第16話

 ナギは西を指して山を進んでいるようだった。伊織は西だけが平野に向かって開けている。夜が明けてしまうのが先か、ふたりが里を出るのが先か、どちらにせよ、今は歩くほかなかった。里には、少なくともすぐには戻れないのだと、葵は唐突に理解した。


 ナギ、と話しかけた瞬間、ナギの指が葵の唇を押さえた。木の影に張りついて、息を殺す。人の声がした。


 「冗談ではないぞ」


 思いがけずすぐ近くに、誰かがいる。声の主は欠伸混じりに、仲間に文句を垂れていた。衛士たちのようだった。


 「こんな夜更けに、深山みやまで人探しとはな。ガマ爺め、好き勝手言ってくれる」


 ガマ爺とは、ウカミのことらしい。衛士頭の山辺彦がいない間、当然のような顔をして衛士たちを使っているが、このとおり嫌われていた。


 衛士たちの松明が葵の足元を照らした。葵を見つけたというのではなく、ちょっと遠くを照らしてやろうと思ったものらしい。光はすぐに遠ざかり、代わりに溜め息のような声が聞こえてきた。


 「鹿でも出てこないかな……」

 「馬鹿な。火に寄ってくるのは虫くらいさ」


 ははは、と眠そうな笑いが起こった。ナギは同じ衛士として何か言いたそうだったが、そのとき隠れているふたりまでが身を強張らせるほどの鋭い大喝が衛士たちを打ちのめした。


 「この腑抜けども、貴様ら、まっすぐ立ってもおれんのか」

 「オタカ」


 ナギが渋い顔をした。オタカは大武棘の宮に仕える衛士だ。卑怯な人間ではないが根が真面目すぎて、一度こうと決めたら決して変えない。鍛練も怠らず、腕も相当立つ。


 それを知っているナギにしてみれば、ウカミより誰より会いたくなかった青年だった。オタカは、自分の心をみずから押し殺すことに長けている。たとえ葵とナギの潔白を知っていたとしても、主君から巫女を捕えよと言われれば縄をかけるだろうとたやすく思い描けた。斬れと言われれば、やはりその通りにするであろうことも。


 オタカは滅多にほぐれない眉間の皺をありありと刻んで、衛士たちをじろりと見回した。歳ははまだ若者と呼んで少しも差し支えないのに、隼のような眼光のせいで衛士頭と見紛うばかりの威厳がある。


 「お主ら、誰を探しておるのか忘れたとは言わせぬぞ。媛さまの傍らには、大水葵と双葉がついている。生半可な覚悟ではこちらの身が危うい」


 葵とナギは顔を見合わせ、ひとまず胸を撫で下ろした。衛士たちは双葉が手負いであることも、岩屋にひとりでいることもまだ知らないらしい。葵たちがすぐそばで聞いていることも。


 衛士のひとりが言った。


 「しかし、葵さまを捕えて一体、何になる。巫女の宮の衛士たちもよくは思わぬだろうし、第一、山辺彦さまならこんなことをお命じになるはずはないとおれは思う」


 衛士たちは口々に、そうだ、そうだと頷いた。


 山辺彦の名を出されても、オタカは少しも動じなかった。


 「捕えるのではない、見つけるのだ。葵さまが追われるほどの罪を犯されたかどうかは誰にも分からぬ。しかし里人たちがあれだけの騒ぎを起こしては、こちらとしても黙っているわけにはいかない。御身の無事を確かめるためにも、我々は葵さまを見つけねばならない。――里の外に出て行かれてしまっては、本当に追わねばならなくなってしまうぞ。よその里に入られる前に捕えよと、あのウカミは言うだろうからな」


 オタカが近くの衛士の手から松明をもぎ取り、急に木立ちを照らした。ナギが葵を庇わなければ、横顔を見せてしまうところだった。


 「お主らがそうして無駄口を叩いている間に、葵さまたちがここを通って行ったかもしれんぞ」


 オタカがふたりの隠れている木に手をかけ、覗き込もうとした。


 ナギが足結いの紐から一番大きな鈴を外し、オタカがまずふたりとは逆の方を向いたのを幸いに、坂の方へ投げつけた。


 鈴は大きな音を立てて転げていった。ちょうど人が走っていくのと似た鳴り方だった。


 「やつらか? 」

 「いや、音が少ないから、兄弟のどちらかだろう。我々を窺いに来たのだ、追え」

 「待て、お主ら。あの兄弟はそんなに迂闊では――」


 オタカが止めだてしようとしている、その隙にナギは葵を背負って駆け出した。オタカは剣も強いが、足はナギほど速くない。


 「大水葵、待て」


 叫んで追ってくるような気配はあったが、木立ちを過ぎるたびに遠ざかっていく。


 北の山の終わりを示す大岩まで来ると、もう追ってきてはいなかった。ナギは葵を降ろした。


 「このまま西の山を下りましょう」


 ナギが言った。葵は頷いた。どこへ行くの、とは聞けなかった。誰にも分からないことだった。ところが――。


 「どこへ流れてゆくつもりだ」


 ふいに、木陰から現れた人影がナギの前に立ちはだかった。

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