第7話 サイカ①

「あー、わたしのバカ!何で断っちゃったのよぉー…」


先生からの期待に応えるべく、サイカは一晩中、どうやったら掃除屋に再び近づけるか考えていた。

一度案内ガイドを断った手前、やっぱりそれをもう一度、というのは流石に気が引ける。何か他に、もっと自然で怪しまれない方法は無いものかと悩みに悩んでいる訳だが、結局今の今まで良い案を見つけられず、いよいよ熱くなり過ぎた脳みそが融点に達しかけていた。


「うーん…でも、どうにかして“たまご”の状況を確認しない事にはなぁ…」


頭をわしゃわしゃとかきむしり、サイカは畳に額を擦り付ける。すると、何だかとても懐かしい匂いがした。はて、前時代の物とは何故こうも暖かみがあるのだろう。ただの冷たいフローリングとは違うこの感じ。それにこの均一な網目。引っ掻いたりしたら所々ほつれそうな気もする。あ、ほら。この辺りなんか、凄く擦れて薄く…—


「……違う違う。そうじゃない!」


考え過ぎて、別の事に思考が移ってしまった。これはいけない。急に歌が頭の中に流れた気がしたが、すぐに止めてやったぞ。私はやれば出来る子!仙になるための修行にだって耐えたんだから!


そして、思い出される7区での学生しゅぎょう時代。しゅんと項垂れる背中。


「はぁ……辛かったなぁ。筆記はやっぱりどうしてもダメだったけど…って、だから、考えるのよ、私!!」


落ち込んたり、奮起したり。感情が忙しなく乱高下するサイカ。そんな彼女の耳飾りから、突然、ふとガサついた機械音が聞こえてきた。


ガッ…ガッー…プッ


「あっ…」


怒鳴らない。つまり先生では無い。その事に安堵したサイカだったが、それはそれで少し緊張する。


『……サイカか?』


「………その声、兄さん?」


通話先の人物は、サイカの兄弟子、景吾だった。サイカよりも数年先に仙になった彼は、仙として働き始めてからも変わらず、こうしてちょくちょく連絡を寄越すのだ。確か最後に連絡が来たのは、仙の試験が始まる前、つまり今から二ヶ月前のことだ。


『ああ。サイカが頑張ってるって先生から聞いてな。仙の試験は合格したって?』


「ああ…あれ。まだ仮なの。合格ではあるんだけど、最終決定会議で荒れたみたいで…あはは」


景吾から連絡が来たのは嬉しい。でも、同時に心配掛けてるみたいで、サイカは少し居た堪れない気持ちになった。そんなに自分ってダメな子だろうか。笑って誤魔化してみるが、やっぱり切ないものは切ない。兄弟子が優秀な分、自分との差を見せつけられているようで辛かった。


『そうか。実はな、お前の今回の審査、俺も任されてるんだ』


「え」


『身内にさせるって事は、合格させる気はあるんだろう。それに、仮でもお前はもう仙だ。気楽にやりなさい』


「…兄さん」


『ともあれ、元気そうで何より。じゃあな』


「うん」


プツッと切れる通話。

そして、漏れる深いため息。

さて、どうしたものか。肩にかかるプレッシャーがより重くなった気がする。先生からの期待プラス兄弟子の分だ。


「…とりあえず、素直に掃除屋さんに会いに行くしか無いか…。“たまご”の事は後々分かるだろうし」


考えても良い案なんか出ないのだ。だったら最初から素直に行けばよかったのかも。そう思ってサイカが立ち上がると、待ってたと言わんばかりにグ 〜っと腹の虫が鳴る。気がつけばお昼過ぎ。常夜だから気が付かなかった。


「はぁ。何だか、ずっと夜ってのは調子狂っちゃうな」





さて、近くのお店で腹ごしらえを済ませたサイカは、街中を気の向くままに徘徊していた。一度依頼した仕事を断ってしまった手前、掃除屋さんに連絡する前に、何かしら話のネタがあった方がいいと、サイカなりに考えた結果だった。


(手ぶらじゃ、何の用だってなるだろうし…ね)


“どら焼き“と書かれた袋を抱え、サイカは公衆電話無いかうろちょろする。このどら焼きは、サイカが昼飯を済ませたラーメン屋の店主のおすすめのおやつだ。


(これ、美味しいらしいから、一緒に食べよ〜…なら、変じゃ無いよね?)


袋から香る甘く柔らかな匂いが、鼻口を擽る。口の中が唾液で潤い、思わず手が伸びそうになるが、まだ我慢だ。


「………って、何で私、こんなまどろっこしい事を?」


ふと、5つのどら焼きを前にして、我に返ってしまった。いや、一人じゃ絶対食べ切れない。だから、お裾分けする口実だ。うん。そうよ。


「大丈夫、大丈夫。うまく行くわ」


その時、ドシッとサイカの膝下に結構な質量の何かが当たる感覚があった。


「あ、ごめんなさい」


ぶつかって来たのは、金髪の綺麗な女の子。クルクルと渦を巻いた角が二本、頭から生えていた。見た目はほとんど人だが、存在感のあるその大きな角が彼女が異形である事を示していた。


