第4話 角

「お、おい、これどうするんだよ」


「どうって…」


ボスとブラシは事務所で慌てふためく。


「セイタが知ったら怒るぜ…」


「そんな事言われたって…だって勝手に」


「勝手にって、ボスの不注意で角が引っかかったんだろ!全く、気軽に肩車なんかするから!!」


メグルの角が折れたのだ。根本からポックリ。いや、実際のところ折れたと言うか、落ちたと言うか。身長2メートル近くあるボスがメグルを肩に乗せたらどうなるかなんて、考えたら容易い事。キャッキャと喜ぶメグルの反応に気を良くしたボスは、軽くピョンピョン飛び跳ね始め、仕舞いには天井にメグルの角がぶつかり、そのままゴロンと落ちてしまったのだ。


「うーん…フィオのところの、いちまるだっけ?食べるかな?」


「バカな事言ってねぇで、早くメグルの手当してやれよ」


あと、フィオのペットはいちごうだ。相変わらず適当な事ばかり考えるボスは、メグルから落ちた角をまじまじと見つめる。当の本人、メグルはというと、頭から流れる血をウマウマと舐めとっていた。別に痛みは無いみたいだが、これを見たらセイタが怒ることは確じ—


ドアがガチャと開く。


「ただいまー……」


ボス。その手には角。側には血だらけのメグル。

空気はサッと凍りついた。



「す、すみません」


ボスはソファーの上で正座をさせられていた。いや、というより、正座しか許されないこの雰囲気に、ボスは臆し、自らその体勢でいることにしたのだ。セイタは腕を組み、ブラシとボスを冷ややかな視線で見下す。セイタの隣には額に包帯を巻いたメグル。彼女はペリペリと蜜柑の皮を剥くのに夢中みたいだ。


「で、角が取れたと?」


「いやー…なんて言うか、まあ、元々グラグラしてたんだよね!ね、ブラシ?」


「はあ!?俺に振るなよ!しらねぇよ、そんな事。人間のガキの歯じゃないんだから!」


「あ、それ!そうだよ、それ!ちょうど生え変わりの時期だったのさ。自然現象だから、セイタもそんな怒らないで」


いつの間にかボスは調子良く、ソファに正しく座り直す。だが、そんなので納得するセイタではない。


「嘘つくにしても、今思いついたみたいな感じ出すなよ!仮にそうだとしても、メグルの事血だらけで放置するなよ!これじゃ、留守番頼んだ意味ねぇじゃんか!」


そう、セイタは食材の買い出しに出掛けていて、そのほんの数十分の間、ボスとブラシに子守を頼んでいたのだ。


「そんなこと言ったってね。角の事は私も予想外だったんだもの。まぁ、でも考えてみれば、当然だよね。鹿って確か一年に一回ぐらい角生え変わった筈。メグルは鬼の異形じゃなくて、鹿の異形だったんだよ」


「?」


メグルは首を傾げる。鹿って何だろう。


「おい、ボス。鹿の角って雄だけにあったんじゃなかったか?」


ブラシの発言にボスは一瞬固まった。


「え…そうなの?まあ、でも、メグルは一応鬼ってことで—」


「よくそんな都合よく解釈できるな!」


セイタの声に怒気が入る。慌てて、ブラシが止めに入った。


「ま、ま、ま、ま、ま、落ち着け、セイタ。見ろよ。メグルはそんな痛がって無いみたいだし、多分そんな問題無いんだよ」


「……メグル、そうなのか?」


セイタがメグルに尋ねると、メグルは蜜柑を頬張りながら教えてくれた。


「うん。ち、おいしかったよ。かゆかったから、とれてよかった」


「…そうか」


一先ず安心したセイタだったが、「大袈裟なんだから」とブラシに耳打ちするボスの声に苛立ちは隠せなかった。まったく、この大人は相変わらず調子がいい。セイタがギロリと睨むと、ボスは肩をすくませて、またしょぼんとした。


