俺の転生×転性ライフ
卯村ウト
プロローグ
第1話 プロローグ
「すみません……」
「…………」
「ちょっと、すみません」
「あ、はい! 何ですか?」
肩を叩かれ、思わずビクッと大袈裟に反応してしまう。俺はワイヤレスイヤホンを外すと、声のした方を向いた。
そこにはスーツ姿の女性が立っていた。首からはネームホルダーを提げている。この図書館の職員だ。
「閉館時間なので、お帰りの準備をお願いします」
「あっ、すいません」
正面の壁掛け時計をパッと見ると、もう午後十時になろうか、という時刻を示していた。
いつの間にこんな時間になっていたのか……。全然気づかなかった。
俺は、机の上に広げていた問題集やノート、筆記用具を急いでカバンに突っ込み、立ち上がる。
「とっと……」
その途端、立ちくらみが俺を襲う。危うく倒れそうになって、俺は慌ててさっきまで座っていた椅子に掴まった。
それに目の奥も痛い。眼精疲労だろうか。どうやら相当疲れが溜まっているようだ。
こりゃ、将来マジで『医者の不養生』になりかねないぞ……。まだなっていないのに不養生になってどうする。
しかし、俺にはそうなってでも医者になりたい理由があった。周りの人の期待に応えるために、そして何より、母さんの期待に応えるために。
俺はコートを着て、忘れ物がないか確認すると、机の照明を消す。
最後までこの自習室に残っていたのは俺だけだったようで、部屋はガランとしている。俺は、誰も座っていない座席の間を通って、職員に会釈をすると、そそくさと部屋を出た。
*
俺、
運動も勉強も、何をやっても一番にはなれないものの、人並み以上にはできる。もし俺に、神様から与えられた『ギフト』があるのなら、間違いなく『器用貧乏』だろう。
俺がそれに気づいたのは、小学校低学年くらいの頃だった。そして、それは親、とりわけ母さんのおかげだった。
俺の母さんは、幼い頃から俺にいろんなことをやらせてきた。
水泳、体操、サッカーなどのスポーツ。ピアノなどの音楽。書道などの芸術。そして、英会話、学習塾などの勉強。そのどれにおいても、俺は先生に『敦司くん、よくできるね』と褒められた。
その中で特に力を入れさせられていたのは、勉強だった。その原因は、母さんの教育への執念だろう。
学歴コンプレックスだろうか。本人に面と向かって尋ねたことがないので、本当のところはわからない。しかし、母さんの教育に対する執念は、他の母親よりも強いと思う。
テストで良い点を取れば褒められ、お小遣いが増額された。悪い点を取れば叱られ、ゲームを没収された。毎日コツコツと勉強することを強いられ、娯楽は必ずその後だった。『勉強しなさい』と『勉強しないと将来良い生活ができないわよ』が母さんの口癖だった。
今なら理解できるが、ここまで母さんが俺に勉強することを強いてきたのは、母さんが俺をコントロールしようとしていたからだった。
母さんは、俺が幼い頃から俺の進むレールを敷いてきた。中学生くらいまで、大半の子供は自分の進路に無頓着だ。それは俺も例外ではなかった。
気づくと、俺は小学校受験をして、名門と呼ばれる私立の小学校に入学していた。同じく中学校も、小学校の周りの皆と同様に中学受験をして、名門と言われる中高一貫校に進学していた。
そして高校三年生の今、母さんはことあるごとに口酸っぱく、『勉強して医学部に行きなさい』と言う。母さんが医者へ続くレールを敷いていることに気づかないほど、もはや俺は馬鹿ではなかった。
だが、実際には、俺は母さんに特に反抗することなく、言われた通り大人しく医学部を目指している。
実際、毎日平均十二時間にもわたる猛勉強の甲斐もあってか、ここ一年間、模試では第一志望の東京の国立大学の医学部はずっとA判定。そこに余裕で合格できるほどの実力を俺は身につけていた。
このままいけば、目標は達成できる。俺の人生は客観的に見れば、『成功者』の道を歩んでいて、これからもその道を歩んでいける可能性は高い。
そのため、俺は母さんのこの誘導が決して悪いものではないということをよく理解していた。もちろん、細かいところでは俺の意志と相違が生じることはある。だが、大まかなところでは母さんの誘導に問題は感じていなかったし、それゆえ俺は母さんに反抗することも特に無かった。
しかし、俺は本当にそれで良いのだろうか?
図書館を出た俺は、折り畳み傘をバッグから取り出し、軒下で立ち止まった。
俺は、母さんに敷かれたレールを歩むだけの人生で、本当に良いのだろうか?
確かに、自分の勉強の能力にも運動の能力にも文句はない。さらに、周囲の環境や人間関係にも恵まれているとは思う。彼女がいないことを除いては、だが。
でも、本当は存在するんじゃないのか? 医学部に進学して、毎日医者になるための勉強をする未来ではない。例えば、外国の大学に進学して、異国の友達と異国の地で学ぶ未来が。別の大学の別の学部に進学して、バイト三昧の毎日を送って、毎日友達と飲み明かす未来が。大学を受験しないで国を飛び出して、各地を放浪するバックパッカーになる未来が。大学に行かずに友達とバンドを組んで、ひたすら修行して有名なアーティストとして成功する未来が。
しかし、俺には勇気がない。母さんを失望させることも怖いが、一番怖いのはそれじゃない。レールから外れるのが怖いのだ。今までなぞってきたものをわざわざ外れてまで、別の道へ進む勇気がないのだ。それに、これまでの約十八年間の積み重ねを壊すことは、今までの自分を否定してしまうようで怖かった。
だから、もし人生をやり直せるのなら……。
「そうだな、はちゃめちゃな人生を送るのも、いいのかもな」
レールなんてあるからいけないのだ。だから、最初からそんなものなんてない人生を送ってみたい。それこそ、今の俺には想像もできないような人生を。
……いや、何を馬鹿げたことを考えているんだ、俺は。勉強のしすぎで頭がおかしくなっているのかもしれない。
早く家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って寝よう。受験本番まであと少しなのだから、体調を整えておかなければならない。
俺は折り畳み傘を差し、濡れた路面を見つめながら、図書館の正面の横断歩道まで歩く。水たまりに映った歩行者用信号機は赤く光っていた。
そうだ、寝る前には図書館でやりきれなかった問題を解いて、丸つけをして、今日間違えたところをもう一度復習して、英単語帳をチェックしておかないとな……。
そんなことをぼんやりと考えていると、信号が青になる。俺は無意識に足を前へ踏み出した。
が、次の瞬間、横から強い光が差し込んできた。
すぐに鳴り響くけたたましいクラクションの音。道に溜まった水たまりから勢いよく水を跳ね飛ばす音。甲高く不快な急ブレーキの音。
「え?」
音のした方に視線を向けると、すぐ目の前にトラックのバンパーが迫ってきていた。
避けられない。避けられるはずがなかった。
「あ」
次の瞬間、俺の体にものすごい衝撃が加わり、直後に視界が暗転した。
小野里敦司、十八歳の冬。俺は、大型トラックに轢かれ、死んだ。
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