「あ、え、いや、こちらこそ、ごめんね」


また、自分の世界に入り過ぎてしまったと、サイカは反省しながら少女に謝った。昔からボーッとする癖を注意されることはあったが、前方から子供が走って来ているのに気が付かないなんて、いよいよ重症だ。

すると、知ってる声が少し離れ場所から聞こえて来た。


「すみません!おい、メグル、大丈夫かって……あ」


「あ!」


彼女を追ってきたのか。どこか眠そうに見えるジトっとした目の青年が軽く会釈する。すると、ぶつかって来た女の子はサイカの足元を離れ、その青年の元へタッタッタッと駆け戻っていった。


「セイタ、だっこ」


「はいはい」


仕方なし、と言った様子で女の子を抱える青年。そう。そこに居たのは、あの掃除屋だ。


「…えっと………」


なんたる偶然、なんたる幸運。思いがけず、サイカはこんな所で掃除屋に遭遇してしまった。おまけに、この。掃除屋と一緒にいるだ。


(ひょっとして、これが……いや、待って!確か、先生の話では…)


サイカは彼の腕に抱えられている女の子をじっと見つめた。確か、先生の話では、“たまご”はまだ幼い少女の姿をしていて、特徴である角は

その筈なのだが…。


クルクルとぐろを巻くゴツい角。彼女が小首を傾げれば、先端がセイタの頬に突き刺さり、彼は「イテッ」と溢した。


(いや、角…めっちゃ生えてるんだけど)


「…じー」


「ん?」


何だか手元が熱い。女の子の視線がただ一点、サイカのどら焼きに向いていた。




「悪いな、どら焼き」


「セイタ、このあんこ、たべれる」


「こら、失礼なこと言うな」


「あはは。良いの良いの。食べてもらいたかったから」


そんなこんなで、偶然出会った3人は、公園のベンチに並んで座り、サイカのどら焼きを頬張っていた。


(あー、よかった。どら焼き無駄にならなくて)


結果的には万々歳だろうか。掃除屋に電話する手間も省けたし、何より、目の前には“たまご”らしき何かがいる。その少女はどら焼きに夢中で、頬張る度に嬉しそうに足をバタバタと動かしては、セイタに叱られていた。


(……角。実はもう一人いるとか?いや、でも…)


先生の言ってた事が正しいのなら、掃除屋と一緒にいるこの子が“たまご”の筈なのだが、情報と違ってやっぱりガッツリ角がある。


(折れても直ぐに生えるものなの?…なんか異形みたい)


そんな風にひとり難しい顔をするサイカをよそに、メグルはまたどら焼きを一口、貪って飲み込んだ。そして、セイタの袖を掴む。


「セイタ、あさのほっとけーき、あんこでもいいよ」


「良いよって何だ」


「うへへっ」


「全く。今朝はチョコの気分だの、メープルだの散々言ってたくせに」


「…………仲良いんだね」


こうしていると、二人は本当の家族みたいだとサイカは思った。自分も幼い頃、兄弟子の景吾に菓子をねだっては、分けてもらった記憶がある。その度に、景吾も今のセイタと同じように文句を言っていたが、何だかんだ優しかった。


「まあ……」


セイタは煮え切らない返事をしたが、メグルの方は、コテッとセイタの方に寄りかかり、「うん!」と元気に応えてくれた。照れ屋のセイタとは違って、メグルの方は随分と素直な性格をしているみたいだ。


「セイタ、いっつもこーんなかお、してるけど、やさしいんだよ!」


メグルはジトーっと半分瞼を閉じてみせてきた。なるほど、確かに掃除屋さんは四六時中こんなふうに眠たそうな顔をしている。よく特徴を捉えていて、少し憎たらしさも覚えたが、何だかんだこの小さい生き物が可愛い事には変わりはなかった。これにはサイカの頬も、否応なしに綻んでしまう。


「みんなが、よるがこわくならないように、まいばん、おそうじがんばってるってボスがいってた」


「ボス?」


「うちの社長」


とセイタが応えた。相変わらずぶっきら棒だが、メグルの話を聞いて、その時ばかりは少し、その印象が柔らかく見えた気がした。サイカとそう変わらない頃なのに、掃除という危険で過酷な仕事を毎晩こなして、メグルをどうにか養っている。単純に凄いと思ったし、二区ではこう言う生活をしなければいけないのだなぁと、サイカはしみじみ感じたのだった。


「ふーん。……そういえばさ、セイタはどうして掃除屋やってるの?」


「………別に」


(あ、やば)


せっかく雰囲気が柔らかくなったと思ったのに、ジトっとした目がキツく戻った気がする。ただ何気なく聞いただけだったのだが、質問を間違えてしまったかも知れない。サイカは慌ててフォローを入れた。


「ま、まあ、でも、大事な仕事よね。街を綺麗に保たないと瘴気で充満しちゃうし。呪いが濃くなったら大変だものね」


「……そうだな」


また素っ気ない返事。元から素っ気ない奴だと思っていたが、それにしたって、昨日とはえらい違いだ。やっぱり、ガイドを断った事を根に持っているのだろうか。謝ったほうが良いのか。いや、でも、謝られても困るだけかも。頭の中がまたぐるぐるし始めて、脳みそが熱くなる。


(ああ、もう!!)


