強引に奪ったキスの後味を残したままで檸檬爆弾

 すらりとした長身に、艶のある黒髪。見返り美人図の構図で見かけたなら、清楚でしとやかな印象を抱いていたかもしれないが、大胆にアシメカットした前髪が妖艶な色気を演出している。噂として聞いていただけの静原の容姿イメージを、常盤は頭の中で修正する。


「敬語じゃなくていいよ。タメでしょ?」


 紅茶が運ばれてきたくらいのタイミングで、静原はそう言った。

 サイフを忘れたというのはもちろん嘘。「これからちょっと話せない?」と静原は提案し、書店に併設されているカフェを指し示した。

 それで今、二人でテーブルに着いている。

 カフェには梶井基次郎の小説にちなんで、レモンのスイーツがあるそうだけれど、常盤は注文する気分ではなかった。


「時間は大丈夫?」

「とくに用事はないですよ。……ひとりでブラブラしてただけなんで」

「へえ、ひとりで?」


 常盤の気のせいでなければ、「独り」をあおるような言い方だった。


「おいらのことを知ってるのはなんでですか?」

「あ、ほんとに“おいら”って一人称なんだ?」

「答えになってないんですけど」

「……帽子に緑の羽根がつけている素敵な女の子を見かけたから、話したくなっちゃって」

「だとしたら、おいらの名前まで知ってるのはなぜですか?」


 静原はくっくと笑う。


「夏くんに聞いたからに決まってるじゃない?」


 静原はさも当然のように言う。エスカレーター付近にいたところを、逆に近藤たちに見かけられたらしい。

 近藤を「夏くん」と愛称らしき名で呼んだことについては、常盤はひとまずだんまりを決め込む。


「なら、肝心の近藤はどこ行ったんですか?」

「先に帰ってもらったわ。女二人だけで話したいことがあるからって頼んだら、OKしてくれたよ」


 さらに静原は女王様然とした笑みをたたえて付け加える。


「つくづく彼って、断れない性格してるよね」

「断ないんじゃなく、断ないんですよ」

「挨拶を返すように?」


 静原はにたりと口角を上げる。小宮のようなイタズラ好きとはまた違う、ネチっこい言い方のように感じた。

 「挨拶を返すように」という話は、常盤もかつて近藤から聞いたことがある。

 挨拶するみたいに善行を行えたらいいと、近藤はそう言った。「“いただきます”を言うのに、毎回意味なんか考えないだろ。“こんにちは”と声をかけられたら、いちいち返事をするか迷ったりしないだろ。そういうふうに迷うことなく善い行いができたらいなって思うんだよ」と。他人から何かを頼まれたときに、損得のような難しいこと考えずに引き受けるようにしたい。そんな話だった。


「今日だって、書店に行くっていうから勝手について来ちゃった。夏くん、そういうの拒んだりしないのよね」

「勝手について来ただけで、デートではないってことですね」

「もしかしてヤいてた?」

「だれもヤキモチは焼いてませんよ。少々、手を焼きそうだなとは思いましたが」

「言うわね」

「初対面なのにズケズケ来たのはそっちでしょ」

「あたしと常盤さんは、馬が合う予感がするんだけどな」

「どこからそんな予断が生じるのか、逆に気になるね」


 そんな静原の調子に乗せられて、常盤もいつのまにかタメ口に切り替わっている。


「同類の匂いを感じるのよ。なんとなくだけどね」


 静原はハンドバッグからおもむろに何かを取り出す。女性でも手で握りやすいサイズの円筒形の機器。


「なに? それ」

「望遠鏡とカメラが合体したみたいなやつ」

「ひみつ道具かなんかなの?」

「高校時代は写真部に入っててね。そのときはコンデジ――コンパクトカメラね――も使ってたんだけど。あたしは技術とかにこだわって写真を撮るタイプじゃないし。今は、近くの写真だったらスマホ、遠くの景色だったらこれって使い分けてる」


 静原はその望遠鏡型カメラの使い方を簡単に説明してみせる。アプリでスマホとつなげられるから、SNSにもすぐアップできるみたいな話。常盤は静原の意図が読めず、あいまいに頷きながら話を聞く。

 常盤の反応を察したか、静原は元の話題に戻した。


「夏くんが言ってたわよ。常盤さんはインスタの代わりに短歌を詠むようなやつだって」


 それは少し歪んで伝わってるような気もする。くさしているのではなく、どうやら好意的に捉えてくれているような口ぶりではあるが。


「インスタもなにも、当時はスマホを持ってなかったからね。それだけの話だよ」

「そういうことじゃないのよ。なんていうの……いわゆるガチ勢じゃなくて、エンジョイ勢って言うのかな。コンテストや賞に応募して入選を目指してやってるわけじゃなく、日常の断片を切り取って、個人的に残したいだけっていう。そこがおんなじだなって思ったのよ」

