夕差しに染まる河原の笑い声 こういう夏も好きな気がする

 日は徐々に傾きつつあった。


「なあ、キスってどう思う?」


 近藤がようやく口を開いたとき、常盤は相槌もそこそこに「え?」と訊き返していた。

 なんかふわっとした質問が来た。


「どうしたの、突然」

「いや、だから…………キスってどう思う?」

「どうって、どういう意味?」

「どうっていうのは、どのようにって意味だよ」

「そんなトートロジーみたいなことじゃなくてさ……」

「そういうような関係にない男女がキスするのって、どうなんだろう」

「そういうような関係って何? はっきり言いなよ」

「お前、分かっててわざとトボけてるだろっ」

「近藤の聞き方が悪いんじゃんっ」


 とはいえ、近藤が何を気にしているのかは、薄々伝わっては来る。


「一般論として尋ねてるわけじゃないよね?」

「……」

「小宮がどう思うのか気にしてる……?」

「ああ……まあ、そりゃ、な」


 こういうとき、近藤の口から出るのはやっぱり小宮なんだなって思う。


「キスって……特別な行為だよな」


 あまりにも混じりけのない言い方をするから、常盤のほうが唾をのむ。目線がおぼつかなくなる。


「違うのか?」

「そりゃ、そうかもしんないけどさ。なに? 小宮がそう言ってたの?」

「キスシーンが登場するのは大抵クライマックスだったし、どれも軽々しい描き方はしてなかった」

「ドラマかなんかの話?」

「小説だよ。小宮の書いた短編小説」

「ああ、そっか。なるほど」


 改めて常盤は気がつく。

 近藤はレンアイが分からないとは言うけれど、小宮の執筆した恋愛小説は読み続けてきて、そういうふうに気持を想像しているのだ。

 そしてたしかに小宮の恋愛観は、小説たちのなかに映し出されている気もする。


「だから半ば強引な形であれ、静原とキスしたときはかなりマズいことになったと思ってた。それで小宮にはそのことは伏せたままにしてた」


 キスっていうのは特別な行為で、そのことを近藤も理解していた。理解しているからこそ、静原とキスしたことを、簡単に打ち明けることはできなかった。

 常盤はいつもの手帖とペンを取り出す。やっぱりこういうときはスマホでなく、紙にペンを走らせたいと思う。

 文字を綴る速さで、常盤は声を発する。


「特別なことってくらいは知っていた 。だから無かったことにしたんだ」


 近藤は一瞬ムッとした顔をして何か言いかけたが、そうする代わりに手帖とペンを要求する。

 常盤が手帖とペンを渡すと、近藤はしばらくペン回しをしたあとで、手帖に記入してく。

 常盤は手帖を返してもらうと、近藤が書き込んだ短歌を読み上げる。


「特別な意味を含まぬ接吻と説明せむとカミングアウトす」


 文語調を取り入れた短歌だ。接吻せっぷんとはキスのこと。あのキスには特別な意味はないと説明しようとしてカミングアウトする、つまりアセクシュアルだと明かしたということか。

 常盤は確認するように近藤の顔を見つめる。


「小宮にアセクシュアルのことをカミングアウトしたのって、こういう理由だったの?」

「まあ、そんなところだ。静原とはキスすることになってしまったけど、そこに特別な意味や意図はないってことを説明したかった」

「自分はアセクシュアルだから、恋愛感情はまったくないから、静原さんとのキスも形式的なものにすぎないって、そう説明して分かってもらおうとしたってこと?」

「ああ。実際には途中で落涙されて、尻切れトンボになったけど」


 近藤はキスという行為が特別な意味を持ちうると理解していた。だからこそ小宮を傷つけまいとして、静原とのキスに特別な意味はないと説明しようとした。

 それがアセクシュアルの事実を明かした理由。静原にはまったく恋愛感情を抱いておらず、キスは形だけのものだと説明しようとした。

 でも……。

 アセクシュアルだと告げることは、静原への恋愛感情を否定することであると同時に、小宮への恋愛感情を否定することでもあった。小宮にとってはそっちのほうが大きな問題だった。


「もともと俺は、必要性がない限りカミングアウトする必要はないと思ってた。

 小宮は俺に片想いしてくれてるけど、かといって俺に何かを期待してるわけでもない。内心はどうか知らないけど、少なくとも俺に恋愛的行為を求めてくることはなかった。あいつはそれで満足してるみたいだったから、あえてカミングアウトする必要はないと思ってな」

