回り道

西久史

序章

 小見治郎(おみ・じろう)は、一人っ子だった。父親が大きめの建設会社に勤めていた関係で転勤が多く、小学校を卒業するまでは頻繁に引っ越していた。そのせいか、この時期の治郎に友人はいない。転校先の図書室に入り浸る毎日だった。当然、無口にもなる。あまりに無口なので、親も心配したのだろう。父親は、息子が中学・高校に通う六年間を落ち着いて過ごしたいと希望を出した。会社から出た辞令は、宮崎県南部の港町への転勤である。出世コースからは外れたが、刺身好きの父はかえって喜んだ。港湾設備の営繕を手配したり、治郎が高校生のころ開催地に当たった国体施設の建設など、それなりに仕事には恵まれた。


 本ばかり読んでいた治郎は、中学で陸上部に所属。長距離をメインに練習した。一人で黙々と走っていれば、家に引きこもるのを心配する親も安心できる。場所が外に移っただけで、周りと関わりを持たないのは相変わらずだった。高校は地元の普通科に進学。のんびり過ごすつもりでいた。ところが、文武両道を標榜する校風のためか、周囲には体格のいい同級生ばかり。団体競技を避け、道具やユニフォームに金のかからない競技を探すと、柔道や空手に行き着く。見学はしたものの、経験が無いため入部には至らなかった。そんな中、紹介されたのが合気道の道場だった。当時五十過ぎだった道場主の名前は、あまり覚えていない。近所の高齢者が数人通うだけの小さな道場。他の門人に合わせて「師匠」と呼んでいた。若い門人は治郎だけだったせいか、マンツーマンで仕込まれた思い出がある。期待されていたのだろうが、生来の引っ込み思案が災いして、高校卒業を機会に足が遠のいた。だが、内気だった治郎がそれなりに物怖じしなくなったのは、このときの経験のおかげである。


 首都圏の大学に進学し、国文学を専攻した。バイトで世話になった進学塾にそのまま採用され、三十歳で結婚したが、子どものないまま二年後に離婚。以来、五十五歳まで一人暮らしである。離婚の理由は妻の浮気。相手は同じ塾に勤める若い講師だった。相手はクビになり塾に慰留されたものの、保護者や生徒の目が鬱陶しくなり、別の塾で教えるようになった。職場の授業以外で話すことは、ほとんど無くなった。その後再婚もせず、治郎は惰性で生きてきた。五十代になって、さすがに都会での一人暮らしに疲れてきた。職場とアパートの往復しかしていない生き方である。蓄えはそれなりにあった。治郎は、のんびり暮らすため引っ越すことにした。生まれ故郷ではないが、いちばん長い期間過ごしたことのある田舎の町だ。


 移住後、就職の口を探すのは苦労するかと思っていたが、意外にすんなり決まった。治郎の専門教科は国語。得意なのは作文や小論文の指導である。地方の学習塾は、都会との学力格差を埋めるため英語と数学に力を入れる。その分、他の教科の講師が少ないのだ。特に作文指導は添削の手間がかかるため、嫌う者も少なくない。治郎の指導は、短文の積み上げを基本にした自己採点の可能なシステムだった。

「三ヶ月ください。書けるようにしてみせます」

治郎はそう言い切った。高校時代の同級生・皆川修(みながわ・おさむ)が、数学の講師でいてくれたこともプラスに働いた。都内での実績をアピールしつつ、中学生を中心に指導を重ねることになる。移住後、元号は「令和」に変わった。当時、宮崎県の推薦高校入試は、六百字の作文を課していた。構成さえ定型化してやれば、決まった分量の短い文章を組み合わせるだけで書ける。移住して働き始めてすぐに、入試で出題された作文の題名を予想し、当ててみせたことが功を奏した。生徒が集まってきたのだ。越してきて三年で、治郎の生活はようやく落ち着いた。


 落ち着いたところで、治郎は仕事以外にも何かしたくなった。高校時代に通っていた合気道の道場は、もうない。あのころの師匠は、すでに他界していた。今さら別な師匠につきたいとは思わない。そういえば、師匠は神社巡りが好きだった。宮崎県は神話の里。神社の「密度」はかなり高い。治郎の住む県南も例外ではなかった。思えば、この思いつきがいけなかった。御朱印帳を買い、海岸近くの神社に参る。拝殿付近はひっそりしていた。旅立ちの無事を願うという、神武天皇のお后が祀られていた。参拝後、石段を下りる。陸上をしていたころ痛めたひざをかばいながら、ゆっくり下りた。だが踏み外すときは一瞬である。長い石段で足を踏み外せば、さすがに受け身は難しい。打ち所が悪ければどうしようもない。一番下まで転げ落ちた治郎は、下の道を散歩していたお年寄りの通報で救急搬送された。だが、病院に着いたころにはもう手遅れだった。令和二年、享年五十八歳。病室に皆川が駆けつけたとき、治郎はすでに「あの世」へ旅立っていた。

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