「たしかにおいらは懸賞とかはそんなに興味なかったけど……」


 のほほんと取り組んでいただけのこと。誇らしげに語るようなことはどこにもない。


「あたしも一緒よ。あたしが写真を撮るのも同じ。だれかに認めてもらいたいわけじゃない。自分の思い出を、形にして残しておきたいだけ。世間に発信したいんじゃなく、仲の良い友達数人で共有できたらいい」


 たとえヘタクソでも、それはそれで味がある。拙いなりに形に残そうとしたってこと自体が、ひとつの思い出。そのときの自分にしか書けない気持ちを綴ったり、その瞬間しか撮れない写真を切り取ったりする。

 創作だから、ときには脚色もある。ありのままもいいけれど、ときには想像の世界を膨らまして、普段は使わない表現を選ぶ。映えるよう構図を工夫し、美しくなるよう加工する。

 手段は違えども、常盤と静原のスタンスは似ている、ということになるのか。

 返事をする代わりに常盤はのっそりティーカップに口を付ける。


「それと、多分だけど常盤さんも…………リビドーを理性で抑えつけてるタイプな気がする」

「んぐっっっ、コホッ、コホ」


 飲みかけていた紅茶を常盤は噴き出しそうになってむせる。


「あ、ごめん。そんなにツボるとは思わなくて」


 静原の謝罪を尻目づかいに、常盤は周囲を見回す。奥様方や男女連れの客のテーブルは、相も変わらぬ時間が流れている。


「いきなりリビドーとか、変なこと言わないで」

「ごめんごめん。でも、常盤さんとはそういうとこも同類なんじゃないかと感じたのよ」


 静原は神妙な面持ちは、冗談を挟んでいるわけではなさそうだ。


「まあ、あたしの場合は、衝動を抑えられなくて、トリガーを引いてしまったわけだけど」

「どういう意味?」

「常盤さんは狂おしいほど好きになった人っている?」

「……急に何」

「あたしにとって、近藤夏雅はそんな存在だったのよ」


 静原はまるで歴史上の人物を呼ぶかのように、近藤をフルネームで呼んだ。


「誰かのことを一晩中考えていて眠れなくなった経験ってある? 夜も眠れないって比喩的な表現じゃなくて、ほんとに眠れなくなるのよ。あたしにとっては彼とのデートの前日がそうだった。ベッドに入って目を閉じてるのに、頭の中は彼のことをずっと考えてしまうの。寝ようとしてるのに徹夜になったのは、それが初めてだった」


 静原はコケティッシュに微笑む。


「安心して。もうそれほど執着はしてないから」


 それは何に対して「安心して」と言ったのだろうか。なぜ常盤に言ったのだろうか。

 店内の壁を飾る襖絵は、木目のフローリングやテーブルとともにしっとりとした雰囲気を醸し出している。樹木系のほのめいた香り、読書をする人の様子がさまになっていて、落ち着けるカフェだと思う。

 なのに常盤はトゲトゲした居心地を感じる。静原に話しかけられた時点で、なんとなくこんな話題になるんじゃないかと予感していたけれど、なかなか心がざらりとする。

 常盤は咳ばらいをして呼吸を整える。


「デートのとき、何かあったの?」


 常盤の質問に、静原は賢しらな笑みをたたえる。


「常盤さんはデートのことどこまで聞いてるの?」

「友達に恋人ができたって見栄を張っちゃったから、近藤に恋人役を頼んだんでしょ? 合格祈願に参拝に行って、そのあとご飯を食べた。そのときに近藤を恋人だって言って紹介したんだよね?」