「前に聞いたときの話だと、小宮のほうから関係性をはっきりさせておきたいってことだったよね?」

「それは嘘じゃない。はっきりさせるために、小宮は俺が静原とキスしたことを問いただし、静原のことをどう思っているのか訊いてきた。真剣なまなざしで、正直に話してほしいって頼んできたから、それで俺もカミングアウトすることにしたんだよ」

「で、アセクシュアルだってことを告げたら、小宮を泣かせてしまった……」

「正直に言えば、静原が“ひと思いに振ってほしい”と言ってたことも頭の片隅にはあった。この先も小宮の気持ちに応えられないかもしれないから、そのことは伝えておくべきかもしれないって。

 とはいえ俺としては、アセクシュアルであることを告げたからといって、小宮との接し方を変える気はなかったし、あいつもこれまでと変わらず受け入れてくれるんじゃないかと考えてた」


 小宮は一方通行の恋路と知りながらも、その道を歩んできた。だから近藤は、アセクシュアルをカミングアウトしても、同じように受け入れてくれるのではと期待していたのだ。

 日が傾いてきても、暑さはまだ和らいでいない。喋ったあとだと喉も渇く。常盤は飲みさしのペットボトルを手に取って、ゴクリと口に含む。

 間接キスはキスの内に入らない……か。

 納涼の風がそよそよと吹きぬけた。


「キス、どんな感じだったの? 初めてだったんだよね?」

「初めて……まあ、そういうことになるのか」


 近藤は川向こうを……あるいはどこでもない遠くを見るような目つきになる。


「感想みたいなもんがあるわけじゃねーけど」

「ないの? ファーストキスなのに?」

「ファーストキスだったら何だって言うんだよ」

「だってほら、ファーストキスはレモンの味とかって、昔から言うじゃん」

檸檬れもん? みすぼらしくて美しいってか?」

「だれも梶井基次郎の『檸檬』の話なんてしてない!」

「んなこと言われても。だいたい、キスの味云々うんぬんってのは、マウス・ツー・マウスでのキスの話だろ?」

「なにその人工呼吸みたいな言い方。…………って、え? ちょっと待って。“マウス・ツー・マウスでの話だろ?”って、どういうこと? マウス・ツー・マウスじゃなかったの?」

「ああ」

「……」

「こめかみへのキスだよ」

「どっちからどっちへの?」

「静原が俺のこめかみにキスした」

「なんでこめかみ?」

「知るか。その場の勢いだろ?」

「ハァ―――。なにそれ。 てっきり唇同士のキスしたのかと思ってた」


 常盤は大きく溜め息をついてうなだれる。


「静原から聞いてたんじゃなかったのかよ」

「聞いてないよ。静原さんは“キス”としか言わなかったし」

「……嘘ではないな。こめかみにキスされたのは本当だし」

「小宮は知ってるの? このこと」

「そりゃあな。そもそも小宮がキスのこと知ってるのは、静原が直接小宮に謝ったからだし」

「謝った? ひけらかしたんじゃなくて?」

「うん。だから小宮はキスのこと自体はそんなに怒ってるわけじゃなかったぞ」

「あ~~~」


 常盤は文字どおり頭を抱えて唸る。

 そのぼやき方がおかしかったのか、近藤は噴き出して笑った。「笑わないでよ」と常盤はツッコんだけれども、なかなか笑いは収まらない。

 常盤のうっかり勘違い……いや、静原は「トリガーを引いた」とか「火をつけた」とか、わざとそういう言い回しをしてた。キスについても神妙そうな口ぶり。要は常盤をかついだのだろう。

 静原にまんまと踊らされたようで、すっかり脱力する。


「そろそろ笑い終わってよ!」

「いや~、わるいわるい。ちょっとツボっちゃって」

「も~」


 不貞腐れつつも、常盤も真剣に怒ってるわけではなかった。自分の勘違いを笑われているのに、常盤はどこか心地よいとすら感じていた。大笑いする近藤を見るのが久しぶりだからだろうか。笑い飛ばしてくれたことがありがたかった。

 夕刻の日差しは古風な橋げたをほんのり染め上げていた。




夕差しに染まる河原の笑い声 こういう夏も好きな気がする

 

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