ひらがなの(はーと)が届き有限の宇宙の中を駆け出していた

かの時に言ひそびれたる

大切の言葉は今も

胸にのこれど


 恋をした相手に伝えたかった、でも言いそびれてしまった言葉。それが今も自分の胸の中に残り、その後悔を引きずったままでいる。

 後になってこういう歌を詠んでしまうということ自体に「かの時あのとき」の後悔が滲んでいる。「のこれど」と逆接の形で途切れているのが、いまだにすっきりケリをつけきれていないのを想像させる。

 石川啄木『一握の砂』のなかの一首だ。


「啄木ですね」

「僕が言いそびれた相手っていうのは、常盤さんなんだよ」

「……え?」

「僕が好意を抱いている相手は、小宮さんじゃなくて、常盤さんなんだよ」


 恥じらいを含みつつも、丁寧に、聞き間違えることのないくらい、はっきりと柳澤は告げた。

 常盤は、自分が柳澤から好意を抱かれているということを、てんから考えたことがなかった。

 最初は冗談でも言われているのかと感じたほどだ。それくらいきょとんとしていた。でも、じっとりしたその場の空気は、明らかに冗談のたぐいのそれではなかった。

 それを分かっていながらも、「冗談を言うなら、冗談っぽくおっしゃってくださいよ。本気にしちゃいますよ?」と常盤は口走っていた。そう言ってしまうくらい予想外だったのだ。


「冗談で言えるなら、とっくに好きって言ってるよ」


 まったく茶化す気配もなく、柳澤は落ち着いた声でつぶやいた。

 常盤は真意を探るように柳澤をうかがう。


「あ、あの……」

「うん」

「なんか、耳がうっすら赤くなってますよ」

「……」


 常盤はなにを言ってよいかわからず、変な指摘をしてしまい、それで柳澤はふたたび押し黙る。

 ひょっとしたら驚いたリアクションをするべきだったのかもしれない。けれど、意味を取るのに時間がかかったせいで、そのタイミングを逃してしまった。いまから反応するにはどうにも間が悪いし、白々しいマネをできる性分でもない。


「小宮のことが好きだったんじゃないんですか?」


 常盤はやっとその質問をする。


「それは、勘違いをそのままにしていただけなんだ」


 柳澤の言葉は穏やかだが芯が通っている。


「前に、好きな人がいるという話をしたと思うんだけど……」

「船坂山のカフェで会ったときですよね。もちろん憶えてますよ」

「僕が“実は好きな人がいる”と言ったら、常盤さんは小宮さんのことを指しているのだと受け取っていたよね?」

「はい」


 あのときは他の可能性を考えもしなかった。

 共通の知人関係のなかで、まっさきに思い浮かんだのが小宮で、それ以外に思い当たる人はいなかった。そのなかに自分自身を入れていなかったのは、ど真ん中の盲点だった。


「本当はあのとき告白するつもりでいたんだ。ただ、単刀直入には切り出せなくて、それでちょっと婉曲的に攻めようとした。ところが常盤さんが即座に小宮さんの名前を挙げたから、言い出しにくくなってしまって」

「柳澤さんでもそういうことがあるんですね」


 ふだんゼミで議論しているときの柳澤は、物怖じしない印象がある。


「緊張している胸の内を、表に出さないよう努めるのに必死だったから」

「それで、おいらの早とちりを訂正し損ねたってことですか」

「“早合点してる”と言おうとして、誤って“話が早いね”と言ってしまったよ」


 そうとは知らず、常盤は勝手に話を進めてしまった。柳澤が小宮を好きなのだと聞いて、妙にテンションが上がってしまっていたから、常盤自身も冷静でなかったように思う。


「まあ、ちゃんと訂正しなかった僕が悪いんだけどさ。要するにヒヨってしまったわけ。どうやら脈ナシのようだったから」


 常盤は自分が告白される可能性にはこれっぽっちも思い至らなかったし、相手が小宮だと聞いて共感さえしていた。常盤が柳澤のことを多少なりとも意識していたなら、たしかにこういう反応にはならなかったはずだ。

 柳澤が脈ナシだと判断したのは当たっている。

 常盤は口をつぐまざるをえなかった。柳澤のことは先輩として見ているだけで、親しくなりたいという感情は、恋人として慕う感情とは別のものだった。


「僕が“好きな人がいる”って言ったとき、常盤さんは自分がそうである可能性をまったく考慮しなかったでしょ。今さっき伝えたときですら、完全に想定外って顔してたよ」

「それは……ごめんなさい」


 ついつい常盤は謝ってしまい、柳澤は謝る必要はないと手を振る。


「小宮さんにはすでにその日のうちに話したよ。常盤さんに告白するつもりだったのに、小宮さんのことが好きだと誤解されてしまったってね」

「え、小宮もこのことを知ってたんですか」

「うん。そのうえで口裏を合わせてもらった。誤解されたままでも、従前の関係を維持できるなら、それでいいと思ったから」

「誤解されたままのほうが?」

「要はリスクを厭ったってだけ。もし僕が常盤さんに告白したら、振られるかもしれないし、そうでなくても、今みたいに戸惑わせるだろうことは予想できた。告白して気まずくなるよりは、僕が小宮さんのことを好きだと誤解されてる状態のほうが都合がいいかもしれないと思っちゃったんだよね」