「…で、この角、どうする?」


テーブルの上の二本の角。ここに置いておくのも、何となく邪魔だが、捨てるのは如何なものだろう。ブラシが尋ねると、セイタはため息をついた。


「…回収屋は欲しがらないだろうし。埋めるしか無いなら、フィオ姉ぇのとこのいちごうにやるか」


「お前さんもかよ!!」





「ヘッヘッヘッヘッ!!バウッ!」


「それー!!あははは!」


メグルが角を投げると、いちごうは嬉しそうにそれを追いかける。中庭で遊ぶ彼女たちを見守りながら、フィオとセイタは茶を飲んでいた。


「悪いねぇ。いいもん持ってきて貰っちゃって」


「まあ、役に立つなら良かったわ」


いちごうは、時たまメグルに突っかかって彼女の周りを駆け回る。追いかけっこをしたり、角の引っ張り合いをしたり、2人は楽しそうだ。


「ああしてると、本当に人間の子みたいだね」


「うん。角がないとただの子供にしか見えない。本当に何なんだろうな、あいつ」


無邪気に笑うその姿は、セイタをとても穏やかな気持ちにさせる。


「…大通り騒ぎの件、あの子だってね」


フィオが切り出してきた。やっぱり聞かれると思ったのだ。


「妙な力を使うって。トカゲの男が有る事無い事、店で好き放題言ってるらしいよ」


「…ああ。あいつか。腕はくっついたのか?」


先日、メグルが怪我をさせた店の亭主だ。あれから文句の一つでも言いに来るのかと思ったが、掃除屋に未だに連絡は来ず。最も、別の案件のクレームが多すぎて対処出来てないだけかも知れないが。


「町医者の話じゃ、半日したら生えてきたって」


「そうか。…異形ってのは心配するだけ無駄だな」


「…そんな事ないさ。少なくとも、メグルちゃんはあんたの手助けが必要だろ」


「……あれは、恩返しみたいなもんだよ」


「恩返し?」


「育てて貰ったから、育ててる。ボスの真似」


「なるほどね」


太々しいガキだと思っていたが、可愛いところもあるじゃないか、とフィオはにやける。

すると、いちごうが角を咥えてフィオの所までやってきた。


「お、どうした、いちごう」


『はぁはぁ、ご主人。あいつ、俺より体力ありますぞ』


ドスの生きた声。何人もの声帯が重なり合ったような、そんな不気味さがあった。


「え…いちごうって喋るの?」


『何だ、掃除屋。そちらだって喋るデッキブラシを連れてるではないか。何を今更驚く?』


「いや……ただ、意外だったっていうか、もう少し可愛く—」


「いちごー!つかまえた!!」


キャッキャと笑うメグルがいちごうに抱きついた。驚いたいちごうは身体をコテって横にして、ヘソを天に向けた。


『きゃ、ちょっ、やめろ、やめろって、あ、そこー!そこ〜キモチイイッ!あ!!ちょっ、あーーーー、そこそこそこ』


「……何だこの犬」


「可愛いだろ?見てて飽きないんだよ」


フィオは嬉しそうに言った。


『何だとは、何だ!掃除屋!!いくら極上の角をくれたからって俺様はそう簡単にっ!!あ、角!!』


笑顔のフィオがいちごうの前にメグルの角をちらつかせる。ヒョイっと投げれば、いちごうとメグルは角まで一直線。落ちた角の引っ張り合いを始めた。


「ふっ。醜い争いだこと」


(…フィオ姉ぇって実は犬も子供も嫌いなのか?)


彼女たちを遠い目で見守るフィオ。何だか話しかけづらい雰囲気を纏っていた。すると、彼女の方から口を開く。


「まあ、このタイミングで角が取れたのは良かったかもね」


「…どう言うこと?」


「最近、鬼の異形を狙う殺しが流行ってるらしいんだ」


「え…?」


「巷じゃ、“鬼狩り“って呼ばれてるんだと。鬼族じゃなくても、角の様なものが生えた小柄な異形がこの所、行方不明になってる。主に三区の異形街での出来事らしいけど、二区で起きてても不思議じゃない」


