しんなりと君が濡らした失恋を知ってしまった午後四時五十分

 気がつけば、近藤は数学の問題集に取り組み、常盤が行き詰まったところを解説するという流れになっていた。大学の見学に来たはずだけど、すっかりミニ勉強会へと変わっていた。


「数学ってどういうふうに勉強してた?」


 質問をしたのは近藤だった。


「ひたすら演習」

「演習?」

「公式や定理を覚えて、あとは実践で使えるように演習を繰り返す。公式を覚えるって言っても丸暗記じゃなくて、ちゃんと自分で導出できるようにはしてたけどね。でも、あとはずっと問題解いてた気がするな」

「へえ」

「高校の数学の先生に、短歌や和歌をたしなむ先生がいたんだよね」

「国語じゃなくて、数学の先生に?」

「そ、ちょっと変わってるでしょ。問題をいくつか解いたら、その先生に“今日はこれだけ勉強しました”って報告しに行ってた。ま。外発的動機付けってやつだね」

「どういうこと?」

「その先生と話をするために、頑張って数学やってたから」


 近藤は目を大きく見開く。常盤の返答が意外だったようだ。


「なんか、ちょっと意外だな。常盤からそういう話が出るなんて」

「勉強のモチベーションなんて、誰から教えてもらえるかで大きく違うでしょ」

「まあ、たしかに」

「近藤も数学の勉強したいなら、小宮に教えてもらったらいいんじゃない?」

「……この話の流れで、なんでそうなるんだよ」

「教わる側もそうだけど、教える側のモチベーションも大事でしょ、こういうのは」

「あのなぁ」

「小宮だったら、近藤の頼みとあらば喜んで教えてくれると思うし、バイトでも個別指導やってるんだから、教え方もうまいんじゃない?」


 近藤は手にしていたシャーペンを置いて、腕組みをする。

 常盤は軽い気持ちで提案したけれど、近藤は思いのほか考え込んでいる。プライドがジャマしているわけではないだろう。高校受験のときだって、小宮や常盤から勉強を教わることだってあったし。やはり“ビミョーな距離感”というのが尾を引いているのか。


「そんなに悩むようなこと?」

「今さら数学教えてくれって頼むのもおかしくないか?」

「小宮はそんなこと気にしないよ。近藤のお願いだったらなおさら」

「むしろだからだよ。人の好意を利用するみたいで」

「だったら、おいらに大学案内させたり、こうして勉強見てもらったりするのはどうなわけ?」

「いや、そういうことじゃなくてな。さすがに小宮に頼むのはおかしいんじゃないか。かりにも俺が振った側なわけだし」

「それは……、って、……え?」


 聞き間違えたのかと思って、一瞬常盤はフリーズする。近藤も常盤の反応にマズいことを言ったのかと思って、口をつぐむ。


「いま、振ったって言ったよね?」

「あ、うん」

「振ったってどういうこと?」

「バッティングセンターに行ってバットを振ったり……とか?」


 沈黙が支配する。

 常盤は置いてあったペンケースからおもむろにペンを取り出すと、できもしないスプリットソニックにチャレンジして見事失敗する。そもそもペン回しはノーマル技もできない。


「いまさらヘンなごまかし方しないでよ」

「いや、てっきり小宮から聞いてるものだと思ってたし」


 常盤は首を振る。

 近藤が静原という人とデートしたらしいことまでは聞いている。けれどそれ以上のことは聞いていない。そもそも小宮は“ビミョーな距離感”になったと言ったのだ。振られたというのは話が違う。それともあれは、振られたから接し方に戸惑っているという、そんな話だったのか?


「静原の話は聞いたんだよな?」


 近藤が確認するように尋ねる。


「うん。静原さんとデートしたんでしょ? 後になってデートしてたことがバレて、埋め合わせに京徳観光したんだよね?」


 まさか静原の件をきっかけに、近藤と小宮の仲はヒビ割れてしまったということだろうか。いや、そもそも友達以上恋人未満の関係なのだから、ヒビ割れると言うのもおかしいのか? いやいや、それを言うなら付き合ってるわけじゃないのに「振った」と言うのもヘンな表現だ。

 古本まつりで再会したあの日、常盤は近藤に「小宮に対する感情は変わってないんだよね?」と尋ねた。そのとき近藤は「ああ」と答えたはずだった。あ、でも、近藤からしたら恋人未満ってことは変わらなくて、だから振った振らないは関係ないってことなのか?

