめよう。


 視覚。……何も見えない。いくら目を凝らしても、この空間は一様等方に真っ暗だ。どのくらい暗闇が広がっているのかはおろか、俺が今どこにいるのかすらわからない。そもそも視覚がないのかもしれない。


 聴覚。……何も聞こえない。いや、違う。よくよく耳をすませば、何かが脈打つ音が聞こえる。しばらく聞いていると、そのドクドクという音は二種類あるらしいとわかる。大きくて音が高くテンポが速い方と、その反対、小さくて音が低くテンポが遅い方だ。どうやら幻聴ではないらしい。いったい何だろう? 心臓の音に少し似ているような……。

 さらに、俺は声を出そうとするが、何も聞こえてこない。声が出せないのか、そもそも発声器官がないのか……。


 嗅覚。……何も匂わない。前世では俺が典型的な花粉症で、年中鼻が少し詰まり気味だったのが影響しているのだろうか。そもそも嗅覚がない可能性もある。


 味覚。……なんだか甘い感じがする。うーん、これは味なのだろうか。スイカのような甘さだ。どうやら味覚はあるみたいだ。


 触覚。……体全体がふわっと浮いているような感覚はある。ただ、体を動かそうとしても何の反応も返ってこないので、そもそも体があるのかどうかわからない。


 とりあえず、周辺の状況の確認はこれで終了だ。ここは、心臓のような音と、甘い味がする空間だとわかった。それに、聴覚と味覚は存在するようだ、ということも。視覚と嗅覚と触覚は、そもそもないのか、それとも感じられない場所にいるのか、どちらなのかは今は判断できない。しかし、聴覚と味覚があるのに他の感覚がないなんて普通考えられない。個人的には後者であると信じたい。


 それにしても、本当に奇妙な空間だ。意識はあるのにほとんど何もわからない。しかしなぜだろうか、居心地は悪くはない。しばらくはこのままゆっくりするのも悪くはないだろう。


 ところで、俺の記憶は大丈夫だろうか? 何か重要なことが抜け落ちていたら怖い。俺は自分にまつわる情報を片っ端から思い出していく。


 俺の名前は小野里敦司。両親の顔に友人の顔、出身小学校、中学校、高校もバッチリ覚えているし、なんなら校歌も全て歌える。前世での思い出、高校までの学習内容の記憶も思い出せる。どうやら記憶には問題はなさそうだ。


 ただ、ここで俺は壁にぶち当たる。これ以上、自分の状態やこの空間を調べる術はない。やれることをやり尽くして手詰まりになってしまった。


 仕方ない。ここは気長に待とう。時間が経ったら何か変化するかもしれない。


 あー、何だか眠くなってきた。とりあえず寝よう……。


 ……。


 …………。


 ⁉︎ うおっ、何だこの揺らぎ⁉︎


 急に空間が揺れて、一気に目が覚めた。地震とはまた違う、空間そのものが不安定になるような、何とも言葉にしがたい感覚。俺は少し恐怖を感じた。


 一方で、俺は希望も感じていた。もしかしたらこの空間に変化が起きるかもしれない、と。


 そんなことを考えていると、もう一度揺れが来た。それはすぐに収まる。


 それ以降、しばらく待ってみるが、特に何も感じなかった。


 再び俺を眠気が襲う。それじゃ、眠るか……。おやすみ……。






 *






 イチ、ニー、サン、シ! ゴー、ロク、シチ、ハチ!


 前世で朝といえばこれ! という曲を頭の中で流し、掛け声も心の中で呟きながら、俺は意識をはっきりさせる。

 日本人なら、誰でもやったことがあるはずの体操だ。体の感覚はないけれど、これで目が覚める……ような気がする。


 あれから何度も眠っては目覚め、眠っては目覚めを繰り返した。最初は、一度眠ってしまったらもう二度と目覚められないのではないか、と少し心配だったが、それは杞憂だった。


 むしろ、時間が経つにつれて、意識を保っていられる時間が延びているように思える。この空間に来た時は、せっかく考えごとをしていても、途中で眠くなってそのまま寝落ちしてしまうことがとても多かった。それに、目が覚めていても頭がぼんやりすることも多かった。


 しかし、最近は目覚めている時間が延びた上に、意識も最初よりはっきりしている。この空間への慣れだろうか? いずれにせよ、進歩を感じる。


 一方、五感には少し変化があった。


 聴覚は、変わらず心臓のような音が聞こえるだけだが、味覚は、時間により変化することがわかった。それも周期的ではなく、不定期に変わる。デフォルトは無味で、ときどき甘味や酸味、苦味を感じる。俺が最初に目覚めた時は、どうやら偶然甘みを感じている時だったようだ。どうして変化するのかは全くわからない。いずれにせよ、この味の変化だけが、現在の俺の楽しみの一つになっていた。


 また、触覚にも変化があった。ふわふわしているのは変わらない。ただ、つい最近、どうやら俺には実体が存在して、しかもそれは人間の体のようであるということがわかった。暇な時に体を動かした甲斐があった。


 それに、ときどき外部から何か暖かいものが来るのも感じていた。それは来るたびに俺にまとわりついて体に吸収される。いったいこの温かいものは何なのだろうか?


