いつの日か読んだ文庫に手を伸ばしあの日の栞を見つけた気分

 へそを見られるのと、手帖を見られるのはどちらが恥ずかしいのだろう。

 テーブルにはどて煮のほかに、白米、お吸い物、サラダの和え物が並んだ。「え、すごい豪華じゃん」というのは常盤の素直な感想。小宮は「簡単に済ませちゃってごめんね」なんて謝るけれど、急なお呼ばれだったことを思えば、たんとしたご馳走だと感じる。

 なぜか小宮は三角巾をかぶったままだ。家事スキルの高さのなかに、いたいけな雰囲気が混じっている感じ。そういえば、中学の調理実習のときも、小宮は赤い三角巾をしてたっけ。あのころは髪が長かったから、ポニーテールでくくるか、ヘアクリップで挟むかしていたけれど。


「ねえ、もういいでしょ? 返して」


 常盤は小宮から手帖をひったくる。常盤が短歌をメモしている手帖。どて煮をほおばっていたら、いつのまにかカバンからかすめとられていた。

 短歌を詠むのは苦ではないけれど、こういうのは少し戸惑う。こうやって常盤が手帖に記してきた短歌は、人に見られることを前提にしてないし、それが知り合いなら余計恥ずかしい。


「え~。もっと読ませてくれてもいいじゃん~~~」


 小宮はあざといような猫撫で声で小首をかしげてくる。


「それとも、そんなに恥ずかしいことでも書いてあるの?」

「そ、そりゃ、恥ずかしいでしょ。こういうの、プライバシーだし」

「わかった。じゃあ、あとでバレないようにこっそり読むよ」

「そういう問題じゃないってば!」


 小宮はくすくす笑っている。小宮のペースに巻き込まれるのはいつものことだが、それを許してしまうのは、まんざらでもないと思う自分がいるからか。小宮は本当に不快だと感じるようなラインは飛び越えてこない。

 あと、どて煮がおいしい。


「近藤って、煮物系の料理がけっこう好物なんだよね」

「そうなんだ。だったら、こんど振る舞ってあげたら」


 人に振る舞うのに恥ずかしくないレベルの味だと思う。常盤はなんの気なしに述べたつもりだったが、小宮はくすっと笑みを浮かべた。


「不思議だよね」

「え……何が?」

「食べ物の好みは知ってるのにさ……」


 食べ物の好みは知っているのに、好みのタイプは知らなかった。近藤の性的指向を知らなかった。


「知らなくてもムリないとは思うけどね。おいらだって実際聞くまでは、アセクシュアルなんて考えたことなかったし。草食系だなって感じることはあったけどさ」

「高校入ってからも、何回か尋ねたことはあったんだよ? 彼がどんな女の子が好きなのか。やっぱりそういうの、気になるから……」

「答えてくれたの?」


 小宮は首を横に振る。


「だいたいはぐらかされてたかな。異性としてじゃなく、人間として好きなタイプだったら、答えてくれたこともあったけど」

「まあ、そうなるよね」

「でも当時は、照れくさくて答えてくれないだけかと思ってた」


 だれもが当たり前に恋をするという前提を疑わなければ、そういう勘ぐりにもなる。


「でも、……ううん、だからというか、彼からアセクシュアルだって告げられたときは、妙な納得感があったんだよね。点と点が線でつながっていくみたいな」

「そっか」

「“ウソでしょ?”“信じられない”みたいなリアクションじゃなくて、“なんだ、そういうことだったんだ”って腑に落ちちゃった」


 衝撃的な告白を聞いたときは、戸惑いや驚き、あるいは疑いの念が先行するものだ。でも小宮の場合、ある意味ではすんなりと受け入れてしまった。納得してしまったが故に、涙を流すほどのショックに襲われた。


「事実を受け入れるまでに時間がかかるときってあるでしょ? 部活でも受験でもなんでもいいけど、結果が出た直後はまだ実感が湧いてこなくて、しばらく経ってから“ああ、ダメだったんだな”って感じるようなとき」


 感情が追いついてこないとき、実感は遅れてやってきたりする。「でも」と小宮は続ける。


「彼にカミングアウトされたときは違ったんだよね。もしかしたら、薄々勘づいてたのに、心のどこかで否定していただけなのかもしれない。だから彼にはっきりアセクシュアルだと告げられて、無意識下の感情があふれ出てきちゃったのかも」


 小宮はそんなふうに語った。まるで雨上がりの乾いた空気のような声で。


「それで、近藤とはどんな話したの?」


 小宮は話題を転じる。賀野川の写真を見られている以上、いずれ聞かれるだろうとは思っていた。

 仮面浪人のことは自分で話すと言っていたから、常盤はそのことには触れないように気をつける。


「小宮と恋人にはなれないかもしれないけど、友人としては大事にしなよって、そんな話かな」

「アオハルだね」

「『山月記』について語らったりも?」

「『山月記』って、虎に変身しちゃう、あれ?」


 こくりと常盤は頷く。


「妻子をほったらかしにした結果、虎になっちゃう、あれ。家族を心配するより先に、自分語りをしちゃうような、あれ」


『山月記』の主人公は、虎になった経緯を話すだけでなく、自分の詠んだ詩を書き留めさせることまでした。一方で、妻子を心配する言葉を述べるのは、詩人への未練を語ったあとだった。


