我に誇るところあらば

十二滝わたる

我に誇るところあらば

 ニコライ堂の鐘が鳴った。東京の雑踏をかき消すかのような荘厳な響きが心を清浄にする。ニコライ堂の正式名称は東京復活大聖堂。キリストの復活を祈念するためのビザンティン様式の教会だ。緑青のドームが美しく青空に映える。


 僕は初めて東京に田舎から出てきたときも、上野駅を出ると上野の森を突っ切りニコライ堂を目指した。へとへとになって辿り着いたが、それでも夢にまで見たニコライ堂を見た時は、その美しさに疲れを忘れ、茫然と立ち尽くした。東京で、一番先にニコライ堂を見たいと思ったのは、小林秀雄が著作の中でニコライ堂の美しさを語っていたのだ。酔っぱらって水道橋から落下した逸話とともに、記憶に刻まれていた。そして、この界隈は、あの時代へは遅れてきたサンジェルマンデプレとしての趣を色濃く残していたのだ。景子との初めての待ち合わせの場所にこの場所を選んだのも、そんな思い入れが強いためであった。


 待ち合わせの時間をやや過ぎて、夏に相応しい白のノースリーブにふわりとしたカ-テンのようなスカート姿で景子は現れた。「久しぶり」と景子は周りを見渡しながら言った。「七年ぶりかね」僕は、景子を頭からつま先まで眼を移動させながら言葉を返した。「突然、びっくりしたわ」と景子は言った。そう、あの晩、僕は突然に君のことを思い出したのだ。冬の朝の寒さで真っ赤に染めた君の頬と君の吐く白い息、君の手の温もりを。


 カウンターだけの小さなバーク-ルで僕は次郎と二人で飲んでいた。「昨日、日航ジャンボが墜落したってね。もし、墜落していたのなら生存は絶望的だな」と僕は八月十二日夕方、日航ジャンボが墜落し、今朝、墜落機体が発見されたことを話題にしていた。「坂本九や向田邦子も乗っていたらしいよ」とク-ルのママの幸がカウンターの中から言った。幸は、無常の世の中だというようなことを言いながら、少なくなった僕と次郎の水割りを手元に引いた。扇風機しかない熱帯夜のような小さなバーの中で、サントリーの角瓶から注がれた琥珀色のウイスキーで、気持ちよく氷が割れて溶けていく。ボトルの首に架かった名前を見て次郎が言った。「恋と革命のボトル?」「古い?戦後の焼け跡の頃に似合いの言葉かもね。もっとも、なんだか今でもここは戦後みたいな感じもしてね」と僕は言った。僕の言葉を聞いて、幸は「失礼なこと言うわよね」と言いながら、いつものように集団就職で東京に行ったこと、資金を貯めて横根に戻りこの店を持ったことなどを話し出した。僕は同じ話を聞くのが心地よかった。


 柳小路界隈の東南角近くの一階建の小さなビルの中央に通路があり、夕方、このビルまでやって来て、ビルの通路の両側に輝く店の色彩の濃いネオンを見ては心が躍った。しかし、毎回、同じようにどきどきしながら物色しつつも、いつも同じ店であるCにしか入ったことがなかった。氷の入った水割りを掻き回しながら、東部方面へ工場が移転してからは、大分お客さんが減ってしまったと幸は嘆いた。次郎は思い出したように語りだした。


 彼には今、年下の彼女がいるが、その彼女は、僕の高校時代のサッカー部のマネージャーをしいた後輩の景子とは友達であり、彼女の名は敦子という。彼女の父親は厳しくて住んでいる家はここからすぐ近くなのに誘えないと。「今から敦ちゃんを誘いに行こう」と僕は言った。次郎は「夜は電話もだめ。すぐそこの家にもいけない」と言った。「いい方法がある」と僕は言うと、幸に「直ぐに戻るからね」と言い残して次郎を連れ出した。


 彼女の家の前まで来てみると、二階の彼女の部屋の窓から明かりが漏れていた。窓は閉まっていた。大きな声で呼んでも聞こえない。「どうするんだ」と次郎は言った。「こうするのさ」と僕は米粒くらいの小石を拾うと、下手投げで二階の窓ガラスをめがけて投げた。小石はガラスに当たりコツンと音がしたかと思うと、一階の屋根の上にころころと転がった。しばらくすると窓の中で影が動き、窓ガラスを開け、怪訝そうに外を見渡す彼女が姿を現した。敦子であった。次郎は声を出さずまるで助けを求める遭難者のように両手を振り廻した。