「…犯人に心当たりは?」


「さあね。ただの噂だもの。ただ、あんたんとこのボスは、何か勘付いてんじゃない?」


「ボスが?どうしてそう思うんですか?」


お世辞にも頭が良さそうには見えないし、調子のいい事ばかり言って、いつも都合よく行動する男、それがボスだ。そんな彼がそんな重大そうな事件の後を追う様な度胸も力量も、兼ね備えているようには思えなかった。だが、フィオの見解は違うらしい。


「だって、おかしいでしょ」


セイタはごくりと唾を飲み込んだ。


「どうして今、角が折れるのよ。それに、あんたの誕生日を待って養子縁組をさせたのも何か変だし、最近は掃除屋の仕事はあんたに任せて、どっかに行ってるらしいじゃない。駅でよく見かけるらしいわよ、あいつ」


「…んー、確かに最近出張だとか言って2、3日事務所にいない事はザラだけど」


「セイタ。あいつ、悪い奴じゃ無いけど、自分に都合の悪い事はとことん隠すタイプだからね。気をつけな」


「…うん」


否定できなかった。





「はぁ…」


帰り道、セイタは盛大なため息をついた。


「何だ、セイタ。フィオの話、気にしてんのか?」


フィオの所にいる間、ブラシはずっと黙って聞いていたのだ。思えば、ブラシは元はボスのもの。気を悪くしてるんじゃ無いかと思って、微妙な気持ちになった。


「フィオ姉ぇの話、少し酷いとおもったんだけど、ボスって確かにそうだなって思って…」


「…まあ、全部本当のことだからな。角の件に関しては、本当にただの偶然だと思うが。あいつ、マジでビビってたし」


「…だよなぁ」


「…セイタ、ツノなくてさみしいの?」


何を心配してか、メグルが不安げにこちらを見上げてくる。こうしてみると、もう本当にただの子供だ。


「いや、お前が平気なら、それで良いんだ」


セイタはメグルの頭を撫でた。メグルは嬉しそうにキャッキャと笑う。


「メグル、へーきだよ。ツノはおもいから、すきじゃないの」


「そうだったのか」


「うん。かかさまのなかで、おしえてもらった。ツノはのろいでおもくなるって」


「…かかさま?」


「うん」


メグルの口から始めて出た言葉に、セイタとブラシは顔を見合わせる。


「かかさまは、せん、ってよばれてた。のろいがきかないんだって。セイタみたいだった」


呪いが効かない、“せん”。この地下に住まう者で、その存在を知らぬ者など居ない。


「おい、そりゃ…とんでもない話じゃねぇか?」


ブラシが動揺する。セイタは黙って話を聞いていたが、その心臓はドクドクと強く鼓動を打っていた。


「かかさまは、めぐるをうみたくなかったの。だから、めぐるはずっととじこめられてた」


「…メグル」


「なーに?」


セイタはしゃがみ込み、彼女の両肩を掴む。そして、静かに伝えた。


「その話はもういい。内緒にしておけ」


「…わかった」


それからセイタはメグルを抱き抱え、メグルはギュッとセイタに抱きつき寄りかかる。暖かな温度に満足している様だった。


「……セイタ、メグルって」


ブラシが尋ねた。もう、勘づいているのだろう。


「ああ、たぶん仙人の子だ」


「でも…仙人って子を埋めないんじゃ…」


「一般的にはそう思われてるだけだ。特に仙女は子を宿せば、色々と不都合が多いから…」


暗く響くセイタの声。


「セイタ、おこってるの?」


メグルが不安げに尋ねてきた。


「…ああ」


「どうして?」


「……アイツらは俺と、俺の母親を捨てたんだ」