サイカはこう言うのが苦手なのだ。


「……ね、ねぇ、なんか怒ってる?」


意を決して、サイカが尋ねたその時だった。


「メグルちゃん、かくれんぼしよー!」


小さな異形がメグルの元へ駆け寄って来た。少し離れた場所には、異形の子供たちだろうか、他にも数人、公園の灯りの下に集まっている。彼女の友達だろうか。


「セイタ」


メグルがセイタを見上げると、彼は微笑んだ。


「いいよ。行っておいで」


「うん!」


メグルは嬉しそうに返事を返すと、誘って来た子と一緒に彼らの元へ駆けて行ってしまった。

電灯のしたでは小さな影たちが、ワイワイと賑やかに話だし、そして鬼の子が数を数え始めると、皆散り散りに逃げ出した。


「……」


さて、ベンチに取り残されたのは年頃の男女二人きり。


(ぐわあああ、きまずぅぅぅうい)


唯一の癒しが居なくなったこの状況。サイカは沈黙の重さを、ズシリと両肩で感じていた。昔、学園の同僚が、敷地内の広場で似たような状況になったらしく「きゃー!〇〇君と公園デート?二人並んでベンチ!?何それー!!ドキドキしちゃう!!」なんて事を、授業の合間、教室中の皆んなに向かってスピーチでもするのかという勢いで話していた事を、ふと思い出した。あの時は、彼女の言っている事が全くもって理解できなかったが、今なら分かる。彼女もこう言う“ドキドキ”を感じていたのだ。なるほど、これは健康に悪い。おまけに、セイタの方は相変わらず質問に対する返事がない。何とかして“たまご”の事を聞き出したい所だが、とてもこちらから何か聞き出せる雰囲気では無かった。


(どうしよぉ…)


そんな風に一人悶々と考えていたサイカだったのだが、意外にも、この沈黙を破って来たのはセイタの方だった。


「……メグルは渡さないぞ」


「……え?」


やっとコミュニケーションをとってくれるつもりになったのかと思えば、待ちに待ったお返事が、まさかのコレ。サイカは耳を疑った。突然そんなこと言われたら、誰だってびっくりする。


「あんたも天仙の命令で来たんだろ。“社会科見学”なんてよく言うぜ」


「て、天s…」


目が点になるとはこの事だ。サイカの頭の中も真っ白だ。ごめん、先生。私、期待に応えられないかも。


「き、気付いてたの…?」


すると、セイタは深いため息をついた。


「まあ、気付いてたってより、疑ってた。七区の学生っていう可能性も捨てきれなかったからね。でも、昨日の蜘蛛との戦いで確信した」


何処かで、「〇〇ちゃん、みーけっ!」と声が聞こえた。


「私の事、試したのね」


「……俺は仙が嫌いなんだ」


「……」


「ま、二区の奴らは大体皆んなそうだけど」


「だから、“たまご”を盗んだの?」


「たまご?……ああ、あいつ、そんな風に呼ばれてるのか」


セイタは一瞬首を傾げたが、直ぐにそれが何を指し示すのか気付いたらしく、フッと鼻で笑った。さっきから、この鼻につく彼の態度は何なのだろう。サイカは眉を顰めた。


「……?もしかして、何も知らずに、保護したの?だったら—」


「嫌だね」


「まだ何も—」


「メグルは渡さない」


食い気味にセイタはそうハッキリと言ってきた。これには流石にサイカもムッとして、すこし言葉に怒気が籠った。


「そんな、子供みたいに!元は天仙様の物なのよ!拾って大事にしてくれてたのは有難いけど、お返ししなきゃ!!」


「アイツは物じゃない」


「それは言葉の綾でしょ」


「本当にそうか?」


セイタの鋭い視線が、サイカを捉えた。


「……何よ」


「なら、どうして、メグルは三区の廃工場に隠す様に閉じ込められてたんだよ」


「閉じ込められてた…?」


「……ほら。結局あんただって、何も知らないんじゃないか。単に命令に従ってるだけ。天仙の元に戻ったら、あいつはきっと地獄を見る」


「何を根拠に……」


そう返すサイカを見て、セイタはため息をついた。結局はサイカも命令で動いているだけ。相手は血も涙もない仙人。これ以上言い合いをしても埒が開かないのは分かっていた。


「……仙の非常さは、あんたが一番よく分かってるだろ。天仙はメグルを利用したいだけだ」


セイタは立ち上がり、「メグルー!」と彼女の名前を呼ぶ。いつのまにか鬼は全員見つけていたらしい。セイタの呼ぶ声を聞くと、集まる人影の中から、メグルは直ぐに彼の元へ駆け戻ってきた。彼女は本当によくセイタに懐いている。この子をあと数日のうちに、八区へ連れ帰る事など出来るのだろうか。話し合いがダメなら、無理やり奪うしかない。やるなら今だろうかと、サイカは唾を飲み込んだ。その時だった。


「次は二区封鎖」


セイタはメグルの手を取りながら、徐にそんな事を言った。


「……は?」


「“社会科見学“に来たんでしょ?興味あるなら調べてみなよ。少しは分かるかもよ」



「何よ、あいつー!」


繁華街のバルのカウンターでコーヒー片手に突っ伏すサイカ。本当はあのままメグルを奪っても良かったのだが、どうもセイタの話が気になって、結局サイカはまだ、二区に残っていた。