 柳澤は騙していて済まなかったと頭を下げる。今度は常盤が「謝るようなことじゃないですよ」と顔を上げさせる。

 改めて言われてみると、思い当たるフシもあった。送り火の次の日に図書館で話したときの小宮の様子。小宮がやけに楽しんでいた様子だったのは、他人の恋路だったからか。柳澤に送ったラインも、柳澤の気持ちを知っていたとするなら、別の意味合いを持ってくる。

 近藤が惚れてる相手は自分だと嘘をついたのも、あるいは柳澤の好意を知ってのことか。


「小宮さんが今日、僕も含めて呼んでくれたのは、常盤さんと喋る機会を設けるって意味もあったみたいだね。自分は近藤くんと話をつけるから、僕のほうは常盤さんと話をつけてくださいって、そんなふうに言われたよ」

「それでこうして打ち明けてくれたってことですか」


 あるいは小宮自身もふんぎりが欲しかったのかもしれない。再告白の仲間をつくって、ホゾを固めたのかもしれない。

 柳澤がスマホの画面を確認して、「もうこんな時間か」とつぶやく。時刻は夜の9時を周ろうとしていた。


「常盤さんはどうするつもりなの?」

「あ、返事……ですか?」


 柳澤は「脈ナシ」と自分で言っていたけれど、それでも告白の返事を聞きたいということなのかと思った。だが、柳澤は首を横に振る。


「そうじゃなくて、常盤さんは想い人に気持ちを伝えないのかって話」

「それは、どういう……」

「そういえば、古本まつりのとき近藤くんと再会できたのは本当に偶然だったのかな」

「……言いませんでしたっけ? おいらは近藤の連絡先を知らなかったんですよ」

「そして近藤くんはツイッターもインスタもフェイスブックもやっていない」

「……」

「以前その話をしたとき、常盤さんは近藤くんがSNSのたぐいを使っていないことを説明してくれたよね」

「それが何か不自然でしたか?」

「常盤さんは近藤くんがSNSを。仮に近藤くんが中学時代にSNSを利用していなかったとしても、高校か、あるいは大学に入ってからSNSを始めた可能性は考えられる。なのに常盤さんはSNSを使っていないと断定調で述べた。

 それは調べたことがあるからじゃないのかな。近藤くんの名前やペンネームで、彼がSNSのアカウントを作っていないか、検索したことがあった」

「なるほど。“やっていない”じゃなくて、“やってるかどうか知らない”と述べるべきだったみたいですね」

「そして実際近藤くんのツイッターやインスタのアカウントは見つからなかったようだけど、“近況ノート”の記述はあった」


 “近況ノート”は小説投稿サイトに設けられている機能のひとつ。作者が自身の作品を紹介したり、執筆後記や裏話を記載したり、読書履歴などの情報やメッセージを発信したりして、読者とコミュニケーションを取ることができるようになっている。

 そして近藤の“些末なうどん粉”のアカウントでは、近況ノート上で古本まつりのことが触れられていたのだった。


「もし単に近藤くんの連絡先を知りたいだけなら、最も確実かつ簡明な方法は小宮さんに尋ねることだよね。だけども常盤さんはそうしなかった。

 近況ノートの記述も、古本まつりへの言及はあったけれど、正確な日時や場所まで特定できるものじゃなかった。とはいえ、どうしても会いたいという気持ちを有しているのなら、断片的な手掛かりに賭けてみる価値は十二分にある。

 問題は、常盤さんがどうして小宮さんに尋ねるのではなく、不確実性のある方法を選んだのかってことだけど……」


 柳澤は最後の確認のように常盤を見つめる。

 もしこれが推理小説なら、犯人の自供を待つ探偵の構図さながらといったところだろう。


「先輩って、頭良すぎて嫌われたことありません?」

「心苦しいね」

「冗談ですよ」


 常盤は笑ってみせたが、うまく笑えたかは分からない。柳澤も苦笑気味の顔だった。


「小宮さんももう気づいてるんじゃないかと思うけど……」


 言いさしになったのは、常盤のスマホが鳴ったからだ。ラインのメッセージの着信を告げる音。図ったかのようなタイミングだと思ったけれど、それについては柳澤も微苦笑していた。

 近藤のアカウントから〈会いたい〉とのメッセージ。語尾には(はーと)がくっついていた。




ひらがなの(はーと)が届き有限の宇宙の中を駆け出していた

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