 頭に渦巻く疑問に、常盤はどこから尋ねたらいいのか分からない。

 

「後になってデートがバレたっていうのは違う。静原とデートすることは小宮も前もって了承済みだったからな」

「は?」


 振ったと聞いて駆けめぐっていた疑問が、近藤の言葉でさらに輻輳ふくそうする。

 常盤のすっとんきょうな声を聞いて、近藤のほうも右手でこめかみを押さえるようにうなだれた。


「どういうこと? 話が見えないんだけど」


 近藤の解いていた数学の問題よりも、解説がほしい問題だった。

 しばらくしじまに包まれたが、やがて近藤が口を開いて説明してくれた。

 発端は静原が見栄を張ってしまったことらしい。カレシができたという嘘をついてしまった静原は、近藤にカレシのフリを頼み込んだ。

 出かけた先は地元の神社。そこで合格祈願をかねた初詣をして、そのあとでお昼を一緒に食べに行った。近藤はカレシのフリをして静原の知人らに会ってあげたという。


「そもそも最初は一緒に初詣に行こうってだけの話だったんだよ。だから小宮にも声をかけてた。ただ、あいつの場合あれだろ?」

「ああ、うん。初詣行かないよね、小宮は。家が家だからね」


 小宮の実家はお宮さんだ。マイナーめの宗派だと言っていた気がするが、詳しくは憶えていない。年末年始は実家の手伝いをさせられるとかで文句を垂れていたのは記憶している。

 そういうわけで、小宮とは初詣に行ったことはない。まあ、小宮の実家を初詣先にするという手はあるけれど、それはそれで本人が嫌がる。


「とにかく、小宮は俺が静原とデートすることも、そのデートでカレシのフリをすることも知ってた。俺もあいつの気持ちを知らないわけじゃないから、静原のことは事前に相談したんだよ」

「で、小宮はOKしたんだ?」

「ああ。静原とのデートは1回切りって条件にした。入試が終わったら小宮と二人で旅行に行く約束もしてな」


 二次試験の2日目、試験が終わったあと常盤が遠目に二人を見かけたときだ。小宮は「埋め合わせ」と言っていたが、静原とのデートを認める代わりのバーターということだった。

 近藤の説明はこれまで見聞きしてきたこととつながりはする。だが、近藤が小宮を振ったという点にはまだ結びつかない。


「静原さんとはそれっきりなんだよね?」

「そりゃ、会えば話したりもするけど、デートだとかカレシのフリだとか、そういうのはもうしないって、はっきり伝えてある」

「じゃあなんで、そこから小宮を振るって話になるの? 旅行のときケンカでもしたの?」

「いや。振ったのはもっとあと、3月の半ばすぎだな。お互いの進路が決まって、改めて小宮から“関係性をはっきりさせておきたいから、会って話せない?”って言われて。改めて話す場を持ったんだ」

「小宮のほうから話を切り出したってこと?」

「ああ。たぶん、4月から別々の大学に進学することになるから、確認しておきたかったんだと思う。友達以上恋人未満の関係をそのまま続けるのか、続けてもいいのかを。

 でも小宮からは、正直に気持ちを話してほしいって、これまでになく真剣に頼まれた。切実そうな声でな。……だから、俺もありのままを話すことにした。俺が小宮に対してどう感じてるのか」


 近藤は、指先を合わせた両手を左右方向に離すような動作をした。

 小宮は近藤に片想いしていて。近藤は付き合うことはしなかったけれど、友達以上恋人未満の関係としてそれを受け入れた。小宮の好意を受け入れ続けた。それは俗に言うキープってやつかもしれないけれど、近藤はほかの相手を作ったわけでもない。

 しかし小宮は改めて関係をはっきりさせたいと申し出て、近藤は小宮を振ることになった。


「ありのまま、話したんだ?」

「まあ、な。そのうえで小宮には“恋人同士の関係にはなれない。これまでどおり友達のままじゃダメか?”って尋ねた」

「……友達、ね」


 “友達”だけ切り取ると、“友達以上恋人未満”より後退したようにも聞こえる。


「俺としては、単純にこれまでどおりの関係を続けたいって気持ちだった。ただ、恋人として付き合うのはやっぱ難しいから、そういう言い方になったっていうか……」


 近藤は歯切れのよくない言い方をした。

 恋人としての付き合いを否定するということ。たしかにそれは、小宮を振ったことになるのだろう。


「それで、小宮はなんて?」


 近藤はゆくらかに首を振る。


「頬まで濡らすほどだったよ。小宮のやつ、自分が泣いてることにも気づいていないみたいな顔をしてた。正直俺は、そこまでショックを受けるとは予想してなくて、ちょっと動揺したよ。小宮にとってはそれだけ重い一言だったんだなと思ってな。……ティッシュを差し出そうとしたら、駅前で配ってた予備校のポケットティッシュしか手元になかったのを、妙に憶えてる」


 近藤はそれきり押し黙った。常盤も適当な言葉が見つからず、口をつぐむ。

 グラスの中の氷は溶け切らないまま浮かんでいた。




しんなりと君が濡らした失恋を知ってしまった午後四時五十分

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