「結局は“たまご”を持ち主に返したくないって言う、ただの言い訳でしょー?あーあーあー」


「はっはっは。お嬢さん、荒れてるね。もういっぱいコーヒーいかが?」


バルの亭主がサイカの様子を心配してか、はたまた面白がってか、声を掛けてきた。流石に突っ伏したままでは悪いので、サイカは顔を起こした。


「大丈夫。……ねぇ、マスター」


「ん?何だい?」


「落とし物は持ち主に返すべきよね」


「あー、うん。そうだね。何か落としたのかい?」


「…ううん。私の知り合いの話。その人、大事なもの落としちゃって、頑張って探してたんだけど、やっと見つけた時には別の人のものになってたの。どう思う?」


「んー、よく分からないけど、返して貰えば良いんじゃないかい?」


亭主がそういうと、話を盗み聞きしていたのか、客の一人がケラケラ笑った。


「そんな素直に返す奴なんかいねぇだろ。もし、取り返したいなら、二区なら確実に殺し合いになるな」


「こらこら、ワニさん。穏やかじゃないなぁ。ごめんね、お嬢さん。あんな人ばっかりじゃないから。きっと話せば分かってもらえるよ」


「はっ!話せば分かるなんて理想的にも程があるぜ。失せ物は拾った者のもんだ。煮ようが焼こうがそいつの自由。大体、本当に大事なものなら、肌身離さず持っておけって話なんだ。無くす方が悪い」


「……そう言う考え方もあるのか」


ひょっとしたらセイタも彼と同じ様な考えを持っているのかも知れない。サイカがそうしみじみと溢すと、「いやいやいや」と亭主はやんわり否定する。


「二区にもちゃんと法律はあるからね。他人の物を傷つけたり、勝手に持ち出したら器物損壊とか窃盗の罪にちゃんと問われるよ」


「はっ!だからマスターは甘いって言われるんだよ。そこら中、どっから仕入れたか分からないようなものばっかなのに、たかが失せ物ひとつ見つかった所で法律が機能する訳ないじゃんか」


「…そう」


サイカは肩を落とした。やはり話し合いは絶望的なのだろう。セイタの決意は硬そうだった。


(八区に戻った方があの子の為なのに……)


“たまご”の為を思うなら、天仙に返して安全な場所で暮らしいた方が良いに決まってる。サイカの脳裏にはメグルの姿が浮かんでいた。


「………」


八区に戻った方があの子の為。そうは思っているものの、セイタと一緒にいる彼女は、とても幸せそうだった。


「悩ましい、って顔してるね」


「え…ああ、まあ」


もし、メグルをセイタから引き離したら、あの子は泣くんだろうか。セイタもセイタで、天仙に返したくない理由がある様だった。


「…次は二区封鎖」


そう、溢していた。


「え?」


「あ、そうそう。なんか噂で聞いて…ここの人って、封鎖をどのくらい心配してるのかなって…レポートでも取り扱おうと思うのだけど」


「封鎖か…」


そんなのただの陰謀論に過ぎない。ただの冗談のつもりでサイカは尋ねたのだが、思っていたよりも亭主の声が重く響いた。


「そんなもんやったら俺たち全面戦争だな!ガハハハ」


亭主とは対照的にワニは豪快に笑った。亭主は相変わらずと言った様子で、深いため息をつく。


「200年前の“一区封鎖”を知らない連中は、皆んな起こるわけないって馬鹿にしてるがねぇ、どうかな…」


「なんだ、マスターも一区出身だったのか」


「私は違うよ」


と亭主はワニの質問に返す。サイカは首を傾げた。


「……《も》って、ワニさん、もしかして一区出身なの?」


「いやいや、まさか。ワニさんはこんなに偉そうですけど、二区に越してきたのは、ほんの10年前ぐらいの話で。私らからしたら、ほんのひよっこですよ」


「なんだ」


悪意のある仏顔でそう教えてくれる亭主。彼の言葉に残念そうに肩を落とすサイカ。すると、ワニはムッとして乗り出してきた。


「なんだとはなんだ」


「せっかく一区の話が聞けると思ったのに」


「…お嬢ちゃん、興味あるのか」


「うん」


ワニの質問にサイカが頷くと、ワニは両腕を組んで片眉を吊り上げた。


「確か…掃除屋が一区出身だったよな?」


ワニはそう亭主に尋ねたが、それはおかしいと、サイカは首をかしげた。


「掃除屋?あの人、人間なのに200年も生きてるの…?」


「いやいや、俺が言ってるのは社長の方。そういや今日、来てないのか?」


「ああ。昨日は居たけどね」


と、亭主。


「そりゃ、残念」


二人の会話からワニも亭主も、その“掃除屋の社長”の事を良く知っているようだ。有名人なのだろうか。


「……社長さんなら、詳しく知ってるの?」


「知ってるだろうけど、それについてアイツに聞くのは遠慮して欲しいかな」


サイカが尋ねると、どう言うわけか亭主が申し訳なさそうにそう応えた。


「あの人が掃除屋になったのは、あの事件がキッカケだからね。その時に異形化が一気に進行したんだ」


「そうだったのか」


ワニは知らなかったらしい。


「掃除屋さんには俺が話したって言うなよ」


と亭主は釘を刺した。


「…じゃあ、マスターは“一区封鎖”を実際に体験してるの?」


「まあ、体験したと言うより、この目で見たと言うだけだよ。ありゃ、本当に酷かった。なんせ、住民には何も知らされずに、封鎖が始まったんだからね」


「そうだったんだ」


「封鎖は仕方なかったっていう意見もあったが、呪いの瘴気を過度に恐れた人間と仙が、一区と二区を繋ぐトンネルを強制的に閉じたのさ。だけど、皮肉にもそれが更なる人間の異形化を招いた。そうして出来上がったのが、今の二区の姿なんだよ」


