第13話
千曲のことを考えても、背筋が凍るようだというのではない。あの娘のことでナギが感じるものは、もっと生温かだった。
どうも自分は、あの娘が苦手なのだろうと、ナギは思った。だが、それは千曲のせいではない。古老の頼みを断るわけにはいかなかった。
「千曲殿」
小屋の戸口で呼びかけると、暗い中からふたつの目がきらりとこちらを見たような気がした。
干してひからびたような魚や、何かの根らしいものが上から下がっている。他の里人の家と違うのは、ナギには名も分からない草がいく種も、籠や敷布一杯に広げられていることだった。ドクダミもあった。
葵が宮を出て暮らすとしたら、それはこんな暮らしかもしれない、とナギは思った。しかし、葵のいる家はこんなに息苦しくなかろうとも思う。家中の薬草からなのか、それとも千曲その人からなのか、人に媚びるような、潤んだような、甘やかな香りがする。何ということもない、人好きのする、芳香といえるほどの香りなのに、ナギはできるだけ浅く息をした。吸うたびに香りが少しずつ体を満たしていって、知らないうちに心をみな奪われてしまいそうな気がした。
「大水葵さま」
千曲は小屋の隅に獣の皮を敷いて横たわっていたが、ほほえんで起き上がった。今にも消えそうな灯のようなほほえみだった。衣の音だけが、さらさらと鳴る。
「よくおいでくださいました」
「加減が思わしくないとか……」
「ご心配には及びませんわ。巫女宮も大変なときですのに……大水葵さまも、さぞお疲れでしょう」
千曲は真っ黒な目を伏せた。探られているようではない、とナギは感じた。
ナギは居ずまいを正した。
「わたしは変わりないが、葵さまがお辛くはないかと――」
「まあ」
千曲はくすくすと声を立てて笑った。
「大水葵さまはいつでも葵さま、なのね」
「そんなことは……」
「いいえ、お隠しにならないで」
千曲は下からナギの目を覗いた。ごくあっさりと合わさった衣の袷目から、傷ひとつない肌が目に入る。女の肌だった。
確かなぬくもりが、あの肌にはあるのだろうか。
あったとしても――。ナギは自分でも気がつかないうちに千曲の肌に見入りながら考えた。ぬくいか冷たいか、わたしには分からないだろう――。
草が甘く香っている。
「大水葵さま――」
千曲がするりと指を伸ばし、ナギの手に絡めた。触れる前からひとつの手だったみたいに、何もかもがぴたりと合わさった。ぬくもりも、指も、てのひらも。
「千曲だけは、いつまでもおそばに……」
耳元で、千曲が囁いたときだ。
小屋の外、随分遠くから、誰かが叫ぶ声が淡く聞こえた。
「手貸せ! 連中、巫女の宮に火つけやがった」
ふつりと、夢想が途絶えた。醒めて初めて、それまでが夢だったと分かる心地に似ていた。ナギは頭を振った。
「千曲殿、失礼」
ナギは立ち上がり、返事も待たずに駆け出した。外は真っ暗だ。一体どれほどの時間を千曲の小屋で過ごし、いつの間にこんなに暗くなったのだろうと思う
※
――鳥が飛ぶように出て行ったナギの背を、千曲は戸口から呆然と見送っていた。
ああまで言って伸ばした女の指を、里人の一言でたやすく振りほどくとは。胸の奥底に秘めていたものを足蹴にされ、粉々に砕かれた気がした。
千曲は明かりひとつない小屋にふらふらと戻り、そばにあった籠を掴んで叩きつけた。乗っていた葉が舞い上がり、土砂降りの雨のようにざあざあ降り注いだ。
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