第23話
ヒノクマはしなやかな男だった。
大柄で無骨なようだが驚くほど身が軽く、山辺彦の繰り出す切っ先をことごとく避けた。使う武器も変わっている。ヒノクマは剣子よりも小さく、よく磨かれた刃をいくつも体に隠していて、思いもよらない位置から投げてくるのだった。
「これは敵わぬ」
山辺彦は急に眉間を狙って放たれた刃を危なく剣で弾いた。双方の若者たちがおお、と声を上げた。若者よりも歳の長けたものたちはさすがに落ち着いて成り行きを見守っていたが、このときは若者たちの影から身を乗り出した。
「楽しそうだな」
ヒノクマがじりじりと間を取りながら言った。もう一剣、投げてくる。これも山辺彦が落としたが、ここしばらく手入れをしていなかった剣はこの一撃でついに折れた。
山辺彦は剣を捨てた。
「お主もな」
「組もう」
「おう」
逞しく陽に焼けた腕に組みつきながら、確かに山辺彦は楽しかった。この男になら首を取られてもいいと思う一方で、いつまでも互いの手の内を探りながら組み合っていたくもあった。ヒノクマも同じではないかと思えた。ふたりの男は間違いなく、互いを気に入りはじめていた。
しかし、じきに勝利は一方に傾きはじめた。
「それ」
「おう」
ヒノクマのかけた足に山辺彦の足がもつれ、ふたりは草地を転がった。ヒノクマは人間の抑え込み方もよく心得ていた。
「参ったのう」
倒れてみて初めて、手足の疲れを自覚した。
「お主の勝ちじゃ」
「むう」
ヒノクマは肩で息をしながら、次の一手を出しかねているようだった。構えた刃で山辺彦の首を取ることなど、考えにないような――。
「待てえっ」
草地の一同は呆気にとられた。
丈高い草を割るように現れた白い影が、ヒノクマめがけて飛びかかったのだ。タケオがぎょっとして叫んだ。
「双葉じゃないか! 」
双葉は咄嗟に山辺彦の上から飛びのいたヒノクマの脇に降り立ち、伊織の衛士たちを睨んだ。
「あんたたち、何を突っ立っているんですか」
「そういう約束だからじゃ」
ヒノクマが言った。突然の乱入者に驚きながらも、ヒノクマの顔つきは明らかに和らいでいた。
双葉は山辺彦を助け起こしながらヒノクマと、ヒノクマの後ろで自分を見ている緑衣の民を睨み回した。
「おれは伊織の衛士の双葉だ。兄上たちを追っていくつもりだったけど、道に迷ってよかったと思ったことなんて、あんたたちにあるかい、ええ? 」
「抑えろ、双葉。ヒノクマ殿はなかなかの武人であられる」
山辺彦は獣を宥めるような手つきで双葉の怒気を削いだ。衛士たちもヒノクマの民たちも、もはや敵意を向け合うような雰囲気ではなくなり、話の行方を見守っている。
「よく来てくれた。なぜヒノクマ殿たちが刺客に出されたか、そなた何か知らぬか。大武棘さまに疎まれるようなことをした覚えはないのだがのう」
「兄上と義姉上が伊織を出たからでしょう。叔父上が手引きしたかも知れないと思われたんじゃないかな」
双葉が何でもないことのように言った。山辺彦はその間、何を言われているのだかさっぱり分からなかった。
「……なぜそんなことになったのだ? 」
こう尋ねるのがせいぜいだった。つい先ほど、何も案ずることはないと思ったばかりだというのに!
「なぜなんでしょうね、本当に」
双葉はいらいらと言った。男王と女王の仲が思わしくなかったことは、山辺彦もよく知っている。双葉はあかるこが東の山の祟りを祓ったときに人死にが出たこと、その潔斎のために宮に籠っている間にナギと会い、逢瀬の嫌疑をかけられたこと、真偽が明らかになるより早く宮に火が放たれ、逃げるよりなかったことなど、知っている限りのことを話した。
衛士たちが話を聞くうちに青ざめ、ざわざわと言葉を交わした。巫女宮を焼き討ちにする! 里を離れている間に、一体何があってそんなおぞましいことになったのだ!
「大水葵が夜這いを仕掛けるとは……本当かのう」
山辺彦は里を留守にしていたことを悔いた。真偽が分からないだけに人が動揺し、堂々とそんなはずはないとふたりを庇える人間がいなかったに違いない。初音辺りはかばうどころか、真っ先に不実を責める側にまわるだろう。長いこと閉じたところに生きているもの独特の頭の固さが、初音にはあった。
双葉が言った。
「ウカミが焚きつけたんです。あいつ口がうまくて、みんなに嫌われてるくせに、みんなに話を信じ込ませちまったんです」
「それは確かなのか? 」
双葉の鼻息がまた荒くなりだしたので、山辺彦は努めて穏やかに話を進めようとした。
「いくらウカミが知恵のある男だとて……」
「小さな火種から人を陥れる術というのがある」
脇からヒノクマが言った。
「本当は、敵を惑わすために用いるのだが。……おれたちの縁者は、それが飛び抜けてうまかった」
「あんたは下手そうですね」
双葉はしゃあしゃあと言った。ヒノクマはほう、と顎を撫で、ほほえみらしいものを口元に浮かべた。
「それは、おれがおまえを見て面白そうな
双葉は肩をすくめた。
「そんなことばかりやっているやつが、頭目に選ばれたりするもんか」
ははは、と哄笑の声が響いた。平野全体を揺るがすかのような大声だった。
ヒノクマが笑ったのではなかった。肩に鹿の毛皮を巻きつけた男が、向こうからのしのし歩いてくる。皮の履きものから毛脛が剥き出しだ。一蹴りで猪も倒しそうな脚だった。
「面白そうな話をしているな。混ぜてくれないか」
「客の多い日だのう」
山辺彦は呟き、何となくでき上がっていた車座をふたり分空けた。男はにこにこと礼を言い、あっけらかんとそこへ収まった。毛皮と見えた肩のものは、射られた鹿そのものだった。
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