第三帖 送り火
思いきり彼の手首をぎゅっとして行き先もなく走り出す夜
待ち合わせ場所である船坂山公園の入り口付近。常盤と柳澤が到着したときには、すでに小宮の姿があった。
ひと目見て、今日はコテで髪を巻いてるなと思った。カラーリングしているのは試験明けに一度会った際に見かけていたけれど、今日はよりガーリッシュな感じが出ている。
「あ、ときちゃん!」
小宮がこちらに気づいて手を振ってくる。……と、すぐに傍らの柳澤の存在にも気づいて、「あ、お疲れさまです。柳澤さんも一緒だったんですか」と挨拶する。そして窺うように常盤に目配せした。
常盤が説明するより早く、柳澤が答える。
「たまたまそこで一緒になってね。ちょうど僕も送り火鑑賞しようと思ってたから」
柳澤は飄々として嘘をつく。常盤は柳澤から連絡を受けてカフェで落ち合ったのだから、「たまたま」は嘘だ。でも、想い人の前ではそれは伏せておきたいのだろう。
「小宮こそ早いね。ナンパとかされなかった?」
「大丈夫だよ、今さっき来たとこだから」
常盤と小宮のやりとりに、「どういうこと?」と柳澤が疑問を挟み込む。「ナンパとかされなかった?」の挨拶がひっかかったらしい。
「青葉中学ではそういう挨拶がはやってたんですよ」と小宮はしれっと嘘をついて済ませようとするので、常盤は訂正を加える。
「以前待ち合わせをしたときに、一人早く来ていた小宮がナンパされかけてたんですよ」
「道を訊かれたから、説明してあげてたんですよ」
「という手口のナンパだったんですよ」
「あとでお礼をしたいからって、連絡先を渡そうとしてきて、さすがにそれは戸惑っちゃったかな」
そのタイミングで近藤がやってきて、連れがいるとわかった男はその場を立ち去った。だからやっぱりナンパだったのだと思う。
小宮自身は自分の背の低さを気にしていて、服装のコーデが難しいなんて口にしたりもするけれど、実のところ、はっきり言えば見た目でモテるタイプなので、ナンパされたと聞いたときも、ありそうな話だなと思ったものだ。
ともあれ、そういうことがあってから、待ち合わせで小宮が先に来ていたときに「ナンパされなかった?」と挨拶代わりに聴くのが仲間内でちょっと流行ったのだった。
「そんなことより、早く行って場所確保しようよ。人、多くなってきてるよ」
船坂山公園は比高50メートルほどの小高い丘を有し、その中腹には神社も
送り火の点灯の時刻まではまだ余裕があるが、すでに人の流れは多くなっている。このぶんだと展望広場はもっと人があふれていることだろう。さすが定番の鑑賞スポットというだけはある。
坂の道をさっそく登ろうとしている小宮を、常盤はひきとめる。タイミングを逃してしまうよりは、告げるべきことはさっさと告げておいたほうがいい。でないと、ずるずるタイミングを見失ってしまうかもしれない。
「……えっと、小宮。実は、このあとなんだけどさ」
常盤は無意識に帽子のつばを手でいじる。
「途中で抜けてもいいかな」
「え? なに、どうしたの?」
「ちょっとしたワケがあって。おいらは行けないから、柳澤さんと二人で見に行ってくれたらいいなって」
小宮はけげんな表情をする。
そもそも送り火に行こうと声をかけたのは常盤で、このタイミングで行けないというのも不自然な申し出だ。小宮もその不自然さに気づいている。
「理由、訊いてもいいの?」
目が泳いでしまう。さて、どう説明するのがいいのか。
「遠くて近きもの……的な?」
絞り出して出てきたのはそんな言葉だった。小宮は言葉を
小宮のパーソナルスペースはもともと近いと感じていたけれど、この距離はさすがに近すぎる。
「小宮、顔近いって」
言って常盤は距離をとるが、すかさず小宮はぐいっと間合いを詰めてくる。
「どういうこと? 相手できたの? だれ? いつ? 突然じゃん! 聞かせて!」
「こら、もうっ、ぐいぐい来すぎだよ」
「だって、ときちゃんのそういう話題なんて珍しいんだもん」
遠くて近きもの。枕草子では極楽、舟の道、人の仲と記されている。人の仲とは男女の仲のこと。
小宮は恋バナだと思って目の色を変えたのだ。人の恋バナが大好物なところは中学時代と変わらない。
「えーっと、まだ詳しくは話せないっていうか……」
「おっ、“まだ”ってことは、いずれは話してくれるんだ?」