ぎゅっとメグルを強く抱きしめる。


「セイタ?」


「ギャアアアアア!!」


その時、街門から悲鳴が上がった。ハッとするセイタ達。


「…鬼狩りだ!」


誰かがそんな事を言った。


「何だ…違うなぁ。呪いの味がしねぇ」


異形から刈り取ったのだろうか。青い血がべっとりとついた角をしゃぶりながら、虎の面を付けた異形がのそのそと、家屋から出てきた。


「セイタ…メグルを抱えてちゃ分が悪い。逃げろ!」


ブラシが言う。


「ああ」


ここにいてはまずい。セイタは走り出した。


「お?」


だがそれが良くなかったらしい。やたらと素早く逃げる奴がいる。それに気がついた虎の面はスンスンと鼻をひくつかせた。


「…何だ何だ?人の匂いに混じって、何か妙なもんが側にくっ付いてんなぁ」


虎の面は地面を力強く蹴った。そうすると、あっという間に見えてくる。17,8そこらの青年と、それに抱えられてる金髪の子供だ。


「げっ!追われてるぞ、セイタ!!」


「…セイタ?」


虎の面はまた地面を強く一つ蹴る。するとあっという間に青年を追い越し、彼らの前に立ちはだかった。滑り込んだ反動で辺りに砂埃が辺りに舞う。「げっ!掃除屋だ!」と言う声と共に、近くにいたらしい異形たちが慌ててその場から逃げ出す足音がしていた。


「掃除屋……何か随分と恐れられてるね」


虎の面は世間話でもしに来たのか。周りの様子を確認しながら、随分と気安く話しかけてくる。


「……なんか用か?」


「いや?…あの現場からもの凄い勢いで逃げる気配があったから、ひょっとして俺の探してるヤツだったかと思って」


「探してる?何をさ?」


セイタはメグルを脇に抱えると、ブラシをカンッと蹴り上げ、構え直した。


「角の生えた子供さ。とある事情で居なくなっちゃったみたいで。皆、死んだって思ってるんだけどさ、上司は“生きてる”って言うんだ。だから、俺らみたいな下っ端が駆り出されてるの」


「……」


メグルを探している?セイタはゴクリと唾を飲み込んだ。


「ねぇ、君、なんか知ってんじゃない?」


「…しらねぇよ」


「ほんと?残念だなぁ…。あ、そうそう。じゃあさ、これは?噂で聞いたんだけど、ここいらで、すっごく強い女の子が居るって」


「女の子?」


「そう、女の子。金髪で、角が生えてる、やたら見目の整った、人みたいな女の子」


気付いたら、虎の面の声はセイタの直ぐ背後にあった。


「なっ!」


セイタは慌てて、身体を捩り、男から距離を取る。今の動きは何だったのだろう。只者じゃない。こめかみに一筋の汗が流れた。


「“人間の掃除屋”が連れ回してるって。喋るデッキブラシを持った、一風変わった青年だって、皆が教えてくれたよ」


「っ…」


「君の事でしょ?」


「っ!!」


セイタはデッキブラシを虎の面に向かって更に突きつけた。


「こいつに角はないっ!人違いだ!!」


「……折れたの?」


「なっ……そんなわけないだろ!」


苦しい嘘だった。メグルは額に包帯を巻いている。勘付かない方がおかしい。すると、虎の面はふっとため息をつく。


「ま、いいや。その子を連れて帰れば分かることだしね」


「セイタ!!」


「うわっ!」


次の瞬間、セイタは尻餅をついて、転んでしまっていた。ブラシがセイタの脚を蹴り上げたのだ。何をするんだと文句の一つでも言いたくなったが、気がつくと、また背後に虎の面が立っている。何故か彼は驚いていた。


