第一部 安針 第一章 生い立ち ①

 生前の治郎は、特に信心深いわけではなかった。彼に見えてきたのは、三途の川でもお花畑でもない、和風の村だ。村の外れに山からの湧き水が溢れていて、何人かが小ぶりの椀に注ぎ、配っていた。治郎が自分の「意識」を取り戻したのは、この湧き水のそばだ。死んだ人間は皆、似たような格好をして、似たような表情をするものらしい。水を貰おうと一歩踏み出すと、背後から治郎は肩をつかまれた。

「やめちょけ」

死んだはずの合気道の師匠だ。ああ、そういえば自分も死んだのだったなと、今更ながらに思い出した。

「師匠、どういうわけか来てしまいましたよ。あの湧き水は、いったい何です?」

八十八歳で亡くなった師匠は、ひげ面をくしゃっとさせて邪気のない笑顔を見せた。師匠みたいに笑える人がいたんだと思うと、治郎はなぜかほっとした。


 治郎は、湧き水から少し離れた場所まで案内された。生前お世話になった道場が建っている。驚く治郎に、師匠が説明を始める。

「道場んことは後からでいい。あん(あの)湧き水は、飲んだ者(もん)の記憶を消してしまっちょるようじゃ。飲んだら最後、あいつらんごつ(あいつらのように)『同じ顔』になる。その後んことは、儂にも分からん。じゃが、村から出ていく門が見えるか? ときどき出ていくやつがおる。思うに、もう一度生まれ変わるんじゃろ」

「魂の『再利用』ってやつですかね」

「どうでもいい。儂にはまだ、未練がある。おまえが来るのを待っとった。いくつか技を仕込んでやる」

「師匠の未練って、そこでしたか」

「筋が良かったくせに、すぐやめおって。ここなら逃げられんじゃろ」


 死んでもなお修行なんて、何だか複雑な気分である。死んで魂だけになれば、疲れも眠気もない。腹が減ったり喉が乾いたりもしない。体がないのだから、体捌きを習うそばから「記憶」していくのは、考えれば当たり前のことだった。師匠によれば、自分の体だと思っているのが「魂」で、身にまとっているのが「記憶」らしい。新しい技を覚える度に、道着が真新しくなり、黒かった袴も紫に近くなった。

「馬子にも衣装っちゅうが、開祖のような出で立ちじゃな」


 合気道の稽古の合間に、師匠は居合いの型まで見せてくれた。片膝を立て抜刀し横凪ぎに払う「初発刀」、さらに歩を進めて振りかぶり真一文字の「二の太刀」。専門外の技まで披露したのは、修行の終わりを告げるためだった。残心・納刀の後、一振りの打刀(うちがたな)を治郎に渡した師匠は、清々しい顔でこう言った。

「これで充分。あとは勝手にすればええ。ただし、身につけた『記憶』は、あの門から外には、なかなか持ち出せん。伝えたのはわしの我が儘じゃ。面倒なら捨ててかまわん」

言いたいだけ言った師匠は、道場を後にした。湧き水を汲んでがぶ飲みする。慌てて追う治郎が止める間もない。門を出た師匠を、治郎は追いかけることが出来なかった。


 湧き水をのんで師匠を追わなかったのは、師匠から引き継いだ技の「記憶」を手放したくなかったためかもしれない。治郎は、師匠の残した道場に戻った。この道場も、治郎が引き継いだ「記憶」である。門から出て生まれ変わろうとすれば、記憶を捨てることになる。ならば捨てた記憶はどこに行くのだろう。この場所に物理の法則が当てはまるかどうか分からないが、当てはまるなら「記憶」はどこかに「保存」されているはずだ。村には死者の魂と記憶、さらに湧き水。湧き水で消された記憶は、湧き水の源流である「山」に行くのではないか。


 道場を出て、湧き水を見やる。その上をたどると、岩肌が続き、大きな山を見ることができた。頂上付近は霧がかかって見えないが、湧き水の源流を探り、記憶を保持して生まれ変わる手だてを探る準備はできたことになる。山道と呼べるほどの幅もない、獣道のような細い道に、治郎は分け入った。


 山に分け入って目にするのは、山林や岩肌。門から出ていくとき記憶が持ち出せないのであれば、山を越えればいいのではないか。だが、あまたの魂が残した記憶を蓄えているのがこの山なら、越えた先に何があるのか予想がつかなかった。すっかり霧に囲まれた今、後戻りはできない。魂だけの世界に疲れはないが、霧の中をうろうろするわけにもいかない。治郎はいったん立ち止まることにした。


 歩いているとじゃましていた霧が、立ち止まると晴れる。目の前の岩肌に、わざとらしく洞穴が見えてきた。いきなり見えてきて驚いたということは、治郎の思い込みの産物ではないということになる。何か分かるかもしれないと思って、早速中に入った。奥のほうから、微かに風が吹いている。中は意外に明るい。二、三歩進んだところで、背後で大きな音がした。入り口がふさがっている。閉じ込められる前に、ここから出る必要があった。前に進むしかない。洞穴は次第に下り坂となり、明るさを増してきた。頭が締めつけられて苦しい。早く出たい。出た。眩しさを感じた治郎は、自分自身の産声を聞いた。

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