小宮は興味津々といった面持ちだ。
「そっかぁ。そっかそっかぁ」
「なに?」
「いやー、ときちゃんとこういう話ができるなんて、うれしーなー」
小宮はそう言って何度もうなずいた。まるで――甘口しか食べられないと思っていたのに、いつのまにか中辛を食べられるようになっていた子どもに感心する親みたいに。中学のころ、常盤は恋バナってやつを避けてたから。
「ちなみにだけど……
「ど、どっちでもいいじゃん。そんなの」
「どっちでもいいなら教えてくれてもいいじゃん。教えてよ」
「そういうんじゃなくてさ……」
遠くて近きもの。
それを
この状況で説明するわけにもいかない。「遠くて近きもの」が柳澤のものだと今ここで説明したら、柳澤の気持ちをバラすのと同じようなものだ。
「とにかく、もろもろの説明はあとでするから。今はこの話はもうおしまいっ」
「えーっ」と小宮は残念がった声を出す。「なら、いっそのこと、ときちゃんの後をついてこっかな」
「あのねぇ、小宮。ほんとに後をつけて来たら怒るからね」
「冗談だってば。それくらい
「それって
小宮はクスクス笑っている。さすがに尾行するようなマネはしてこないとは思うが、いたずら好きの小宮のことだから、無いとは言い切れない。
「柳澤さん、よろしくお願いしますよ」
こちらのほうに念押ししておく。ムダ話をしているうちに、ますます人手が多くなっている。展望広場に登って送り火を見るのなら、早くしたほうがいい。
歩きだそうとして、しかし、ぴたっと足が止まったのはそのときだった。
「あれ、もしかして常盤か?」
後方から近藤の声が耳に入ったのだった。
ほんの数日前、古本まつりで声をかけられたときと同じセリフ。けれどそのときとは耳に残る印象がまったく違っていた。
「今日は行けなくなったんじゃ……」
言いかけて、近藤は言葉を止める。
常盤とほとんど同時に小宮も振り返る。近藤は小宮に気づき、小宮も近藤に気づいた。
空気が固まった。
時計に目を向けたとき、秒針が一瞬静止して見える錯覚があるけれど、まさにそんな感じ。周りの動きが一瞬止まって見えた。
常盤はのどから言葉が出てこなかった。小宮も口をつぐんでいる。柳澤は様子見するように時を待ち、近藤も空気を眺めたままだ。
人いきれが蒸し暑い。
「これって……」と最初に沈黙を破ろうとしたのは近藤。だが、それに続く言葉は継がれなかった。「たしか君は……」と言いかけた柳澤の声も、最後まで
常盤は帽子を深くかぶり、うつむき加減を保つ。自分のほうから口を開くべきだとは思ったが、とっさには言葉が出なかった。
そもそも近藤を呼んだのは常盤だ。送り火を見に行こうと誘っていた。カフェでの柳澤の話を聞いて、近藤にキャンセルの連絡を入れたのは数時間前だ。
たぶん近藤は、一人で送り火を見に行くことにしたのだ。そしてたまたま常盤を見つけて声をかけた。そばに小宮がいることに気づかずに。
小宮と近藤は、どっちつかずのビミョーな距離感を保っている。もし柳澤がこの場にいなかったなら、常盤は二人の間を取り持とうとしたことだろう。けれど、柳澤がいる今それをすれば、小宮と近藤の関係性を教えてしまうことになる。
いずれ柳澤には二人の関係性について伝えるつもりではいた。でもそれは今じゃなかった。柳澤が小宮に想いを告げてからにしようと勝手に考えていた。告白するのなら、余分なことを考えずに告白してほしいと思ったから。
「遠くて近きもの……か」
つぶやいたのは小宮だった。
遠くて近きは人の仲。遠く離れているように見えて、ひょんなことから結びついたりもする。
さっきまで興味津々のテンションだったのに、その声のトーンはひどく落ち着いていた。質問攻めにしたいことなんて、むしろ山ほど出てくるはずなのに。
「もろもろの説明はあとでしてくれるんだっけ?」
「ごめん、小宮。あとで必ず説明するから。……あと、近藤は悪くないから」
それだけ言うのが精一杯だった。常盤は返答も待たず、近藤の手首をつかんで駆け出していた。
帽子に沈めた顔は、後ろを振り返ることをしなかった。
思いきり彼の手首をぎゅっとして行き先もなく走り出す夜
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