第14話

 宮に火矢が射込まれました、と告げに来た采女を追うように、黒い煙が宮を覆っていくのが分かった。宮は、頭に血ののぼった里人とそれを止めようとするものたちとに取り囲まれていた。


 手に手に松明や刃を持ち、里人たちは口々に叫んでいる。このところ葵と顔を合わせたがらなかった初音が采女たちを連れてすっ飛んできた。広い宮で安全といえるのは、もはや最奥の、巫女の部屋だけだった。


 衛士と結託して神を裏切り、里に災いをもたらそうとしている巫女を八つ裂きにしろ、とみなが叫んでいるという。あの噂がいまやそんな話に膨れていたとは、葵は少しも知らなかった。小棘の忠告が、一瞬頭をよぎった――噂というものを、侮ってはいけない。


 「いかがなさいます、葵さま」


 初音は真っ青になって尋ねた。震えてはいなかった。みなのために出ていくと言ったら、止めてくれるかしらと葵は思った。


 采女たちが咽せはじめた。迷ってはいられなかった。


 「集まっている人たちが憎いのは、わたしのことだけでしょう。みんな、そこの階から北の庭へ降りて、宮を出ればいい。巫女王にたばかられておりましたと、みんなに言ってもいいから」

 「そんな」


 誰が上げた声だったかは、分からない。誰もそんな声は上げなかったかもしれない。葵には、どちらでもよかった。


 「早く! 」


 怒鳴るように言えば、采女たちは普段なら決してさせない足音とともに戸口に殺到した。


 「葵さまはどうなさるのです」


 初音がみなの勢いに押され、人波に流されながら金切り声で叫んだ。


 「分からない」


 葵は叫び返した。どこへ行けばいいかも、分からない。宮から逃げられたとして、そのあとどうなるのかも、分からない。


 間仕切りに垂らしてある布が燃え落ちた。向こうの部屋にはもう火が回っていた。


 「きゃあ」


 戸口で押された小柄な采女がつまづき、残り二、三人というところで、一瞬人の流れが止まった。元々大勢で使うために設けられた出入り口ではないので、広く作ってはいない。


 転んだ采女は、足をくじいてしまったらしい。後ろのふたりが肩を貸して、葵を振り向いた。葵さまもお早く、と口が動く。


 声は聞こえなかった。煙が急に押し寄せ、息もつけないほど咳が出た。どこかから、建物の軋む音がする。出口が近いはずなのに、何も見えなくなった。ああ、死ぬかもしれないと、そのとき思った。


 何の咎で、ここで死ぬのだろう。咽るあまりに、涙が出た。生きてきた時間を顧みようとしたけれど、思い出したのはたった一日のことだけだった。夏に入りかけのあの川辺で、ナギはあれから幾度も、葵に告白するのだった。


 わたしはあなたに、ずっと片恋をしておりました――。


 「片恋なんかじゃ……」


 こんなときでも、葵は同じ答えしか返せない。閉じた目蓋の裏に涙が溢れるくらいに溜まって、川辺は遠くぼやけていった。


 「葵さま! 」


 滲んで消えていこうとしていたナギが、突然はっきり口をきいた。黒煙の中から腕が二本伸びてきて、背を抱え込まれた。ものが燃える煙は雷雲に似てたれこめて、何が起きたかなど分かりはしない。


暴れることもできないくらいの力で抱えられ、床を転がった。真上にあった梁が轟音とともに崩れ落ち、炎を噴き上げた。


 下敷きになっていたかもしれないと、床を這って広がる火を見つめているうちに考えが追いついてきた。葵の背を抱いたままのナギの頬や、白い衣が赤く照り、影がゆらゆらと動いた。火の神はやはり男なのだ、と葵は思った。


 「葵さま」


 ナギはひとしきり葵の背や肩に触れて、怪我がないと分かるとほっとしたように口元を緩めた。髪が一房焦げている。


 「間に合ってよかった……お怪我はありませんか」

 「どうやってここまで来たの? 」


 葵は信じがたい思いでナギを見つめた。思い出の川辺から、抜け出てきたのではないかと思った。


 だが思い出の幻ではなく、本物のナギは、自分の背に葵を負いながら答えた。


 「遅くなって申し訳ありません。着いて早々初音殿に会いました。葵さまがまだ中におられるかもと聞いたものですから」

 「宮の中を走ってきたの? 火が回っているのに? 」


 火が回っているのに。ナギは冗談めかして言った。


 「火の中に飛び込めば、誰も追っては来られますまい」


 宮から出ると、ひやりとした新鮮な外気が頬を撫でた。北の口はふたりが階を下った途端に炎を吐き、ぐしゃりと潰れた。


 「いたぞ」


 ナギを宮の中まで追えず、外を回り込んで駆けてきた里人が松明で左右からふたりを指した。巫女宮の衛士たちが間に割って入ろうとしているが、葵を襲おうとするものは暗がりにいくらでも潜んでいそうに見えた。鞘ぐるみの剣では、抑えておけなくなっていた。


 ナギは切り込まれる刃をかわしながら山の木立ちに向かって駆け出した。月も火も届かない暗がりへ身を潜めてしまえば、逃げきれる。葵を負ったまま、ナギは低い藪を飛び越えた。


 「山へ入れるな! 」


 すぐ後ろから叫ぶ声がした。ナギの肩が跳ねる。


 「穢れものめ」


 葉や枝を踏み折る音の中に混じって、大剣についている玉飾りが打ち合う音がする。ナギが走りながら男に対峙しようとした。咄嗟に、自分の身で剣を受けようとしたに違いなかった。


 葵は首飾りを力任せに後ろに引き千切った。そろそろ糸を替えなければと思っていたものだ。飾りはたやすく切れ、後ろの男にばらけた色玉が降りかかった。目に当たったものもあったのだろう、男は呻き声を上げて手で顔を覆ってしまった。


 「お見事、義姉上! 」


 何が起きたのかと足を止めたナギの頭上の枝から、双葉が顔を出した。例のにんまりした笑顔で、他の追っ手を探している。


 「その人、足が速いみたいですね。まだみんな下にいらあ」

 「双葉、後ろにつけ」


 ナギが言った。双葉は兄のすぐ脇にひょいと飛び下りてきて、まだ顔を上げられない男の肩を掴んだ。男は喚いたが、目を閉じているので双葉のいる方の逆を向いていることには気がつかなかった。双葉は肩をすくめ、男を坂に向かって転がした。男は後ろから来ていた仲間を巻き込んで、一塊になって下まで戻っていった。


 「すまないな、あんたみたいな足の速い人には追われたくないんだ」


 葵を中にして、兄弟は歩きはじめた。夜の山は鎮まりかえり、兄弟が足に飾った鈴の音もろとも三人の姿を飲み込んだ。

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