「だいたい合ってるけど、見栄を張った相手は友達じゃないわよ」

「じゃあ誰?」

「小学生のガキどもよ」

「…………へ?」


 たしかに近藤からは誰に対して恋人を演じたというような話は聞いていなかったが、まさか小学生相手にムキになっていたとは想像していなかった。

 そもそも見栄を張るという動機で他人を嘘に巻き込むのを思いとどまってほしくはあるのだが。


「つくづく彼って、断れない性格してるわよね。こんな事情でもちゃんと引き受けてくれるんだから」

「断れないんじゃなく、断らないんだよ」

「それって同じじゃない? プラグマティックにいえば」


 静原が頬杖をつく。


「さすがにカレシになってって頼んでもムリだったけどね」

「そりゃね。近藤だって何でも屋なわけじゃない。不可能なお願いは聞き入れてくれないよ」


 もしそのお願いが通るなら、小宮はとっくの昔に近藤と付き合えているはずだ。

 それができていないのは、近藤にとって誰かの恋人になるということが遂行不可能な行為だからだ。恋人のフリはできても、恋人にはなれない。


「でも、キスはしてくれたわよ」

「…………は?」


 思いもよらない発言に、常盤はすっとんきょうな声が出てしまう。

 カレシのフリを頼んだ静原が、フリだけじゃなく本当にカレシになってほしいと頼んだというのは、予想の範疇ではある。張ってしまった見栄を貫き通すためとはいえ、おそらくカレシ役はだれでもよかったわけじゃない。静原が近藤にそのお願いをしたのは、近藤に好意を持っていたからだ。

 だから静原が近藤のことが好きだとの発言を聞いても、それほど驚きはなかった。

 けれど、キスまでしていたというのは全く予想外だった。近藤がおいそれと応じたとは想像しにくい。


「やっぱりキスのことまでは話してなかったようね」

「本当なの? 近藤が?」


 静原はなぜか目をそらして押し黙る。そしてシブシブといったふうに口を開く。


「小学生のちびっ子どもにはやし立てられたのよ。“ホントにカレシなの?”から始まって、“ホントに付き合ってるんだったら、チューしてみせて”なんてことまで口騒がしくね」

「え? は?」

「……なによ?」

「まさか、その勢いでしちゃったの? ……キス」


 言葉が出なかったのは、驚いたというか、戸惑ったからだ。

 すました顔で、静原はティーカップを一口つけた。そういう所作は優雅そのものに見える。


「小宮はそのこと知ってるの?」

「さっき、トリガーを引いたのはあたしだって言ったわよね」


 露悪的に振る舞う静原を前に、常盤はごくりと息を呑む。


「りゑは、あたしと夏くんがどんなデートをしたのかなんてことに、さして興味を抱いてはいなかったのよ、最初はね。だからあたしがりゑに火をつけてあげた」


 静原は小宮を「りゑ」と下の名前で呼んだ。下の名前くらい常盤だってもちろん知っているが、「りぃ」はともかく「りゑ」と呼んだことはない。

 たったそれだけのことが、別人の印象を抱かせるのだから不思議だ。まるで静原が小宮の隠された一面を知っているかのような気がしてしまう。


「あの二人、じれったいって思わない?」

「友達以上恋人未満だから?」

「友達というには明らかに距離近いし、その一方で、りゑは一線を引いてるようにも見える。いっそのこと、さっさとカップル成立しろよって念じたくらいよ。けど、りゑはむしろそういうじれったい関係に甘んじてる様子だった」

「お互い納得して受け入れてるんだから、それでいいんじゃないの?」

「ほんとにそう思うの?」


 ぎとっと訝る目を投げかけてくる。


「だから小宮を煽ったの? キスしたことを伝えて」

「そうよ。あたしも鬼じゃないから、受験に影響がない時期を見計らってあげたけどね。キス程度のことでどれだけ動くかは未知数だったけど、りゑはけっこう気にしたみたいだったわ」


 静原はあっけらかんとした言い方で述べた。


「りゑに対してだけじゃない。夏くんのほうにも言い寄ったわよ。りゑをキープしたままにするのは、いいかげんやめたらって」

「キープしてるわけじゃないと思うけど……」

「そうね。りゑ本人もキープされてるとは捉えてない。状況を受け入れちゃってるのよね。客観的にはさ、夏くんがりゑをキープしてる形になってるのにね。そうやって自己の意識を内面化してしまうのは、あたしはちょっとこわいわ」


 近藤は小宮のことを嫌ってはないし、友人としてはむしろ親密な関係だ。ほかに好きな人がいるのとも違うし、勉強や部活に専念するために距離を取っているのでもない。それなのに近藤は小宮と付き合うことはしなかった。

 他人から見れば、理由なくキープしているようにも見えてしまうかもしれない。

 静原はコケティッシュに微笑む。


「デートした後、夏くんにはマジの告白もしたの。“フリじゃなく、ほんとに付き合ってほしい”ってね。そのときに“もし付き合う気がないなら、ひと思いに振ってほしい”ともお願いした。そのほうが楽だから」


 静原は常盤の顔を確認する。“ひと思いに振ってほしい”と言ったことの意味が理解できるか、静原の目はそう問うている。


「淡い期待を持たせられるよりは、未練が残らないよう諦めさせてほしかったってこと?」

「ええ。ケジメを付けられれば、次の恋に行ける。いつまでも淡い気持ちが残ってしまうより、ずっとマシでしょ?