ガラクタで出来上がった街。前時代の空気感を強く残すこの街にも、かつては沢山の人間が住んでいたと思うと、何だか少し不思議な気持ちに駆られた。


「てことは、マスターは人の街だった時代の二区を知ってるのか」


とワニ。


「まあね。一区封鎖の影響で、三区に流れた奴も居れば、二区にとどまった奴も大勢いる。大半は死んじまったが、あの時代を知る奴はまだここに残ってるよ」


「…そうなんだ」


でも、だからなんだと言うのだ。セイタはまるで、“封鎖”と“たまご”に何か関係があるような言い方をしていたが、まさか天仙様の探し物が“二区封鎖“を招くとは考えにくい。


(あ、もしかして…人質?)


“封鎖”という陰謀論を信じた青年。天仙様に揺りをかける為の“たまご”。もしそうだとしたら、益々許せない。例え、メグルが泣く事になってもセイタから引き離さなければ。そんな風にサイカが奮起ている傍では、亭主が深いため息をついていた。


「…もう、あんなのは見たくないねぇ」





宿に戻ったサイカは、仰向けになって二区封鎖について色々と考えていた。

天井の木目が、寂しげに眉を下げる亭主の面に似ている。そうしたら段々と自分も鬱々とした気分になってきた。


(そんなに、心配する事…?天仙様はそんなに血も涙もない方じゃないと思うのだけど)


何たって天仙様はこの地下世界の最高責任者。民のために働き、民のために生きる。それが彼のキャッチフレーズだ。なのに、二区では彼の評価はすこぶる悪いらしい。天仙様の元で働く1人の見習いとして、サイカは少しばかりいたたまれない気持ちだった。


「はぁ…」


ザザッ


耳元で通信が繋がる音がする。ハッとしてサイカは慌てて飛び上がった。


「っ!」


『サイカ!!報告はどうした!!」


「す、す、すすすすみません!!」


繋がってすぐの怒鳴り声。通信元ははもちろん先生だ。サイカは無意識のうちに正座になっていた。


「きょ、きょ今日、“たまご”に会いました!!」


『……何!?そうか!無事だったか』


先程の怒号からえらい変わり様。サイカの報告に、先生の声はとても嬉しそうに響いた。


「はい。……無事も何も、掃除屋の青年に凄く大事にされていました。元気そうでしたよ」


そして、幸せそうだった。“たまご”も、セイタも。


『そうか…。そ奴は“たまご”が天仙様の物だと知っていたのか?』


「おそらくは…。返還の交渉を試みる前に、“メグルは渡さない”って言われてしまいました」


『メグル?』


「“たまご”の名前です。可愛い子でした」


『天仙様の物に名を与えるなど、罪深いことをする奴がいたものだな』


「ふふ。だからってあの子を“たまご”とは呼ぶ気にはなれないですけどね」


先生だって、あの子を前にしたら”たまご”なんて呼べなくなるはずだ。だってあの子には、もう素敵な名前があるのだから。そんなペットにつけるような食べ物の名前で、あの子を呼ば続けるのも可哀想な話である。まさか、天仙様が“たまご”と命名した訳でもあるまいし。まあ到底、そんなことは起こり得ないだろうが、もし、子供にそんなふざけた名前をつけるような事があれば、それは一生に渡って続くタチの悪い虐待と言っても過言ではないだろう。


『笑い事ではないぞ。それより、連れてこられそうか?』


「うーん、どうでしょう…。保護してるセイタって人、中々の頑固者っぽいので、話し合いは無駄かと。彼、ちょっとおかしいんです」


『おかしい?それ、“たまご”は本当に大丈夫なのか?』


「ああ、それはご心配なく。おかしいってのは…なんか彼、“二区封鎖”とかいう陰謀論を信じちゃってるみたいなんです!」


メグルを交渉にでも使って、封鎖を止めさせようという魂胆なのだろうか。まさかそんな事を天仙様がするわけ無いのに。何れにしても、話し合いでの解決は難しそうだ。陰謀論なんかを信じ込んでいる若者をまともに相手になんかしてたら、日が暮れてしまう。やっかいな輩に“たまご”が渡ってしまったなぁと、サイカは笑った。


「面白いですよねぇ。ふふ、そんな訳ないのに」


『………彼は、200年前の件を知ってるのか?』


「へ?…何です、急に」


そう。サイカとしては笑い話のつもりだった。なのに、何故か先生の声が暗く響く。何かがおかしい。やけに神妙な雰囲気だ。それになんで、先生の方から“200年前”という言葉が出てくるのか。


