第十帖 学生アパート

たとえばさ呪文一つで世界からどんな痛みも消し去れたなら

――近藤はね、寡欲だけど、努力家なんだよ


 あれは、部誌を制作した直後だったか。

 近藤の書いた『手紙』という小説について、小宮と意見を交わしたときのことだ。

 過去の自分から手紙が届く。それを読んで昔の自分を思い出し、日々への向き合い方を改める。そんな筋書きの小説。

 すこしひねっていたのは、“過去の自分”が冷めた見方をするヤツだったことだ。クールぶってるわけでもなく、ただシニカルな印象。だから“過去の自分”と“現在の自分”の対比が分かりにくかった。もしこれが「夢や情熱にあふれていた若いころの自分を思い出す」というストーリーだったら、もっと分かりやすいと思うのに。

 そんな感想を漏らしたら、小宮はほおを緩ませて言ったのだった。「近藤はね、寡欲だけど、努力家なんだよ」と。

 まるで自分がいちばん近藤のことを理解しているみたいな口ぶりで、小宮はそう言ったのだった。


 常盤がふと昔のことを思い出したのは、小説投稿サイト上で“些末なうどん粉”のアカウントが新しく作品を公開していたからだった。更新日時を確認すると、賀野川で常盤と喋ったその翌日になっている。

 タイトルは『恋の難病』。

 それは明らかに近藤から小宮へのメッセージだった。小宮が昔書いた短編『難病の恋』のクライマックス部分をリライトしたもの。小宮の小説と違い、男性視点で描かれ直されている。

 設定は元の小説そのままだから、二人の状況にピッタリ重なるわけではない。でも“ボク”が「たとえウソだったとしても付き合ってみようと思ったんだ」「まさか泣かれるほどとは思ってなくて」と告げるのは、近藤自身のセリフとしても読みとれる。

 だとすれば最後の2行、太陽が差し、手を握るというのも、きっと小宮に宛てたメッセージだ。直接に想いを綴ったわけではないけれど、この情景と行動の描写には、近藤から小宮に向けてのメッセージが込められているような気がする。


 これは小宮のためだけに書いた作品だな、と常盤は思った。近藤は直接伝えるのではなしに、作品にメッセージを込める形をとったのだ。はっきりと口には出しにくいことも、作品としての表現なら言いやすくなることがある。

 ある意味近藤らしいやり方だなとも思った。しかも作品をどう解釈するのかは読者に委ねられている部分もある。

 近藤はたぶん、小宮の答えを待っている。この作品をどう解釈し、どう反応するのかも小宮の自由だ、というなスタンスで。

 小宮は近藤がサイトに投稿した作品には毎回必ずコメント付きのレビューを書いていたけれど、『恋の難病』に対してはまだリアクションをしていなかった。




たとえばさ呪文一つで世界からどんな痛みも消し去れたなら

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