 さらに、同時にこの空間に限りがあるということも確認した。手足を動かすと、空間の端の壁に当たるようになったのだ。どうやら、壁は俺を取り囲んでいるようだ。それは柔らかいのだが、何でできているのかはよくわからない。


 ただ、時間が経つにつれ壁までの距離は小さくなっているようで、だんだん窮屈になっていた。この空間が収縮しているのか、あるいは俺自身がデカくなっているのか。


 俺は壁をどうにか突破できないかいろいろ頑張ってみたが、俺の動きがものすごく緩慢なのもあってか、どうしても突破できなかった。


 そのため、このままではこの空間に押し潰されてしまうのではないか、と心配していた。さらに、懸念点は他にもあった。


 最近、外から力が加わっているように感じるのだ。しかも、空間がゆさゆさ揺れることも増えている。


 もしかしたら、この空間が崩壊してしまう日が近いのかもしれない。そうなったら、俺はいったいどうなってしまうのだろう? 別の空間に脱出できるのだろうか? それとも……再び死んでしまうのだろうか?



 ……さて、俺がここに来てからどのくらいの時間が経過したのだろうか。時間の流れが曖昧で、感覚が掴めない。

 とりあえず、寝て起きたら一日経過している、と仮定しよう。そうすると、百日程度だろうか。かなりの時間をここで過ごしていることになる。


 その間、俺がするべきことは当然何もなく、とても暇だった。気が狂いそうなほど暇だった。できることが制限されていると、たとえ長い時間が与えられても、それはほぼ何の役にも立たないのだ。前世で、ボタンを押すと大金がもらえる代わりに、とんでもなく長い間何もない空間に閉じ込められるという内容の漫画があったが、それと今の状況はかなり似ている。


 俺は正気を保つために、微かに聞こえる音と、ときどき感じる味をスパイスに、目覚めている時間のほとんどを、高校までの学習内容の復習と下らない妄想に費やしていた。今なら定期テストで満点が取れそうだし、大ヒット小説も何本か書けてしまいそうだ。


 ただ、それにもいい加減飽きてきた。俺は気が狂ってしまう前に、何か変化が起こることを望んでいた。


 そういえば、前世の友人たちは今頃どうしているだろう? 元気でやっているだろうか? 受験には成功しているだろうか? 俺が死んだことを悲しんでいるだろうか? もしかしたら、俺の死を喜んでいる人もいるかもしれない。そんな人はいてほしくないが。


 一番の気がかりは両親だ。俺は小野里家の一人息子だったから、両親の悲しみ具合は半端じゃないだろう。特に俺を熱心に育ててくれた母さん。俺がまだここに存在していることを伝えたいが、残念ながらその術はない。


 そんなことを考えていると、突如空間が大きく揺れる。


 ウオオオォォォッッ⁉︎ なんだこの揺れ⁉︎ これまでのものより桁違いに大きいぞ! しかも空間が収縮して、俺の体を圧迫している。


 もしかして、俺を潰そうとしているのか……? 嫌だ、死にたくない!


 ……いや、どうやら俺を潰そうとしているわけではないようだ。前後左右の圧迫度合いが等しくない。壁が俺の体を非対称的に押すことで、俺の体が少しずつ頭頂の方向に移動しつつある。


 もしかして、この空間は俺を圧死させようとしているのではなく、俺をここから排出しようとしているんじゃないか?


 そう考えている間にも、どんどん空間は狭くなっていき、揺れはどんどん激しくなっていく。どうやら、頭の方が広がっている──いや、正確にいえば、俺の頭によって無理やり広げられているようだ。


 この空間とはもうすぐお別れということか……。意外にも俺は一抹の寂しさを感じていた。振り返ってみればつまらない時間が長かったが、なんだかんだこの場所には愛着が湧いていたようだ。


 次に俺が行くのはどんなところだろう? できれば、五感が使える世界だったらいいな。


 突然、真っ暗な中に、明るい光が見えた。今まで真っ暗闇の中にいたから、かなり眩しい。その光はどんどん明るくなっていき、俺の視界を真っ黒から真っ白へ染め上げていく。どうやら、今まで暗闇にいて光を感じなかっただけで、俺に視覚はきちんと存在していたようだ。良かった。


 これで、あと嗅覚だけが確認できていない。だが、それ以外の五感が存在するので、きっと今は感じないだけで備わっているはずだろう。


 さあ、新世界だ。俺はワクワク半分、ハラハラ半分でその瞬間を待つ。


 そして、明るい光が俺の視界に広がって、俺の視界を真っ白に塗り潰した。


 次の瞬間、ひんやりとした何かを全身に感じる。これまで感じていた、液体のような抵抗の大きなものではない。まるで空気に触れているような感じだ。


 俺が不安になっていたその時だった。


 それは若い女性のような声で、



「☆▼@%&#¥(£$=‼」



 さらに、俺の体に何かが触れた。そして俺はひょいと持ち上げられる。


 続いて、若い女性の声がする。しかし、最初に聞こえた声とは違う。その後に、最初の女性の声が続く。


 この瞬間、俺は自分の状況を理解した。




 どうやら、俺は転生して赤ちゃんになり、たった今生まれたらしい──。


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