『……まずいな。あの時のようにならねば良いが』


これじゃまるで、陰謀論が本当みたいじゃないか。


「…は、はは。まさか、先生まで“二区は封鎖される“なんて言いませんよね?」


『……そうならない可能性もゼロではない」


「そう、なの?」


「200年前は、あまりにも瘴気が濃くなり過ぎたせいで、結局一区を。犠牲になった“たまご”は優秀だったが、結果の良し悪しには状態が大きく関わる』


「結果の良し悪し…?先生、今回探してる“たまご”って、一体…」


ゴクリとサイカの喉がなる。“たまご”とは仙の間で使われる“隠し子”の隠語だ。仙は血縁を作るのを嫌う故の言葉だと思っていたが、どうにも、そうじゃない雰囲気が通話先の向こうから、伝わってくる。ふと、先生の深いため息が聞こえた。


『お主は知る必要はない。が、何にせよ、その青年の元に“たまご”は置いておけないな…。サイカは、“たまご”が孤立するタイミングを狙って、素早く穏便に回収しなさい』


「わ……わかりました」


先生はどこか焦っている様だった。


『それと、景吾をそちらへ向かわせる。“たまご“の奪還が困難な場合は、二人で協力するように』


「え、兄さんが……」


「何か不都合が?」


「いえ。…分かりました」


景吾が二区へ来る。サイカの額から汗が流れた。



「ねぇ、セイタ?」


布団の中で、メグルがセイタに尋ねてきた。


「なんだ?」


「せん、がきらいなの?」


いつのまに昼間の話を聞いていたのか。恐らく、かくれんぼの間、メグルはセイタ達の近くにでも身を潜めていたのだろう。どうしたものかと思いつつも、セイタは布団をしっかりと掛け直しながら応えた。


「……嫌いだね」


「どうして?」


メグルは無垢な瞳でセイタを見つめてくる。なんだか、責められているようで気分が悪かった。何も知らない子供はお気楽で羨ましい。セイタが仙を嫌う理由は、メグルとも関係があるのだ。深いため息が漏れた。


「俺たちを大切にはしてくれない連中だからだ」


「……」


メグルがぎゅっとセイタの胸元を掴んできた。


「どうした?」


「……セイタ、きらいにならないで」


「……ぷっ。ならないよ。ごめん、ごめん」


セイタはメグルの背に手を回し、ぽんぽんと背中を優しく叩いた。メグルは何を勘違いしたのか。


「メグルはメグルだ。俺の大事な家族だからな」


「うん」


それから暫くすると、メグルから規則正しい寝息が聞こえてきた。やっと寝ついたらしい。


「寝たな」


「ああ」


壁に寄りかかるブラシがそっと返事を返してきた。それから、セイタは彼を握り、いつものように準備を始める。


「今日の仕事は、外れだ。一区トンネル近くの廃墟街。数日後に撤去作業入るから念入りにって、ボスからの司令だ」


「分かった」


セイタは扉の取手に手をかけた。


「行こう」


そして、常夜の街へ飛び出した。華やかな明かりが灯る繁華街の屋根を抜け、事務所からどんどん遠ざかっていく。放置された昇降機の残骸を登り、塔へと乗り移って、また飛び降りる。ブラシは「ひゃっはー!」とテンションの高い叫び声をあげていた。


「あそこだな」


昔の家屋が立ち並ぶ9丁目。セイタはとある家の屋根に着地しようとしたのだが、老朽化のせいかそれはあまりに脆く、足をついた側から瓦が崩れて、屋根が抜け落ちた。


「わっ!」


ガシャンッとすごい音が鳴り響く。埃が舞って、セイタ達は咳き込んだ。


「ゴホッゴホッ…スッゲーな」


「ばっきゃろぅ!考え無しにボロ家の屋根に着地する奴があるか!?」


ブラシが毛束を振るわせながら、文句を言った。


「だってこの街、どこもかしこもも、だいたい見た目は廃墟だろ!老朽化してるかどうかなんて見分け付かないよ!」


「馬鹿!廃材は資材だ!無駄に壊すなって言ってんだよ!!」


激しく言い合いをする二人。何はともあれ無事だったのだから、それで良いじゃないか。全くうるさいブラシである。そんな中、段々と立ちこめていた白い埃が透けてゆく。この時、見覚えのあるお団子二つの影が、セイタ達の正面にあったことに、彼らはその瞬間までまるで気が付かなかった。


「…あ!」


影が埃の幕を切り裂くと同時、セイタの腹に鈍痛が響く。あっと思った次の瞬間には、セイタの身体は壁を突き破って吹っ飛んでいた。バリバリと木材が避ける音。家屋の一部が崩れ、また埃が大量に舞う。セイタはゴホッと咳をした。


「ごめん、セイタ」


そう聞こえた気がした。また咳が出て口元に手を当てると、血がベットリとこびりついていた。




午前9時を知らせる鐘が鳴ると、ガチャッと掃除屋事務所の扉が開いた。


「おじゃま〜……って、何これ!?」


真っ白。そう真っ白だ。モワモワと渦巻く白い霧。それは、一面雪景色、じゃなくて粉景色。フィオが掃除屋を訪ねると、どう言うわけか、そこら中、牛乳と粉だらけになっていた。