 僕たちは、外に出てきた敦子を連れてク-ルに戻った。三人を見た幸は「あら、あなた方が女のひとを連れてくるなんて」と言った。敦子は、きれいな長い髪の毛とスラットした痩せぎすのスタイルの持ち主で、がっちりとした背の低い体形の次郎と釣り合いが取れず、見ていて面白いものがあった。敦子は景子の話を教えてくれた。景子は東京の大学に行っているが、高校時代に僕がくれたドングリの入ったコーラの瓶を大切にしていること。景子は養女で、東京近郊に引っ越したが、養親は既に亡くなっており、一人で生活していること。景子の出身地は北海道の道東であることなど。「その子は北海道の出身なの?」と幸は目を輝かせ、「私のご先祖様も樺太からの引揚者だった」と会話に入ってきた。「私だって小さいころは名寄で育ったんだ」と敦子は競り合うように言った。


 僕は敦子から言われたドングリの入ったコーラの瓶のことを考えていた。記憶にはない。景子のことは小学生の頃から知っていた。僕とは反対側の通学路を上級生に引率されて歩いてくる、小さなちょっと肌の浅黒い女の子だった。冬の日は、僕とは違うお洒落な毛糸の帽子と手袋と暖かそうなジャンパーで装っていた。けれど、冷たい風に晒される頬だけはいつもりんごのように真っ赤にしていた。吐く息は反対の通学路からも分かるくらいに白かった。少しずつ高校時代のサッカー部のことが思い出された。ドングリの入ったコーラの瓶はおそらく高校三年の秋のことだ。一人で校庭の角のミズナラの木の下でコーラを飲んで、退屈しのぎに飲み干したコーラの瓶に、あたり一面に落ちていたドングリを詰めていた。あの時、突然、景子が現れたのだ。何を話したんだろう。一面のドングリのこと。北海道の海に群れをなす鮭のこと。可憐な子ぎつねのこと。アイヌのこと。そう、アイヌの墓の話しだ。それから、なぜか彼女の手の温もりが甦る。瓶を渡すときに少しだけ触れた手の温もりが・・。幸の「煮込みは出さないんだけど、あんまり言うから作ったよ」という言葉をよそに、僕は敦子から景子の電話番号を聞くと、ク-ルを飛び出し街の隅にあるモンマートの敷地角にある公衆電話から景子に電話した。これから何度となくここから電話することになるとは思いもせずに・・・。僕は翌日の夜、東京行国鉄列車の車上の人となっていた。六時間の間、ボックスシートにくの字に体を曲げて仮眠しながらの各駅停車の長旅だ。


 ニコライ堂で待ち合わせした僕と景子は、銀座へと向かった。金曜日夜のプロレス中継時に出てくる三愛ビルを見て、「日本の中心なんだ」と景子に言うと「田舎もん」と笑った。景子は僕とのデートに銀巴里と銀座のバーを準備してくれていた。銀巴里は長蛇の列で、やっと入れた小さなホールでの金子由香利のシャンソンは、ここはパリなんだと自分を酔わせるのには十分なものだった。それから銀座五丁目近くの華やかなビルの奥にある地下へと続く階段に向かった。地下のバーへと続く階段は、まるでタイムトンネルのように暗かった。「横根でも、いつもこんなところで飲んでいる。ここもまだ戦後だね」と僕は呟いた。


 そこはカウンターだけの小さなバーだった。およそ銀座には似つかわしくはなかった。ただ、バーの中に居るのは幸ではなく蝶ネクタイの品のいいおじさんであり、あたりめではなくオイルサーディーンであり、角瓶ではなくスコッチであった。マッチにはなぜかルパンの絵が描いてあった。まだ誰もいないカウンターの一番奥に座り、ふと右側を見上げると、太宰が僕と同じように足を組んで飲んでいる写真が飾ってあった。「選ばれてあることの恍惚と不安と二つ我にあり」とぼくがまた呟くと、景子は「我にその値なし。されど我なんじが寛容を知れり」と呟いた。「太宰?」と聞くと「ヴェルレーヌ」と景子は言った。「私も斜陽のかず子のように強く生きたいわ。でも、そんなに強くないのよ私は。だからいつも、我に誇るところあらば・・・って祈るの」と景子は言った。「故郷の北海道に戻って先生をするの。私の小さい時のこころを取り戻すためにね」それから景子はバックからドングリを一つ取り出してカウンターの上に載せた。僕がやったドングリの実だ。「小さい頃に遊んだ小路のあの公園にもこっそり植えてきたの」とスコッチを飲みながら天井を見上げた。


 来年はその小路の公園で敦子とその彼氏と四人で逢うことを約束し、有楽町駅で別れた。景子は「またね」と言いながらスカートをひるがえして駅の反対側に歩いて行った。電車が来るまで線路を挟んでお互い見つめ合った。僕らの距離はこのくらいが美しいのかなと僕は自問した。景子は先に電車に乗り込み姿を消した。景子のいない向かい側のホームは、なぜか胸が苦しくなるほどに寂しく見えた。その日以降、柳小路のク-ルで飲むときは必ずモンマートの公衆電話から景子の声を聞くこととなるのだ。