 告白されたほうに、もしその気がないんだったら、きっぱり断るべきなのよ。“友達でいたい”なんて曖昧なことは言わずにね。あたしはそう思う」

「その気がないならって、……人の感情とか気持ちとかって、白黒はっきりつけられるものばかりじゃないんじゃない?」

「悩んじゃいけないって言ってるわけじゃないわよ。でも夏くんがりゑから告白されたのは中3のときでしょ? 3年以上も返事を曖昧にするなんてのは、もはや罪深いよ」

「でも、小宮は待ち続けるのでもいいって思ってたわけで。近藤だって、小宮を傷つけたくないって気持ちもあっただろうし」

「傷つけたくないからなんていうのは、優しさとは言わないわよ。首を絞めるのに、真綿を使えば優しいとでも言うの?

 そもそも傷つかないで済む振り方なんて存在しないわよ。傷つけたくないから、それとなく断るなんて、問題を先延ばしにしてるだけ。

 だからあたしは夏くんに言った。ケジメを付けたいから、きっぱりと振ってくれって。そのほうがあたしは楽だからって」

「さっき、もうそれほど執着はしてないって言ったのは、そういうこと?」

「ええ。……もっとも、あたしとりゑが同じ土俵に立ってるわけじゃないってことくらい、最初から気づいてはいたけれどね。でも、それを確認する儀式はやっぱり必要だった」


 あくまで冷静な物言いを続けながら、それでもほとぼり走る静原の言葉に、常盤は気圧けおされる。

 もう執着していないという静原の言葉が本当なのだろうか。常盤には、静原が自分で自分に言い聞かせているようにも受け取れた。その声は儚げに響いているようにも聞こえたから。

 常盤はいつのまにか紅茶を飲み干していて、テーブルには空のティーカップが残っていた。

 静原は小宮に対しては近藤とキスしたことを伝え、近藤に対してはひと思いに振るのが優しさだと訴えた。

 京徳大学の合格発表のあと、小宮のほうから関係性をはっきりさせておきたいと近藤に申し出たと言っていたが、そこに静原も関わっていたということか。



 それで話は終わりだというように、静原は残りの紅茶を飲み干して、ソーサーの上にかちりと置く。

 はあーっと常盤は長めの溜息をつく。


「それで?」


 常盤が尋ねると、静原は小首をかしげて応答する。


「“それで?”って何かしら? おおかた経緯は説明したつもりだけど?」

「どうしてその話を今おいらにしたの?」


 静原は自分の役目は終わったと言わんばかりの静けさで、スマホをいじりだしている。


「今日常盤さんを見かけたのはただの偶然よ。だからどうして今なのかって訊かれても、たいした理由があるわけじゃないわよ」

「じゃあ、おいらに喋ったことに特に理由はないってこと?」

「強いて言うなら……」


 そこで言葉を区切ると、静原はスマホからいったん目を上げて常盤の顔をしゅっと見る。


「ヤキモチを焼くより、お節介を焼くほうがいいんじゃないかと思っただけよ」


 そう言うと静原は再びスマホの画面に目を落とした。

 そして画面から目を放さないまま、無感情に言う。


「正面入り口を出て右手のバス停」

「……がどうかしたの?」

「夏くんに会いたいなら、急げばまだ間に合うわよ」

「へ?」

「話が早く済んだらラインするって言っておいたのよ。参考書見てから帰るって言ってたから」


 さっき静原がスマホを触っていたのは近藤にラインするためだったようだ。


「もう本を買い終えて、帰るところらしいわよ。いまバス停だってさ」


 常盤はすっくと立ちあがる。後日に回すよりも、今会えるなら会っておきたいと考えた。


「行くんだ?」

「あんたは?」

「あたしはパス。せっかくだからここのレモンケーキを堪能することにするわ。誰にも邪魔されずに一人っきりでね」


 静原はわざとらしく「一人っきり」を強調した。最初に「独り」を煽ってきたのとは逆のベクトルで。

 常盤がサイフを取り出すのを見て、静原は「おごるわよ」と声をかけてくる。


「いいよ。あんたには貸し借りを残しておきたくない」

「そう」


 常盤は自分の分のお金だけ置いて、その場を立ち去る。

 静原は常盤が去るのを待つことせず、さっそくウェイトレスを呼んで、このお店の名物だというレモンのスイーツを注文していた。




強引に奪ったキスの後味を残したままで檸檬爆弾

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