数学の問題だったら割り切れる割り切れないもはっきりなのに

 河川敷に座っている人にはカップルの組も多い。ここの川岸に並ぶカップルが自然と等間隔になっているというのは、わりと有名な法則らしい。

 そこに混じって座っていれば、常盤たちもカップルに見えているかもしれない。そぞろにそんな想像をしながら、同時にそんなこと気にも留めていないだろう近藤を思う。


「静原さんから聞いたよ」


 まわりくどく尋ねるより、単刀直入に踏み込んだほうがいいかと思って、常盤は口を開く。


「キス……したらしいね」


 近藤は眉ひとつ動かさず常盤の言葉を受けとめていた。驚いたそぶりを見せなかったのは、静原から電話をもらった時点で、すでに織り込んでいたためか。


「小学生の子どもに、キスするようまくし立てられたんだって?」

「ああ。いまから考えれば、キスしてみせるんじゃなくて、子どもをなだめるべきだったんだろうな。あのときは……その場の勢い任せにしてしまったところはあると思う」

「……じゃあ、ほんとにキスしたんだ」

「そのあと静原からは尋常じゃない謝り方をされて、それはそれで戸惑ったけどな」


 恋人のフリを頼むような企みごとはするのに、そういうところは謝る。さすがにやりすぎの行動と感じたのだろうか。

 近藤はそう言ったきり、言葉を発しない。常盤も質問したり、先を促したりはしない。しばらく沈黙が続く。

 川の流れを見ていると、時間の流れがゆっくりになる気がする。

 常盤は沈黙が苦になるタイプではない。考えたり、悩んだり、言葉を選んだり……そういう時間の大切さを知っているから。

 空は淡い色に霞みつつあって、日暮れが近いことを感じさせていた。


「もしかしたら、デート自体を引き受けるべきじゃなかったのかもしれない……って、今さらながら考えたりするよ」


 やがて近藤が口を開いた。


「ただ、俺はもともと、頼み事を極力断らないようにしててさ」

「うん。知ってる」


 挨拶をするように人助けをしたい。近藤はかつてそう語ったことがあった。

――人から挨拶されたとき、返事をするか否かをいちいち損得勘定で考えたりしないだろ。同じように、人に頼み事をされたときも、功利的な計算を挟まずに応じれたらいい。


「……別に高邁な精神とかじゃねーけどな。頼まれ事を引き受けるかどうかを、くどくど悩みたくないだけだ」

「でも、どんなお願いでも聞いてくれるわけじゃないよね?」

「そりゃそうさ。不可能なことは不可能だし、現実的に厳しいこともおいそれとは引き受けられないからな」

「小宮の恋人になるのは……?」

「小宮には以前言ったことあるけど……応じられないんだよ、マインド的に」

「マインド?」

「恋愛感情が生じない以上、恋人のフリはできても恋人にはなれない」

「だから静原さんの恋人のフリをしてあげるのはできたってこと?」

「関係性を偽ることと、恋人的行為をすることの違いかもしれない」

「かもしれないって……。それって、」


 二の句を継ごうとして、ふと常盤の頭をよぎるものがあった。

 近藤の両親は契約結婚だ。恋愛感情を伴わず、交際を重ねて結婚したのではない。もともとはあくまで便宜上で籍を入れたと聞いている。

 近藤は特段そのことを異様視してはいないし、常盤もまたそういう家族のカタチはありうるだろうと考えている。事情を聞くまで契約結婚だとは分からなかったし、事情を聞いた後も違和感を抱きはしなかった。契約結婚だからといってフツーの家庭とそう変わるところはないと、常盤は思っている。

 けれど、いま近藤が述べた“恋人だと関係を偽ること”と“恋人らしい行為をすること”の違い。恋愛抜きで結婚した両親の姿を間近に見ている近藤にとっては、感じるところがあるのかもしれない。

