自分だけ近づいてると思ってた 優しいウソと気づいたときまで

 小宮は話を続けた。


「自分でもどうして泣いたのか、よく分かんなかったんだよね」


 ここではないどこかを見るような瞳だった。

 近藤からアセクシュアルのことを告げられたとき、小宮はガマンできずに泣いてしまった。小宮はふだん人前では泣かないタイプだから、珍しいといえば珍しい。


「ほら、彼とはもともと恋人未満の関係だったわけじゃん? もし他に好きな人ができたら、いつでもこの関係は解消していいって約束だったし」

「それはそうだけど……」

「彼はわたしに、これまで通りの関係でいたいって言ってくれた。だからそれは現状維持ってことだったはずなのに、そのときのわたしは、涙が出てきちゃったんだよね」


 これまで通りでいいはずなのに、それまでの関係性とはどこか違っていて。小宮は近藤とどう接していいか思い悩んだ。小宮はそれを“ビミョーな距離感”と言い表し、気づくと数ヵ月が経っていた。


「でもこの前、なんとなく分かったんだよね。『夜と霧』を読んだときに」

「『夜と霧』って、フランクルの?」


 小宮は微笑しながら「うん」と答える。


「え、大丈夫? 心、病みまくってない?」

「ひどいなぁ。病んでたから読んだわけじゃないってば!」


 小宮は笑って反論する。フランクルの『夜と霧』。ナチスの強制収容所の体験記だ。


「それで、『夜と霧』を読んで何がどう分かったの?」

「もちろん、収容所の世界と今のわたしの状況は全然違ってのはそうなんだけど。でも、読んだときは妙にリンクしちゃったんだよね。

 たしか……“未来への意志や気持ちを喪失したときに、落胆と失望にうちひしがれることになる”みたいな記述があって。それがすっと胸に落ちてきたというか。

 ずっと片想いだったわけじゃん? 6年間、振り向いてくれないというか……二人で付き合うって関係にはなれなかった。そういう意味では報われない恋とも言えるんだけど、わたし自身はけっこう満足してたんだよね、あの関係性に」

「そういえば、前に電話で“居心地がよかった”って言ってたっけ」

「居心地がよかったのは……期待があったからだと思う。いまはまだ片想いだけど、いつかは応えてくれるんじゃないかって。彼がわたしのことを好きになってくれるんじゃないかって。……そういう淡い期待があったからこそ、片想いし続けることにも苦にはならなかった。むしろ居心地がよかったくらい。彼はわたしの片想いを拒みはしなかったから」


 小宮はずっと近藤のことが好きで。中3のときに想いを告白した。ためらう小宮の背中を押したのは常盤だった。

 告白は成就したとは言えないけれど。でもその日から小宮は片想いを隠すことはなく、近藤もそんな状況を受け入れていた。

 小宮が満足していられたのは、「いつか彼が振り向いてくれるかも」と希望を持てたから。両想いになれるかもしれないって考えてたから。そうやって期待を持ち続けることができたから、恋人未満のポジションでも毎日楽しかった。

 小宮はそんなふうに自分の気持ちを語った。


「でも、彼にアセクシュアルだって告げられたときに、その未来ってのは、叶わない願望だったんだって気づいちゃったんだと思う」

「それがさっきの、未来への気持ちを喪失して、うちひしがれる云々ってこと?」

「……不思議だよね。未来が閉ざされたと思ったとたん、過去の思い出が襲いかかってくるんだもん」

「襲いかかってくる?」

「いままで彼がわたしの片想いを受け入れてくれていたのは、ただの気遣いだったのかな……とか、思い返しちゃうんだよね」


 小宮は心配をかけさせまいとするかのように笑う。


「さすがにカミングアウトされた直後は、つらかったけどね。

 わたしとしてはさ、ちょっとずつ彼と距離感が近づいている気でいたんだよ。二人で時間を共有して、それを積み重ねて、親密になれていってると思ってた。……彼にとってそれは、あくまで“ただの友達”としてってことだったんだろうけどね。

 笑っちゃうよね、わたしはそれを恋人に近づいてるんだと勘違いしてたんだから」


 まるでドジったエピソードでも語るかのように、小宮は笑いかけてくるのだった。

 事実の一部しか語らないことをウソに含めるのなら、近藤もまたウソをついてきたということになるのだろうか。高校生活の最後まで、アセクシュアルであることを小宮に隠し続けたのだから。

 たしかに、近藤はもっと早くにアセクシュアルを伝えることはできたはずだった。でも、そうしなかったのはたぶん、小宮を傷つけたくなかったからなのではないかと思う。

 そしてもしかしたら、小宮のほうも、期待を持ち続けられる居心地のよさに、はっきり聞くのを先延ばし続けてきたのかもしれなかった。




自分だけ近づいてると思ってた 優しいウソと気づいたときまで

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