救済

 一方、二人の横に建てられたへいの上には、20代前半の容姿に見える黒いロングヘアーの女性が影を薄くして佇んでいた。

 あるいは闇と同化しているともいえる。


 闇の女性は勢いよく塀を蹴り、宙に浮かび上がった。


邪竜飛翔ジャンプ!」


 そして地面に落下しながら右手に握っていたビニール傘を振り上げ、黒い男が突き刺そうとしているナイフに向けて振り下ろす。


「はっ!」


 落下の勢いを味方にしたビニール傘の先端部分がナイフの刀身の上部を上から叩きつけた。


 ナイフは黒い男の手の中から抜け落ちていき、素早く路上のコンクリートに衝突していく。


 また、ナイフは高音域の金属音を静かな住宅街に響かせていった。

 静寂が金属音を更に透き通った物にさせる。


 闇の女性は無事に道路に足を着け終えたらすぐさまコハルの前に遮るように割り込み、腕を組んだ。  


「おい、貴様。そのカッコイイ武器をどこで手に入れた? 我もその鋭い刃を振り回してみたいぞ」


 コハルは目を見張りながらたじろぎ、闇の女性の背中を凝視した。


(え、なに、一体何が起きたの!? 突然横から人が現れたけど!?)


 黒い男も目を見開きながらうろたえる。


「……なんだお前?」


 闇の女性は腰から伸ばしていた毛を逆立たせた尻尾と眉尻を上げながら声を荒げ、


「名前を聞くときは、まず自分から名乗れと猫神様から教えてもらっているだろう!?」


 黒い男は慌てながら地面に落としたナイフを拾い上げていく。


「猫神様ってなんだよ? 知らねぇよ!」


「ふむ、名乗らないというならば、我も名乗る必要はないな」


 闇の女性は冷たい笑みを浮かべ、肩をすくめる。


 黒い男は一瞬言葉を詰まらせ怯む。

 そして不気味な笑みを作りながら、


「……俺は――」


「なに勝手に名乗ろうとしている! 我は名乗っていいと許可を出した覚えはない!」


 闇の女性は眉尻を上げながら左手を右腕側に移動させ、勢いよく左に振っていく。


 黒い男は一歩後退し、目を見張りながら怒鳴る。


「面倒くせえなぁ! なんなんだよお前!」


「うん、我か?」


 闇の女性は尻尾をくねらせながら左手を左目の前に持っていく。

 そして中指と薬指の間を大きく上下に開き、出来上がった隙間で左目を囲いこみ、不敵な笑みを浮かべた。


「我の名前はズィグヴァーン。邪竜だ」


「邪竜? なに言ってるんだ?」


「なにを言っているかだと? その問いに答えるならば、名を名乗っただけだが? それよりもここは我の夜の散歩コースだ。貴様に通行の許可を出した覚えはない」


 ズィグヴァーンと名乗った闇の女性は大きなため息をつきながら尻尾を下げる。


 コハルは後ずさりながら二人の会話を聞き続けた。


(刃物を振り回す人だけでも大変なのに、また危ない人が出てきたよ。しかも仮装コスプレしてるし、竜を名乗ってるのに猫の格好だし。あの頭と腰につけてる可愛らしいのは猫耳と尻尾だよね?)