 常盤はどのように言葉にまとめようかと悩んでいたが、その思案顔を見てとったか、近藤は「そんな難しいことは考えてないよ」と否定する。


「でもやっぱ、そんなくだらない理由で恋人役を引き受けたりしないよ、ふつう」

「そうか? もし静原が頼んできた理由が“もうすぐ死ぬ祖母ばあちゃんに婚約相手を見せてあげたいから”とかだったら、そっちのほうが尻込みしたと思うぞ?」

「そのときは猫型ロボットの手でも借りたいね」

「どんな理由であれ、小宮には相談するつもりではあったけどな」


 付き合っているわけではないのだから、小宮が近藤のデートに口出しする権利や資格はない。でも、なんとなく想像できる。近藤はきっと小宮の気持ちを汲んでくれる。


「おいらがデートしてほしいって頼んだときは、二つ返事だったよね?」

「常盤の場合はこっちの事情も知ってくれてるから、返事に悩む必要もないだろ?」

「ってことは、おいらのときは、なんとも感じなかったんだ?」


 静原が恋人のフリをしてほしいと頼んだときは小宮に相談していた。しかもそのときには、予定外のキスまでしていた。

 そんなことがあった直後なのだから、常盤がデートを頼んだときにも、何かしらのことを連想してもおかしくないはずだ。

 常盤は帽子のつばで視界を狭めるようにした。なんとなく、いつもの癖だ。

 なんだろう。どうしてだか、やるせない気持ちが胸のあたりをもたげてくる。


「なにも感じなかったわけじゃねーよ」


 河川敷の遊歩道をジョギングする人の一団が通り過ぎていくのが、目の片隅に映った。ジョギングの群れを目で追って、また前を向く。


「なんというか……ちょっと懐かしいな、とは思った」

「どういう意味?」

「文芸部に入った初期のころは、常盤が音頭をとることが多かった気がする。いつのまにか小宮が主導権イニシアチブを取ることが多くなったけど」

「そっか、そういえばそうだっけ?」


 小宮がまだ表立ったアプローチをかけていなかったころ。そのころは常盤が言い出しっぺになることが少なくなかった。俳句や短歌を詠むという名目で、三人でどこか出かけようよと誘っていた。


「だから久しぶりな気がして嬉しかった」


 再び近藤は間をおく。川のほうを見ながら、かといって川を注意深く観察しているわけでもない。常盤も同じように川をぼんやり眺める。

 そよ風のように時間が流れた。


「そういえば話変わるけどさ、センターって来年が最後だよね?」


 常盤はちがう話題に水を向け、近藤の反応をうかがってみる。

 大学入試センター試験は来年1月に実施されるのが最後となり、翌年からは共通テストがスタートする。


「怒るか?」

「怒るって何に? センター試験が廃止されて、記述式とか民間試験とかが導入されることを批判でもすればいいの?」


 当時はまだ共通テストで記述問題を課すことが議論されていたし、英語もTOEICや英検などの民間試験を利用することが検討されていた。


「そういうことじゃなくて……」

「じゃあ何?」


 常盤はあえてとぼけてみせる。近藤自らの口で語ってもらうために。


「京徳大学を再受験しようかって考えてる」

「っそ」

「リアクションそれだけ?」

「まあ、この前数学の勉強見たときに、なんとなくそうかなぁって察してたし」

「怒んないのか?」

「怒ってほしいなら怒ってあげるよ?」


 高校受験のとき、いちばん血相を変えたのは常盤だった。「好きでもない人のためになんでそこまでするの?」と口を酸っぱくまくし立てた。だが、近藤が再び京徳大学――小宮のいる大学を受験すると聞いても、腹の虫はうごめかない。

 常盤の身近にも、仮面浪人を経て京徳大学に入ったという人は何人かいる。普通の浪人生と比べれば数は少ないかもしれないが、格別珍しいわけではない。


「黙ってて悪かったな。そのときに言うべきだったよな」


 ばつが悪そうに近藤は頭を掻く。

 近藤は仮面浪人するつもりだということを改めて述べた。室町大学に在学したまま受験勉強をして、来年もう一度京徳大学の入試を受けるということだ。


「……べつに小宮を追いかけて再受験するわけじゃない。そもそも京徳大学を志望校に決めたのは俺が先だったんだよ。小宮のこととか関係なく、この大学に入りたいと思ってたんだ。だから再受験するっていうのも、あくまで俺の中での問題だからな」

「近藤自身がよく考えたうえでの決断なら、おいらも口を挟むつもりはないよ」


 京徳大学に行けなかったことによる未練と、小宮と立ち別れになったことによる後腐れ。近藤は前者にケリをつけるために再受験するのだと、あくまで強調する。

 常盤はそれを生半可な決意だとは決して思わない。仮面浪人には、一般の浪人とは異なるしんどさがある。

 周囲の学生は受験勉強をしているわけではないから、勉強のペースもモチベーションも自分でなんとかしなければならない。そもそも大学で知り合った友人には、仮面浪人のことを打ち明けない人も少なくないようだ。受験に失敗すれば気まずいし、合格したらしたで、その大学を去ることになるのだから複雑だ。サークルや課外活動を満喫する友人を横目に、自分は受験勉強に勤しむというのもしんどい。