「ありゃ。反応できるんだ。凄いね、そのブラシ」


「……っ!」


今の動き、全く見えなかった。何かされたのだとは思うが、何が起きたのかがまるで分からなかった。勝てないのは明白だ。セイタは咄嗟に立ち上がり、その場から逃げ出した。


「逃げても無駄だよ」


その言葉の通り、逃げ出した先でまた虎の面が目の前に現れる。今度は反応する前に強く殴られて、セイタは数軒先の屋根まで吹っ飛んだ。


「セイター!!!」


「おっとっと。君はこっち」


セイタの腕から離れ、宙に飛ばされたメグルを捕まえたのは虎の面。彼は砂埃の舞うボロボロの建物を見下ろして、ケタケタ笑っていた。メグルはそんな彼を睨みつけた。


「はなせ」


「それは無理かなぁ」


「はなせ!」


金の髪が一瞬逆立ち、目が光った。


「っ…おー、こわっ」


…そんな気がした。一瞬少女から感じたピリピリとした空気。何かと思えば、虎の面は自分の手が痺れていることに気がついた。


「何だ。やっぱり君か。……んー、でも、天仙様が探してたって割に、力はそこまで強くないね」


「むむ…はなしてー!!」


この男には何故か力が効かない。そう分かると、メグルはポカポカと虎の面を殴り始めた。


「セイターーー!!」


「いてっ。いたっ、痛いなぁ。あ、そうか。この子の前だと俺もただの人になるのか」


「セイターー!!」


遠くの方からメグルの叫び声が聞こえる。頭が痛い。霞かけていた視界が、再び鮮明になり始めた。


「くっ…」


「大丈夫か、セイタ」


いったいどれだけ飛ばされたのだろう。身体中が痛い。無理やり体を起こせば、瓦礫がガチャガチャと硬く鋭い雑音を立てる。セイタはブラシを支えに、やっと起き上がった。


「ああ…くっそ!」


血を乱暴に拭い、セイタは駆け出した。勢いをつけ、脆くなった壁目掛けて飛び蹴りをかますと、建物の横に大きな穴が空いた。


「セ、セイタ!?」


「チッ。ちょっとキレた」


外に出たセイタは高く飛び上がり、壁を蹴って、再び屋根の上に登る。少し離れた所に、抵抗するメグルと虎の面がいた。セイタの姿を捉えた奴の口元が、ニヤリと弧を描くのが分かる。


「タフだねぇ、人のくせに」


「セイタ!わっ!」


メグルを抱えて、虎の面は高く飛び上がった。メグルはぐわんっと身体が持ち上がる感覚に恐怖を覚え、一瞬目を瞑ったのだが、気がつけば足元には、無数の灯りがともる大きな街が広がっていた。セイタの姿が先ほどよりも遠くに見える。虎の面の力なのか、メグルたちは宙に浮いていた。


「ここまでおいでよ、掃除屋さん」


「チッ」


「ムカつくな、アイツ!!あ、おい、セイタ?セイタぁ!?」


浮遊する彼らを見て、何を思ったのか。セイタが大きく振りかぶる。焦るブラシの事なんてお構なし。コイツの針なら、アイツを地上に引き摺り下ろせる筈だ。セイタはそう確信していた。


「ちょっ、セイタああああ!!!」


槍投げならぬ、デッキブラシ投げ。風を切って虎の面まで飛んでゆく。だが、デッキブラシはデッキの分だけ風の抵抗も大きい。高くなる毎に勢いを失い、惜しくもあと一歩、男の足元まで届かず。


残念だったね。


そんな風に虎の面が嘲笑った、その時だった。


「針伸ばせ!!」


「は?」


高度を失う直前、ブラシは毛束を尖らせた。それは、虎の面が履いていた草履を僅かに引っ掻いた。


「ああ、ブラシぃ!」


メグルの切なそうな顔。彼女は落ちてゆくブラシに手を伸ばそうとする。


そんな短い腕じゃ、届かねぇよ


そんな風に思ったブラシだったが、何故か、メグルとの距離が近くなっていた。


「あれ?」


虎の面も一緒になって落ちているではないか。


(え、あの一撃で?)