「どうしたの!?ってメグルちゃん!?それ!」


真っ白なせいで気が付かなかった。いつからそこにたのだろう。フィオの目の前には、すっかり粉っぽくなった真っ白いメグルがいた。


「ん!セイタのためにほっとけーきつくってる」


「いや、そんな得意げに言われても…これ」


顔も髪も、服まで真っ白にして、良くこんなに得意になれたものだ。よく見たらテーブルの上に、割れた卵まで落ちている。


「……」


どうしたものか。すると、背後から「なぁ、フィオ」と開けっぱなしのトビラが声をかけてきた。


「セイタがまだ仕事から帰って来てないんだ」


帰ってない。ハッとして、フィオはトビラの方を振り返った。


「……ボスには連絡した?」


「それがまだ出張先で、直ぐには帰ってこれねぇんだと」


「…あの子、死んでないわよね?」


「そこまで柔じゃない筈だが…。兎に角、これ、俺じゃどうしようも出来ないからアンタに電話したんだよ」


「これって」


すると、「ふえっ」と背後にいるメグルがぐずる声が聞こえた。


「げ」


「えっく……セイタ、かえってこないの?」


クリクリのお目目に涙をたっぷり溜めて、まだ半分残った牛乳瓶を握りしめるメグル。小さな鼻はズビズビと音を立て始めた。やばいやばい。これはいよいよ泣き出すぞ。フィオは慌てて彼女のそばへ駆け寄った。


「だだだだ大丈夫よ!前にも何回か帰ってこなかった事があったし…!なんだかんだボスが見つけてくれて、無事だったから今回も—」


「でも、ボスもおしごとだって」


「だ、だーいじょうぶ!!落ち着いて!!あ、そうだ。お姉さんと一緒に公園でセイタの事待とうか?」


「……おそとでていいの?」


ウルウルの瞳は、フィオを捉えてはいなかった。その質問はフィオの背後にいるトビラに向けられていた。


「はぁ。フィオと一緒なら良いぜ。行ってこい」


「…じゃ、いく」


メグルは嬉しそうではなかったが、しっかりと頷いた。大方、セイタを探しに行くとか行かないとかで、メグルとトビラは一悶着あったのだろう。トビラは深いため息をついた。


「はぁ。そう言うわけだから、フィオ。コイツの事連れ出してくれ」


「良いけど…ここ、掃除しなくて良いの?」


「いいよ。そのままにしておけ。ヘマしたセイタの責任だ。そうでなきゃボスにやらせるよ。アンタは兎に角、コイツの事、頼む」


「わ、分かったわ」


「ああ、悪いな」



そんな事があったのが、つい数刻前のこと。


「はぁー…」


公園にはキャッキャと楽しそうにはしゃぐ子供達の声が響き渡っていた。

最初こそ不機嫌だったメグルだったが、公園に来てしまえば、ここらに住まう童の異形達と、いつものように楽しく遊び始め、いつの間にかあの活気。


「子育てってほんと大変だわ…。良くやってるわ、セイタも…」


ベンチの横で、車椅子の背もたれにグッと寄りかかり、常夜の空を見上げる。すると、ふと、ふざけた雑面の姿も脳裏に浮かんだ。そういえば、いつかの彼も、こんな姿で公園にいた日があった。


「……掃除屋さんもね」


笑顔の彼女達を見るのは実に微笑ましいが、やっぱり自分には無理だと思う。憧れた時期もあったが、もう子供を持つことは叶わない。フィオはなんとなく、自分の腹をさすった。


「…はやーく帰って来い。セイタも、掃除屋さんも」


公園には、かくれんぼの鬼が「いーち、にーい」と数を数える声がこだまする。


メグルは土管の影に急いで隠れた。

鬼のあの子はきっとここを直ぐには見つけられない。そう思うと面白くて「ふふ」と笑いが漏れた。


「!?」


ザッと誰かが近づいてくる音がする。メグルは少しドキドキしながら、息を潜めた。


「…メグルちゃん?」


「……」


鬼の子の声ではない。でも、聞き覚えのある声だった。


そこから少し離れた場所にいたフィオは、公園から離れていく子供と女の影があった事に全く気が付かなかった。


「今宵の月提灯はレモンだね。酸っぱそう」


そんな呑気な事を言いながら、フィオは独り、昔の思い出に浸っていた。



列車の到着を知らせる鐘が駅のホームに鳴り響く。一本挟んだ向かい側の路線に各停の列車がキキィと鈍くも鋭い音を立てて停止した。


「セイタ、だいじょうぶ?」


何かぶつぶつと独り言を呟いていたサイカにメグルがそう尋ねると、彼女はハッとしてこちらを見た。


「あ、ああ!うん!命に別状は無いよ。今は五区の病院で休んでる。ひどい怪我を負っちゃったからね」


サイカがそう答えると、フードを被ったメグルの顔が明らかに陰った。サイカの手を握る彼女の小さな手に力が籠る。


「……はやく、セイタのとこいきたい」


「……ねぇ。そんなに大事?」


サイカはしゃがみ込んで、メグルの顔を覗き込んだ。


「本当の家族じゃないでしょ?」


「でも……」


セイタを心配するこの無垢な瞳の少女こそが、天仙様の探している”たまご”だ。例え、この子がそれを望んでいなくても、あるべき場所に戻すのが物の道理というもの。


(この子を連れて行けば、私は正式に仙として認められる)