 黒い男はナイフを軽く左右に振りながら口角を上げる。


「そこをどきなお姉さん。じゃないと先に刺されるのがお姉さんになっちゃうよ? あ、というか先にお姉さんから始末しようかな?」


「ほう、貴様は我と決闘がしたいのか?」


「決闘? 違うね、そんなものじゃない」


 ズィグヴァーンは首をかしげ、尻尾を上下に揺らす。


「では一体なにをしたいのだ?」


「追い詰め、恐怖で怯えさせながら殺す」


「ほう、その威勢の良さは褒めてやろう」


「なに強がっちゃってるの?」


「貴様には我がそう見えているのか」


「まぁいいや。とりあえず、夜道に出歩いたことを後悔しな」


「後悔ならもう許容範囲を超えている。もう何度も――」


 黒い男はナイフをズィグヴァーンの首を目掛けて左から右に振っていく。


 しかしその斬撃はズィグヴァーンが立てた傘によって遮られてしまう。


 黒い男はズィグヴァーンを睨めつけながらつぶやく。


「反射神経のいい奴め」


「むしろ貴様のナイフさばきが未熟なのではないか?」


 ズィグヴァーンは傘を右に振ってナイフを払いのける。


 そしてそのまま右に振っていき、黒い男の左腕に向けて横に振っていった。


 傘はそのまま進んでいき黒い男の左腕に衝突していき、軽い音が発せられる。


 黒い男は顔を小さく歪めながら声を漏らす。


「うっ」


「どうした、情けない声を発して。急に腹でも痛くなったか? 安心しろ、我はトイレで用を足す時間くらいは待ってあげれるぞ」


 ズィグヴァーンは左手を腰に当てながら不気味に微笑んだ。


 黒い男は目を鋭くさせてズィグヴァーンを睨めつける。

 だけどすぐに乾いた笑みを浮かべなおした。


「違う。これからお前がくたばるところを想像したら体の奥から興奮が湧きあがってきただけだ、よっ!」


 ナイフを左腹部横まで移動させていき、そのままズィグヴァーンの体に向けて斬り上げる。


 ズィグヴァーンは一歩身を引いて黒い男の振り上げを避けた。


 しかし、なびいている最中の長髪は刃の餌食になってしまい、数本の髪の毛が切れ落ちてしまう。


 分離された髪の毛たちは緩やかに宙を舞っていき、漆黒の空間に姿を消していった。


 ズィグヴァーンは傘を左に移動させ、黒い男の右腹部に向けて横に振っていく。


 傘の進路上には邪魔をするものはなく、無防備になっている脇腹に突き進んでいった。


 そして傘は無事に黒い男の横腹に命中し、小さな衝突音を周囲の暗闇に響かせていく。


 黒い男は顔をしかめながら小さい声を漏らす。


「うぁっ」


「今度はどうしたというのだ? まさか、食事を忘れてきたとは言わないだろう? 空腹で万全じゃない状態で我と決闘をしたいと言っていたのか? なんて愚かなのだ。それともあれか、我の事を思ってわざわざ手を抜いてくれているのか? そんな気遣いは不要だ。だけどその優しさは一応受け取っておこう。ありがとう」


 ズィグヴァーンは左手を腹部に添えて、頭を軽く下げた。


 黒い男はうろたえながら声を荒げる。


「はぁ、何言ってんだよ!?」


「おや、違ったか? 我の勘違いだったのなら謝罪しよう」


「そろそろその口を閉じさせなきゃいけないようだな」


 黒い男はナイフを強く握りなおす。


 そして勢いよく前に突き出して、ズィグヴァーンの胸部に凶刃を向かわせる。


 一方ズィグヴァーンはナイフの進路上に壁になるように傘を斜めに構えた。


 ナイフは傘に当たるけど、完全には勢いを止めることが出来なく、傘を横に退けながらズィグヴァーンの方に直進していく。


 それからナイフはズィグヴァーンの右頬をかすめていき、闇夜と同化しかけている長い髪に突っ込んでいった。


 ズィグヴァーンの右頬には直線状の切り込みが出来上がっていて、すぐに赤い一直線に変化していく。


 ズィグヴァーンは左手で自分の右頬を触れていき、眼前で手の平を広げる。


 そして薄明りが照らして明るみになっている赤い液体を凝視しながらつぶやいた。


「くっ、我はケチャップを顔につけたまま出歩いていたというのか? なんて恥ずかしいことをしていたのだ。もしかして貴様は最初から気づいていたのか? 気づいていたのに教えなかったのか? くぅ、なんて卑劣な性格をしているのだ!」


