岐路
第25話
最果てへとひたすらに、川を辿ってゆく旅はなかなか進まなかった。枝分かれした先を三日かけて追って見失ったり、雨で水かさが増えて近づけなくなったり、そんなことの繰り返しだ。
それでも、伊織から離れていくことに違いはなかった。時に立ち寄った里でしばらく世話になったり、必要なものを仕入れたりしながら、ふたりは少しずつ旅を続けた。あかるこが摘んだ薬草や占いはどの里でもありがたがられ、ナギとともにいつまでもいてくれないかと請われたことは一度や二度ではなかったが、どんなに長居した里にも最後には必ず別れを告げた。
そのうちに、人目につきやすいあかるこの装いは、だんだんと普通の娘のような身軽なものになっていった。
「ずいぶんたくさん換えてくれましたよ」
とある里で食べものを都合しに行っていたナギが、瓜やら干した魚やら豆やらを抱えて戻ってきた。どこかに少し立ち寄るだけのときは、ナギが様子を見に行くことになっていた。首飾りに三つついていた黒い玉の鏃が、ひとつだけになっていた。
「ヒスイと換えてくれないかと頼んだら、黒い玉の方がいいと言われました。この辺はヒスイは手に入るけれども鏃の黒玉が取れないし、持つ人もあまり来ないとか。よく磨いてあって食べるものだけではもったいないからと――」
ナギはあかるこの掌に色とりどりの玉の粒をいくつも乗せた。柔和な形に磨かれている。
「ヒスイもいただきました。これで飾りを作りましょう」
ナギはあかるこに首飾りを千切らせてしまったことを気に病んでいたらしい。飾りの体でみな身につけているが、鈴や美しい玉は魔除けになるのだ。追手のある身で何も守りがないのは心許なかった。
元の飾りを千切ったとき、一番大きな青い玉や小さな勾玉や、赤い管玉のいくつかが衣へ入って残っていた。ヒスイと混ぜれば、急ごしらえにはふさわしくない美しいものができる。ナギは一方のみずらを解き、結い紐を糸として、あっという間に一連の飾りにした。
「よく似合います」
ナギは青い玉の飾りをあかるこの首に飾ってみて満足そうに見ながら、自分は半端なみずらをやめて髪を一括りにした。ナギが頓着しないせいか随分雑な手つきと思えたが、面持ちが優しいためにどんな結い方だろうが見映えがした。
「直してあげればよかった」
あかるこが呟くと、ナギもしまったという顔をして手を止めた。だが、ほほえみはすぐに戻った。
「明日直してください」
明日を約せるのは幸せだ。傍らから想いあうのと同じように。
「見て、アケビもヤマモモもこんなに」
ナギのいない間に、鈴なりに実っているところを見つけたのだ。あかるこは袖を開いて赤い実を見せようとした。
「しっ」
ナギが言い、木立ちの向こうを一瞥した。
「つかまって」
こう言われたときどうするかは決まっていた。あかるこはナギの首に片腕を回し、背におぶさった。
誰かが近づいてくる。ナギは木立ちを警戒しながら近くの木の窪に足をかけ、ひょいと苦もなく上の方の枝へ上がった。ナギのような背の高い人間は、木の上ではいかにも不便そうに思える。追手はナギのことをよく知っている衛士たちだったから、今まで気づかれたことはなかった。むしろ、地元の子どもらに見つかり、遊び相手にされることの方が多かったくらいだ。
伊織の衛士たちがやってきた。ふたりとも衣の丈が少し長くて、秋を迎えるために母や姉妹が新しく仕立てたものを身につけてきたのだと分かった。どちらも妻などまだまだという、若い顔だった。
「ああ」
まさか聞いているものがいるなどとは夢にも思わないのだろう、一方が言った。
「こんな遠くまで来ることになるなんて、思わなかった。早く里へ帰りたいよ。今頃みんなして稲を刈るんだ」
「うちだってそうさ。米がいいなんて言わないから、母ちゃんの飯が食べたい……」
ふたりはあかることナギが息を殺している木の下を通り過ぎたが、ふと声を弾ませて立ち止まった。
「アケビがこんなになってら。みんな喜ぶぞ」
「おまえの虫が食ってるぜ」
「オタカさま、怒るだろうか」
「構やしないさ。いつ死ぬか分からないんだ、アケビくらい食べたって」
ひとりがよく太った実をもぎ、呟いた。
「今は、死んでも巫女さまに弔ってもらえないからな」
急に自分の話が出たことに驚いて、あかるこは袖からヤマモモをひとつ取りこぼした。声も立てられず、柔らかで潰れやすい実を捕まえようともがいたが、結局ナギが掌で受けとめ、あかるこの口へ入れた。
樹下のふたりはアケビに夢中になっていて、上を見ようともしない。話はどうやら、巫女の周りからまだ離れてはいなかった。
「よせよ。今度はおれたちが腕を茹でられてしまう」
上からアケビの白い肉が見える。摘んだ茎の跡から人がいることを悟られなければいいけれど、とあかるこは身を縮めた。
「初音さまさ、相当頭にきていたみたいだ」
「そりゃあそうさ。ガマ爺、媛さまを悪者にしようとしたんだもの。で、衛士を疑ってみたり、媛さまを追わせてみたり――いい加減誰でも分かるよな、あそこまでやっちゃあ」
「だけど誰も逆らえないもんな」
「まあ高嶋さまは仕方ないにしたって、オタカさまは可哀相だったな。大水葵さまに追いつけなかったからって、大火傷だもの」
「可哀相なもんか、あの人おっかねえよ。しばらく怪我しててほしいな」
衛士たちは遠慮なくものを言い、座り込んでアケビを食べている。ナギはあかるこを導き、そろそろと木の上を渡りはじめた。多少の物音は、葉が擦れ合う音に紛れる。
「そうだ、高嶋さまの腕の話、聞いたか? ひとりだけ、やけに治りが早かったって」
「誰か手当てしてくれる人がいたんだろう。近頃、通っていく人ができたらしいよ」
相手は途端に黒い種を噴き出した。
「高嶋さまはいつでもどっかにいい人がいるじゃないか。人当たりがいいからもてるんだろうなあ」
「けどさ――」
声が緩みはじめた。ふたりとも、うつらうつらしているのである。
「里を捨ててさ、疑われてさ、それでも構わないほどひとりに惚れるのって、どんな気持ちなんだろうか」
あかるこは思わず足を止めた。枝葉を透かして下を覗いたが、ふたりは眠ってしまったあとだった。
「あかるこ」
囁き呼ぶ声に振り向くと、思いがけない近さでまなざしが交わった。降りましょう、掴まってと言われたのを幸いに、あかるこはナギの肩口へじりじりと頬を押しつけた。ちょうどその辺りを、さっと熱が走ったのだ。どうしてか、顔を見られたくなかった。
ナギはあかるこを抱えて衛士たちのいる方とは逆側に飛び降りたが、そのまましばらくあかるこを離さなかった。
そんなことも許されるようになった。
「ナギったら、お猿みたい」
ナギの胸にしがみついたままで言うと、背を離れた手が頭を抱いた。
「あなたの言い方には毒がありませんね」
つむじの辺りに、唇が寄っているらしい。
ひとりでに割れた紫のアケビの実は、とろりとして甘かった。
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