第一部 安針 第五章 始末二 ⑤

 前世とは地名が微妙に違うため、幕府が江戸にあると聞いてもピンとこない。地方によっては、ここと同様、前世と異なる地名もあるようだ。この次元に異物として放り込まれた安針は、何をどこまでしていいのか、実は不安だった。


 この次元に放り込まれた時点で、この次元の因果を決める要素のひとつになったと考えれば、気持ちは楽になる。幸い、今住んでいる藩は、安針の知るのとは違う歴史をたどっていて、地名も違う。何かを削るのではなく、何かを加えるだけなら、不要の際は自然に淘汰されるだろう。安針は開き直ることにした。


 杉の丸太をそのまま売るだけなら、川で輸送する際の事故で赤字が生まれる。杉を扱う商売に博打の要素がある限り、気持ちが荒れて犯罪が生まれる可能性も高まる。ばらけた弁甲筏で橋を壊し、借金をこしらえて身を持ち崩した奴もいる。酔って匕首を振り回していたやつは、夜中にこっそり利吉が「始末」した。そんな「始末」ばかりでは悲しいので、安針は一計を案じた。伊納杉が弁甲材以外に使えれば、赤字は減るはずだ。杉を使った特産品を加え、収入を増やす方法を考えた。前世で聞いたことのある秋田県の名産「曲げわっぱ」を、兄を通して名主の間に提案したのだ。


 薄く切り出した杉板を一晩水に入れて、その後煮沸。少し冷まして、円形や楕円形の型に巻き付け、形を整える。底板と蓋を付ければ弁当箱の完成だ。この時代、昼食の習慣はなかったが、晩に作った酢飯やおかずを入れて、翌朝に食べる分には問題ない。朝早くから仕事を始めたい商家は、奉公人の数だけ揃えるところもあった。農閑期や漁の合間の仕事としてちょうどよかったらしく、農家や漁師と商家をつなぐ手工業的な仕事として、瞬く間に広まった。


 重箱に入れるより保存がきくため、テイクアウト用の容器として、次第に売れるようになった。おそらく秋田(この次元で同じ地名かどうかは不明)でも同じものができているはずだが、杉の加工品を作る呼び水として考えているので、単発の商品としては期待していない。これなら間伐材も有効活用できるため、材木商の収入源としては使えるはずだ。農家や漁師と材木商のやり取りが盛んになれば、互いに気配りしながら話ができるようになるはず。読み書きそろばんの必要性も、理解してもらえるだろう。


 取引の場で、細々とした諍いはあったが、交渉の仲介者としての「始末」で乗り切った。命のやり取りまでには至らないので、気が楽だ。曲げわっぱの「曲げる」技術は、極度に薄く切り出した杉を加工した照明用の覆い(ランプシェードのようなもの)まで生み出し、他藩に売れる商品となっていく。


 伊納杉の加工は、漁師にも役立った。もともとが弁甲材である。他藩に売るだけでなく、漁船の建造や補修のため、材木を規格に合わせて切り出す技術も発達した。港の貯木場では、漁船や橋に組み上げる直前まで加工する姿がみられるようになる。切り出す「規格」に漁師が口を出し、使い勝手のいい船ができるようになった。海で互いに命を預け合う漁師は、和を乱す者に容赦しない。昔、稼ぎが足りずに和を乱してしまう者を簀巻きにして、夜中に外海へ放り出すこともあったと聞く。漁獲につながる船が増えれば、こうした不幸も減ってくるだろう。むろん、彼らの恨みの連鎖は、注意して見守る必要がある。


 いずれにしても、人の知恵と技は生かして使うものだ。命を殺めるだけが「始末」ではない。殺めた恨みは、恨みしか生まない。殺めるだけでは、いずれ城のお偉いさんに使い潰されるのが関の山。黒田屋を使い続けた方が得をすることを、しっかり分からせていくことが大切だ。

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