自分は何も間違った事をしていない。“たまご”奪還作戦の成功は目前まで迫っている。だというのに、高揚感を感じるどころか、悲しげなメグルを前にすると、もやもやとした思いが鳩尾のあたりでつっかえる。サイカはなんだかイライラして、自分でも意地悪な質問をしたなと、言葉にしてから後悔した。


「こんなところにいるより、天仙様のところに行った方がよっぽど良い思いできるわよ」


なのに、また嫌味な言葉を重ねてしまう。メグルが今にも泣きだしそうな顔をしていたことに気がついて、サイカはさっと立ち上がった。


(……この子は、もうセイタには会えない)


次に到着する偶数特急には兄弟子の景吾が乗っている。景吾と一緒にこの子を無事に八区に連れて帰れば、サイカの仕事は終わり。たったそれだけの事。なのに、この子を連れて行く事を躊躇している自分がいる。


「あれ、昨日の、人間のお嬢ちゃん?」


ハッとして隣を見ると、昨日喫茶店で会ったワニが洒落た格好をしてそこに立っていた。


「あれ、そっちのフード被った子、ひょっとして掃除屋の……」


「ああ、違うの」


サイカは慌ててメグルを自分の背後に隠した。


「親戚…みたいな?」


「親戚……そうかい」


ワニは明らかに疑っていたが、それ以上追求はせず、線路の方に向き直った。


「ああ、そういやレポートの調子はどうだい?」


「ああ、あれね。おかげさまで順調で、早めに帰ることにしたの」


「はは、そりゃよかった。そうさな、いくら耐性持ちでも二区ここに長居するのは良くねぇ」


「えへへ。…ああ、それで、ワニさんは?お出かけ?」


「ああ。久しぶりに三区の旧友を訪ねて帰ってきたとこなんだ」


ワニは深く帽子を被った。


「異形になると時間が長くなるからな…。つい、昔の感覚で人に会うと、こっちが悲しくなるぜ」


「……なにかあったの?」


「まあ、個人的な話よ。あいつ、異形化が始まったとは聞いてたが、今日会ってみたら身体中インプラントだらけでな。どっちが異形だか分からなくなってたよ」


「……人間はみんな異形になる事を恐れてるもの。ワニさんは、異形化が始まった時、怖くなかったの?」


「はは、そりゃもちろん。俺も最初は物凄く怖かったさ。見た目は醜いし、己の受けた恨みと業を人様に晒してる様でな。恥ずかしかった。でもよぉ、……身体を切り落とせるだけ切り落として、ヨボヨボの身体に機械だらけの姿で死ぬよかマシだぜ……って悪い悪い。なんか暗い話しちまったな」


ワニはそう言ってへらっと笑ってみせた。


「ま、金が無いダメな男の僻みみたいなもんよ」


「……ワニさんは、ここで生活できて幸せ?」


「なんだ、唐突に…。まあ、そりゃ、三区とかと比べると不便な面は多いけどなぁ」


ワニは顎に手をあて、宙を見上げた。


二区ここは唯一、この姿の俺を、俺のまま受け入れてくれる街だからな。自分を偽らなくていいってのは凄く幸せな事だと思うぜ」


「そう」


「……お嬢ちゃんこそ、何かあったのかい?」


サイカはメグルの手をつよく握った。


「あの、お願いがあるんだけど」



瓦礫の間から念の塊がニュルッと飛び出した。


「うっ…」


身体中が痛い。しかし、この柔らかい感覚はなんだろう。セイタが薄らと目を開けると、まんまるお目目と、真っ黒で思わずギュッと握りたくなるフォルムのふわふわしたそいつがいた。


「…あれ?いちごう?」


『わん!』


「……なんだ、違うのか」


そう言えば、フィオのペットのいちごうは、何処か異形の念の塊に似た見た目をしていた。唯一、念の塊と違うことと言えば、友好的で愛嬌が有るところだろうか。


『いちごうから、お前を探すように頼まれた』


「……え?お前」


『早く行け、掃除屋。“たまご”が連れていかれるぞ』



——まもなく、二番線に偶数特急列車が参ります。黄色い線の内側まで、お下がりください。


薄汚れたホームに列車が重々しい音を立てながら、ゆっくりと停車した。プシューと空気の抜ける音がして、扉が横に開く。列車から数人の乗客に混じって、口元だけマスクで覆った長身の青年が降りてくる。妙に目立っていたので、サイカはすぐに彼がどこにいるのか見つけることが出来た。


「兄さん」


「……あっ!おや、サイカ!ふふ、なんだい、その面?顔を丸々隠しちゃ誰だか分からなかったぞ」


「あ、ごめん。これ、こっちで作ったの」


いい面なのよ。と言えれば良かったのだが、いざ景吾を前にするとサイカは何も言えなかった。景吾は二区の“作法”を知らない。一応、口元のマスクをつけているようだが、おそらくその理由は“なんとなく”だろう。異形たちに敬意を払うと言うよりは、呪いの瘴気を気にしてつけているのだ。その証拠に、白いマスクにうっすらと天仙様の護符の文様が浮かんでいた。


「それで、“たまご”は?」


景吾は辺りを見渡した。もうほとんど誰もいないホーム。サイカと景吾、まるでそこに二人だけが、ぽつんと取り残されているようだった。


「……兄さん、あのね。その前に、少し聞きたいことがあるの」




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