妹背
第15話
ナギと双葉は、葵の知らない、獣も通らなそうな木立ちの間を迷いもせずに進んでいく。里の騒ぎはもう遠い。そばでりんと虫が鳴いた。
「この辺りは、昔兄上とよく遊んだところなんです」
双葉が囁いた。軽い口調で葵の気持ちをほぐしながらも、その目は警戒を怠らない。兄と同じように、優れた衛士なのだろうと葵は思った。
「双葉は、誰かに仕えてはいないの? 」
「わたしなんかまだまだ、山辺彦さまに叱られてばかりです。来年からあのウカミにつけと言われたきりで……」
双葉は心底うんざりだという声で答えたが、すぐに葵に笑いかけた。
「だけど、この分じゃもうその心配はなさそうだ。ああ、清々した」
ナギが弟を振り向いた。
「おまえ、わざと未熟なふりをしているのではないだろうな」
双葉は慌てて首を横に振った。
「まさか! だけどどちらにしろ、もうあの人のところへは戻れませんから。ね、義姉上。ものは明るく考えましょう」
「おまえは能天気が過ぎるな」
「兄上こそ、そんな固い顔ばかりじゃ義姉上に嫌われますよ」
ナギはおまえがうるさいからだ、と呟いたが、目元に柔和な色が見えていた。仲のいい兄弟だ、と葵は思う。互いのことをよく知っているのだ。いいところも、そうでないところも。
葵は里人たちに火を放たれたとき、自分で考えていたほどには、みなのことを知らなかったのではないかと思った。噂ひとつがあんなに大きな話になって、そのせいで殺されそうになるなど思いもしなかった。彼らは、誰に強いられたわけでもない、みずから葵を憎み、焼いてしまおうとしたのだから――。
葵は兄弟が羨ましかった。
「葵さま、どうかなさいましたか」
黙り込んだ葵に、ナギが声をかけたときだった。
「兄上! 」
双葉が叫びざま、葵を兄の方へ突き飛ばした。
「双葉! 」
足下の深い茂みから槍が突き出し、双葉の肩をざくりと抉った。ナギが葵を受けとめ、別の手で弟の襟を引っ張ったので、下から胸を刺されることだけは免れたのだった。
「この腰抜け! それでも衛士か! 」
双葉は怒鳴り、血をぼたぼた垂らしながら槍を蹴飛ばした。双葉を傷つけたのは衛士とも思えない情けない体つきの男で、武器を失って一目散に逃げ去った。
「あいつ、巫女探しに駆り出されるのが嫌で隠れていたんですよ。でもたまたまわたしたちが通りかかったから、急に手柄が欲しくなったんでしょう」
「……巫女探し? 」
「ウカミが衛士に命令したんです。巫女宮に火が放たれたら、巫女を生かしたまま捕らえよって。だから今頃、里中の衛士たちが義姉上を探してるはずです。……いてて。義姉上、痛いです」
双葉は舌打ちして傷を押さえたが、葵が傷を診はじめると素直に痛みを訴えた。蹴飛ばされたくらいで武器を落としやがって、と毒づくので、葵は笑ってしまった。双葉の物言いは、(口の悪さは別として)衛士の卵たちを叱るときの山辺彦によく似ていた。
とはいえ傷は深く、油断できない。葵は自分の袖を千切って双葉の肩にあてがい、ナギに尋ねた。
「少し、休めるようなところはない? 」
「近くに岩屋がございます。そこへ行きましょう。……双葉、歩けるな? 先を歩け。あの岩屋を覚えているか」
「山猿ですからね」
双葉はけろりと答え、怪我をしているのに誰より元気に歩き出した。葵は目ぼしい薬草を闇に透かして摘みながら後を追った。ナギがすぐ後ろをついてくる。
ごめんと謝ったら、それがわたしたちの役目ですからとあっさり言い返される気がして、何も言えなかった。
岩屋は口が狭く、藪に覆われていて、外から姿を隠すには都合がよかった。奥に行くほど広く、わずかの岩の裂け目から月の光が漏れてくる。闇に慣れた目には、大きな不自由はなかった。
双葉は器用に体を折り曲げて、傷から血と毒を吸い出した。葵は摘んできた草を揉んで双葉の傷に擦り込んだ。双葉の庇い方がうまいのか、見たところ血は止まりつつある。無理を強いるわけにはいかなかったが、といって、ここへひとり残していくのも案じられた。
ナギが弟の様子を見ながら尋ねた。
「どうする、双葉」
「どうするとは? 」
双葉はそっけなく答えた。傷のない方の腕と歯で、誰の手も借りずに傷に布を巻いていく。自分の怪我を何度も手当してきたのだろうと思わせる手際だった。
「まさか、まだおれを連れていくつもりですか」
双葉はいつもは兄弟の間でしか出さない、ぞんざいな口のきき方をした。
「おまえ――」
ナギが呆然として呟くのを、双葉は下から睨んだ。
「置いていってくださいよ、兄上。さっき逃げたやつ、きっと他の連中に報せに行きますよ。この肩じゃあ、ろくな盾にもなれやしないんだから」
ナギは眉の辺りを歪めて返事をしない。葵には、衛士と兄との境で迷っているのだと知れた。葵と関わるうち、衛士と夫との境で苦しむのと同じように。ナギがぽつりと呟いた。
「なぜ、そう正直なんだ――」
「あんたほどくそまじめに生きようと思ってないからですよ。くそまじめなくせに、見てるところが狭すぎて、自分のこともちゃんと分かってない。自分が、何を守らなきゃならないかも」
いいですか、と双葉は兄に真っ向から対峙した。
「そんなふうにどっちつかずだから、板挟みにあうんですよ。こんなところで迷って、義姉上に何かあったらどうする? 平気でいられますか? 」
ナギに口を挟む隙を与えず、双葉は怒鳴った。
「義姉上には、今は兄上しかいないんだぞ! 」
双葉の声は岩屋中に響き渡り、長く残った。わんわんという声の波が、ナギと葵を包んだ。
「兄上には、はなから義姉上だけなんでね」
双葉はくるりと顔つきを変えて葵にほほえみかけた。
「この通りの奥手ですが」
「――知ってる」
小さな声で囁くと、双葉は嬉しそうに頷いた。その仕草には、ナギが葵に、はい、と頷くのと似た優しさがあった。
「草を置いていくから」
「ありがとう、義姉上。――兄上、おれが行くまで、義姉上を頼みますよ」
ナギが双葉を振り向いた。そしてそこに見知らぬ偉丈夫がいるみたいに、ずいぶん長く弟を見つめた。
「ああ、また。――わたしたちは、川を北へ辿っていく。必ず追いついてこい」
「大丈夫かな……」
岩屋を出て、一度も振り返らず山道を急ぐナギの横顔に、葵は呟いた。
「双葉は愛敬がありますから」
ナギは葵の手を引いて、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「妬みも恨みも、何も買いませんから……」
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