 単位の問題もある。受験勉強に専念するあまり、大学の単位を落としてしまったなんて話もある。合格が決まればいいけれど、落ちてしまったら目も当てられない。単位が不足した状態での大学2年目が待っていることになる。単位を適度に取りつつ受験勉強できればいいが、うまく両立しないといけないし、合格した大学が単位の換算を認めてくれない場合は、せっかく取得した単位もムダになる。

 そうしたリスクを背負って仮面浪人するというのなら、動機がどうあれ、常盤はその決断を応援したいと思う。


「近藤がほんとに京徳大学に受かったら、おいらの後輩になるってことだよね。ちょっと面白いかも」


 当の近藤は面白くなさそうな顔をしているが、勉強も教えてあげたことだし、これくらいからかう権利は常盤にもあるだろう。


「……で、小宮には伝えてるの? 仮面浪人のこと」


 近藤はまたも答えにくそうな顔をした。


「正式に出願したら、俺のほうから言うつもり。だからそれまでは黙っといてほしい」


 現役生の場合、センター試験は学校経由で出願するけれど、浪人生は個人で出願する必要がある。出願するのは10月初めだそうだ。


「確率を上げたいんだったら、小宮にも協力を仰いだほうが絶対いいよ。塾講のバイトしてるから、おいらよりよっぽど教えるの上手だと思うし」

「俺が小宮を振ったこと、忘れてないか?」

「そんなのうどん粉並みに些末なことだよ。小宮だったらきっと喜んで教えてくれると思うな。愛情付きの特別メニューでさ」


 言った後で、“愛情付き”みたいなクサいセリフになってしまったことを小恥ずかしく感じて、常盤は咳払いをする。その空気を薙ぎ払おうと、常盤はすぐに別の言葉を継ぎ足す。


「ほら、『山月記』の主人公みたいにさ、ケチくさいプライドとメンドウな羞恥心を拗らせたりしないようにしなよ?」

「……なんか言い回しが違うような気がするが」


 正確には“臆病な自尊心”と“尊大な羞恥心”だった。

 小説『山月記』の主人公は詩人として名を成そうと目指すが、臆病な自尊心と尊大な羞恥心が邪魔して、切磋琢磨して自分を磨くことをしなかったために虎になってしまう。


「つまらない見栄を張って虎に変身しないように気をつけろってことか?」

「トラになろうがドラゴンになろうが知ったこっちゃないけど、変身したからって、大事な人をほったらかしにしちゃダメってこと」


 虎になった主人公は、たまたま再会した旧友に妻子への言づてを頼まざるをえなかった。会話する能力はあったのだから、もっと早く伝えることもできたはずだ。なのに旧友に依頼したことといえば、自分が死んだと告げてほしいということだった。あの主人公は、虎になってもなお独りよがりのままなのだ。


「ま、とにかくさ、小宮とはうまくやんなよ。いつまでもビミョーな距離を置いたままでいるんじゃなくて」

「距離感に関して言えば、小宮がどういう関係性を望むのかにも拠るけどな」


 そもそも近藤は、現状維持を望んで「友達のままじゃダメか?」と小宮に訊いた。それにショックを受けたのは小宮のほうであって、どうボールを投げ返すかは小宮の問題だとも言える。

 けど……。


「近藤自身の意志はどうなの? 小宮に合わせるだけなの? 恋人ではなくてもさ……人一倍親しい間柄だったわけじゃん? そりゃ恋愛感情としては違ったかもしれないけど。でも大事な友人だと思ってるんなら、だったら………………小宮のこと、大事にしてあげなよ」


 まるで照り返しから目を背けるみたいに、常盤はつい目をそらしてしまった。近藤は肯定も否定もしない。ただ黙して常盤の言葉を聞いていた。


「いや、これはおいらの勝手な願望だから、気にしなくていいけど……」


 言いたいことがまとまらないまま口から出てしまって、尻すぼみな言葉を付けたす。

 近藤は、そんな常盤の言葉をふふっと笑って受けとめた。


「期せずしてまた相談に乗ってもらう形になっちゃったな。あのときみたいに」


 あのときというのは中3のときのことだろう。近藤の言葉には懐かしさが帯びていた。

 部誌の制作という、文芸部としての活動に区切りがついて、小宮はとうとう近藤に告白した。近藤はすぐには返事をできず、常盤に相談してきたのだった。

 ろくなアドバイスができた記憶はない。結論を先送りするのにも等しく、友達以上恋人未満の関係を続けさせることになった。

 大した相談にも乗れなかったのに、でも近藤は「相談に乗ってもらって助かった」と感謝しているらしかった。





数学の問題だったら割り切れる割り切れないもはっきりなのに

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る