 ズィグヴァーンは目じりを吊り上げ、尻尾も毛を逆立たせながら上げる。

 それから少し呆けた表情を作りながら首をかしげた。


「そういえば我は今日ケチャップを使用した食べ物を食べただろうか? 我の記憶では食べていないはずだが。まさか、これは怪奇現象か!? 我の頬に突然ケチャップが付着したというのか!? ここら一帯は呪われているのではないか!? なんて恐ろしい場所だ。こんな所に長居していては何が起こるか分からない、貴様も決闘なんて止めて早く家に帰るといい。我もそうする」


 ズィグヴァーンは上半身をひねり、背後のコハルに顔を向ける。


「さぁ、そこの彼女も一刻も早く危ない場所から離れるといい。なんなら我と一緒に行くか? 決して我は怖いから誰かと一緒に居たいと思ってなどいないからな! 女性一人では心細いと思って一緒に居てあげようという我の優しさだ!」


 コハルは目を見開きながら硬い笑みを浮かべた。


「えっ、えっ!?」


 そして数歩後ずさり、うろたえる。


(この人はさっきから何を言ってるの? というか誰! うぅ、早く警察来てよ!)


 一方、黒い男はナイフをズィグヴァーンの首に向けて突きだそうとした。


 コハルは黒い男の様子を眺めながら叫んだ。


「危ない!」


 ズィグヴァーンは素早く前方に視線を戻し、真剣な表情を作る。


 そしてすぐさま傘を体の前に立てて、ナイフを受け止めようとした。


 ナイフは一旦透明色の傘に衝突したけど、勢いは衰えずそのまま傘を通り越して直進していく。


 刃は宙を進んでいき、ズィグヴァーンの右肩の上部を通過していくと、肩の衣服を切り込んでいった。

 

 また、ナイフの斬撃は傘の巻き紐ネームも一緒に引き裂いていく。


 傘はまとめ上げるものから解放され、周囲に膨張ぼうちょうしていき太い姿に変貌へんぼうした。


 ズィグヴァーンは傘を横に向けて、尻尾を下げながら悲しそうに見つめる。


「我の傘がどこかで拾い食いをしたようだ。なんだこの無様な姿は、だらしない。どれだけ食べたというのだ? 腹が垂れてしまってるではないか。これでは他の者に我の管理がなってないと思われてしまう」


「その心配は無用だ。あとでその傘もボロボロにしてあげるよ。でもその前に管理者を排除して、傘の所有権を譲ってもらわないとな!」


 黒い男は不敵な笑みを浮かべながらナイフを体の左側に持っていく。

 そして大きく右側に向けて振っていき、ズィグヴァーンの首に斬撃をお見舞いした。


 ズィグヴァーンは不格好な姿になった傘を立てて構える。


 しかし刃は傘を押しのけて、さらに側面を滑るように移動していき、ズィグヴァーンの鎖骨付近を通り過ぎていく。


 ナイフの軌道はズィグヴァーンの鎖骨付近の衣服と皮膚を傷つけていった。


 黒い男は不満そうな顔を作りながら言葉を漏らす。


「くっ、また傘か」


「貴様の武器が我の傘に恋をしているように見えてな。お節介かもしれないが我が成就の手伝いをしているだけだ」


「なに言ってんだよ。というかお姉さん邪魔だからさっさと消えてくれないか? 後ろの女を早く始末しなきゃいけねえんだよ!」


 ズィグヴァーンは眉尻を上げて、尻尾も上げて毛を逆立たせる。


 そして強い口調で周囲の暗闇に言葉を響かせていった。


「わたしが……我が身を引いたら、貴様は彼女に襲い掛かるだろう!? 彼女は我の獲物だ! 貴様なんかに譲る気はない!」


「なんなんだよ、お前!」


「最初の方に名乗った覚えがあるが、もう忘れてしまったのか? なんと情けない。しかしまあ、我も配慮が足りないわけではないからな。忘れてしまったというのならば、もう一度答えるまで! さあ、忘れないようにその頭にしっかりと刻み込むんだ! ……我の名前はズィグヴァーン、通りすがりの邪竜だ!」


「なんなんだよお前」

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