「『山月記』ってそんな話だったっけ?」


 気になったのか、小宮はスマホで検索を行って、青空文庫にアクセスする。

 作中には李徴りちょうが虎になってしまうような自分を嘆くセリフがある。


「本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。」


 小宮は青空文庫のページをスクロールして常盤に示した。

 このセリフを言葉どおり解釈するなら、李徴りちょうは「飢え凍えようとする妻子」よりも「己の乏しい詩業」のほうを大事にしていたということになる。


「でも、登場人物のセリフは真実をそのまま表しているとは限らないよね。嘘、勘違い、思い込み、偏見、誇張、見栄。そういう人間臭さが紛れ込む」

「口では反省してるけど、ほんとは全然妻子の心配なんかしてないってこと?」


 常盤が口にすると、小宮はくすくす笑い出す。


「なるほど。そっちに解釈しちゃうか~」

「じゃあ、小宮ならどう解釈するの?」

「本当は家族のことを後回しにしてたんじゃなくて、実はすでに消息を確認してたとも言えるんじゃない?」


 李徴りちょうはすでに家族の身の上を確認済みだった。心配する必要がないと知っていたから、家族のことよりも先に自分の詩業のことを口にしてしまった。最後になって家族を案じる言葉は述べたのは、途中でそのことに気づいて、ごまかそうとしたから。

 小宮はそういうふうに解釈して見せる。


「ほら、ここ。“彼等はいまだ虢略かくりゃくにいる”って述べてる。これって、家族がその場所で変わらず生活してることを把握してるってことだよね?

 それにさ、最後のお願いとして頼んだのは、自分が死んだと告げてもらうことだけ。もし本当に家族の消息を知らないんだったら、まずは家族が無事に暮らせてるかどうかを気にするんじゃないかな」


 小宮は『山月記』の李徴りちょうを好意的に解釈する。その表情にはれがない。李徴を無責任な男(虎)だと思い込んでいた常盤にはできなかった読み方だ。


「小宮、あんたってやっぱ、いいヤツだな」と常盤は言葉をかける。

「なにそれ? もしかしてバカにしてる?」


 常盤の感想に対して、小宮はおどけるように尋ね返す。


「バカになんかしてないよ。純粋に褒めてる。……そんな風に好意的な読み方ができるのは、おいらと違って心が清らかだからだろうね」

「そんなにおだてたって何も出ないからね」

「いや、すでにご馳走になってるんだけど」


 小宮は口元を手で隠すようにして含み笑いをする。


「好意的な読み方って言えばさ、この前ひさしぶりに投稿サイトを覗いたけど。ほら、中学のときにも使った小説投稿サイト。近藤の小説には毎回好意的なレビューをつけてたみたいだね」


 小説投稿サイトに近藤が投稿した作品に対し、小宮は毎回高評価のコメントを寄せていた。


「わたしのためにアップしてくれてたようなもんだからね」

「どういうこと?」

「退部したわたしにも読めるように、ってこと。高校の文芸部は途中で辞めちゃったから」


 イタズラが過ちになってしまったあの出来事。近藤は小宮を一言も責めなかったし、部の中で泥をかぶりさえした。それでも、部員には薄々は事情が伝わるのは避けられず、小宮は文芸部を辞めた。


「わたしが部活に顔を出せなくなったから。それでも手軽に読めるようにって、彼がウェブにもアップロードしてくれてたんだよね」

「…………惚気のろけ話ってことでいい?」

「惚気じゃないってば」


 否定する小宮の顔は、しかし満更でもなさそうな笑みを伴っている。恋人ではなくても、恋人にはなれないと理解していても、近藤のことを語る小宮は楽し気だ。

 小宮はいったん立ち上がって、ティージャグを取りにキッチンへ向かう。その後ろ姿、三角巾の結び目を常盤はぼんやり見つめる。

 戻ってきた小宮の差し出してくれたお茶は、冷蔵庫でひんやり冷やされていた。常盤はお礼を言って、それを飲む。


「新しい作品も投稿されてたよね」

「ときちゃんも読んだんだ。わたしも読んだよ、『恋の難病』」

「どうだったの? まだレビュー書いてなかったよね?」


 近藤の作品にいつも欠かさずレビューや評価を付けていた小宮だったが、この作品に関してはまだ何もアクションをしてなかった。


「この作品が公開されたのって、ときちゃんと河原で話したあとだよね」

「うん。タイミング的にはそうだね」

「まるで、わたし一人に向けて書き上げられた作品みたいだよね」

「“みたい”じゃなくて、ほんとにそうなんじゃない?」


 近藤が書いた『恋の難病』は、小宮の作品である『難病の恋』のクライマックス部分を書き直したものだ。

 近藤の『恋の難病』ではヒロインが泣き出してしまったあとに加筆がある。「まさか泣かれるほどとは思ってなくて」とおろおろする男子に、ヒロインは顔をほころばせる。

 そして晴れ間の暗示と手を握る描写。


「『難病の恋』って、中3のとき作品だよね? それをベースにしてリメイクしているのは、中3のときの告白に対する返事ってことなんじゃない?」


 “泣かれるとは思ってなかった”ってセリフも、小宮を泣かせたという近藤の状況とピッタリ重なる。ラスト数行の文章は、そのまま近藤の気持ちとして読み取れるものだった。

 視点人物を変えたことにより、男側の心情説明が増えることになった。そうすることで近藤は、自分の心情を小説に仮託したように思える。

 常盤が感じたままを述べると、小宮はほっこりと微笑えんだ。


「公開恋文こいぶみだよね。だれでも読めるウェブ小説に、こんなの書いちゃうなんてさ」

「よかった。その解釈はおいらと一致してる」

「ふふ。ほんと困っちゃうよね」


 レビューコメントをすぐ書けなかったのは、ぜの感情がこんがらがって冷静ではいられなかったから。小宮はそよりとそう述べた。




いつの日か読んだ文庫に手を伸ばしあの日のしおりを見つけた気分

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