 柳小路の入り口となる道路にはアーチ形の門があり、その隣には小路を象徴するかのように古い料亭がある。翌年のお盆の夕方、その前で景子と待ち合わせをした。老舗の料亭は緑青色の屋根で縁どられていた。ちょうど一年前、景子と待ち合わせしたニコライ堂のドームの色だ。景子は敦子の実家に泊まっていた。敦子は、公園入口の店の昔からある元気のいいおばあちゃんが溶き卵でつくってくれる、おじやが最高においしいOMで、次郎と逢っているはずだ。次郎と敦子とは、午後九時に柳小路の公園で落ち合うこととしていた。景子は妖艶な浴衣の姿で現れた。二人でアーケードをくぐり左に曲がると、ネオンがあちこちと眩しく輝いていた。右手にはラーメン屋があり、次の丁字路にはキャバレー、いつもはそこのお兄さんがべったり付き添い、どうですかとお誘いを受けるのだが、今日はそんなことはない。振り向くと、いつものお兄さんは珍しく手を振って見送っている。昨年の銀座のバーよりずっと高級そうな賑やかなMを過ぎ、居酒屋SIでおやじさんが作る名物の焼きそばを食べた後に、次郎たちと約束した公園へ向かった。途中、Y分店で飲んで帰る途中の先輩達からと二人で歩いているところを冷やかされながらも。


 公園には、まだ、次郎たちは着いていなかった。景子は真っ先にドングリをこっそり植えた場所へ向かっていた。ブランコの奥の角にぎざぎざの葉っぱの小さな木がひっそりと隠れるように育っていた。「あった」と二人は同時に声を上げた。ブランコを漕いでいると次郎達がやってきた。景子はふるさとの羅臼のことを話し出した。羅臼はトングリで一杯だと話した。


 景子は北海道の教員への就職が決まり、敦子も関西へ、次郎も九州へと転勤が決まっていた。皆なんとなく四人が集まるのは今日だけだと気が付いていた。僕は持ってきた線香花火を四人にそれぞれ配り、だれが最後まで花火が続くかを競争した。昨年の銀座のバーから貰ったルパンの絵のあるマッチで火を付けた。景子の花火がいつまでも灯り続けていた。景子は最後の滴のような火の玉が落ちるのを見届けると、「儚い命」と呟き、「でも儚さは強さ」と自分に言い聞かせるように言った。僕は「我に誇るとこあらば・・・」と景子が前に言った言葉を言ってみた。景子はうつむいたままであった。次郎達も何も話さなかった。こうして僕たちの柳小路での青春は静かに終わりを迎えた。青春の滴が落ちたようだった。


 久しぶりの柳小路での飲み会の後に、突然に声を掛けられて、振り向くと旦那と息子を連れた敦子であった。「二、三十年位は逢ってなかったね」とお互いに驚きを隠せなかった。敦子は、気になることがあってと、久々に来たという景子の手紙を見せてくれた。景子はあれからずっと独身のまま羅臼で小学校の先生をしていた。本当の両親は何年も前に亡くなり、景子は一人で暮らしていたが体を壊し、地元の病院に入院している。けれど、もうすぐこの病院も病床がなくなるため、百キロ離れた隣町の病院に移る予定だが、大変だと書かれていた。「ありがとう、元気で」と敦子に言って分かれた。僕は、その時、既に羅臼に向かう決意をしていた。


 翌日、僕は札幌から中標津へ向かう飛行機の中にいた。中標津からレンタカーを借りて、羅臼の病院へ向かった。病院に着くやいなや、僕は愕然として崩れ落ちた。景子は、既に亡くなり荼毘に付されていたのだ。病院の看護師が、「息子が習った先生だから」と景子の埋葬されたお墓に案内してくれた。身内がいないため、校長先生の図らいで、町の共同墓地に眠っているという。景子の墓は、海を見下ろせる高台の角にある大きなミズナラ木の下にあった。墓の周り一面にドングリが落ちていた。子ぎつねが三匹、墓の周りで戯れていた。墓石はなかった。野付半島に枯木立するトドワラのような木の棒に名前が書かれている質素なものだ。生前の景子の希望だった。昔、景子から聞いたアイヌの墓だ。名前が書かれた木が朽ちれば、それで終わりだ。アイヌには墓をお参りする習慣はない。自然に帰るそのための期間があれば十分なのだ。景子は芯から強かったのだ。君を感じ君と出会った僕の青春を誇らしく感じた。


 中標津に戻る途中、国後島を望む国道沿いの浜辺に、朽ちた建物を見つけた。ニコライ堂の形を模したドライブインの廃墟だ。車を降りて佇む僕に、海の向こうで、鮭が勢いよく跳ね続けた。僕は、あの夜、浴衣姿で線香花火を見続けた君の決意を思い出した。あれから今日まで、バブルの時代と失われた経済の時代を経て、僕達はいつのまにか、淡々と、それぞれの人生を歩んできたのだ。国後島へと続く海の向こうがかすかに滲んだ

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

我に誇るところあらば 十二滝わたる @crosser_12falls

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