本当にちょっと掠っただけなのだ。ブラシは落ちながら拍子抜けしていた。


「やばっ!!」


「ブラシぃ!!」


自らも落ちながら、メグルがパシッと、ブラシの柄を掴みとる。そして、メグルは虎の面のもう片方の草履めがけて、ブラシを突き立てた。


「あ、こらっ—」


「えいっ!」


「いったああっ!!」


メグル達が落ちてくる。その下には、セイタが待ち構えていた。


「セイタ!」


メグルがその名を叫んだ瞬間、メグルの手元にあったブラシが男を突き飛ばし、メグルは反動を利用して、ブラシ共々そのままセイタの胸へとダイブした。


「っ!!」


「セイタ!!」


「ああ、大丈夫か?」


「うん」


メグルはセイタの元に戻ってこられたのが、余程嬉しかったのか、とびっきりの笑顔を見せた。


「……」


「何だ、セイタ。顔赤くなってるぞ」


「いや、これは…。だって心配するだろ」


「…まあな。にしても良く分かったな。草履を傷つければ良いって」


「ああ、それは—」


ブラシがセイタ達に尋ねてきた束の間、穴の空いた瓦礫から、色んな音を立てて、虎の面が這い上がってきた。


「くっそ…やりやがって。人のくせに」


「…お前」


虎の面が割れている。そこから覗く、人の顔。


「…耐性持ちか?」


ブラシが聞くと、セイタが「違うな」と返す。


「元仙人じゃないか?“天下り”だろ。たぶん」


天下り。その言葉に対してか、男がセイタを睨みつけてきた。奴は仙の力を使おうとしているのか、風が辺りに舞ったが、特に何か起こるわけでも無かった。


「…神通力は、もう殆ど使えないみたいだな」


「うるさいっ!!」


男が腕を振り上げた。その瞬間、鋭い突風が吹き荒れる。咄嗟にメグルを庇うと、彼らのいる屋根に斬撃の跡が付いた。


「なっ!」


着物が破れ、男の腕が覗く。まるで獣の皮を纏ったようなその腕には、大きな鎌が付いていた。


「…仙人も呪いにかかるんだな」


「いや、もう、仙じゃない」


セイタは言った。もうあの脚の早技は使えない。ブラシを掴み直し、そのまま男の元へ距離を詰める。斬撃が何回か掠ったが、こちらの間合いに入ってしまえば早かった。


「うわっ!!」


めいっぱいの勢いを付けてセイタは男にのし掛かり、男の首元と両腕をブラシの柄で押さえ込んだ。


「ぐっ…放せ!!」


「さっきは良くもやってくれたな。メグルに何の用だ」


「へっ…お前に話す義理なんか…ぐっ…わ、…がっ」


デッキブラシの柄が男の首元に強く食い込んで行く。細いのに、案外力の強い青年だ。このままでは、窒息してしまう。男は息も絶え絶えに、言った。


「わわわ、分かった。話す、話すから…。はぁ…。天仙様が探してるんだよ」


「天仙が…目的は?」


「そこまでは知らねぇでででででっ!!!って…って、ほんと、うに、しらねぇよ」


緩んだと思えば、また首が締まる。油断も隙も無いとはこの事か。掃除屋の青年の目は冷たく男を見下ろしていた。


「なら、お前は何故、天仙の為に働く?」


「…俺は、もう一度八区に戻りたいだけだ。やっと、仙の試験に合格したってのに、夢にまで見た仕事はクソばっかで…気付いたらこの腕になってた」


男の右手は以前からのものだったらしい。赤毛の獣。伸びた爪。そして鎌のように鋭く伸びる肘。異形そのものだ。


「“天下り”が八区に戻る方法は無いはずだが」


セイタが言うと、男はフッと鼻で笑った。


「…天仙様が“それ”を見つけた者には、褒美を下さると。だから、そのガキを差し出そうとっでててててててって、分かった、分かったよ!!悪かったって!!」


また、首が締まる。本当に容赦がない。その姿は人間というよりは、鬼の所業。噂に聞く、二区にいる人間の掃除屋。鬼神の如く、夜の街を駆け巡る。正に彼のことだと、男は思った。


「……ふっ」


「何笑ってる」


「いや、ちょっとした噂を思い出しただけだよ」


セイタは、ピクッと肩を震わせる。なぜ、男はそんな目で、セイタを見るのだろう。まるで何かを見透かしたような、悟ったような、そんな目だ。そして、掠れた声で男は聞いてきた。


「……お前、久米様の隠し子か?」


「……知らねぇよ。父親の名なんか」


「いや、よく似ている。その目——」


「黙れ」


「……っ。こりゃ、驚いた」


セイタが怒鳴ると、男は一瞬、目を丸くした。腹の立つ顔だった。驚いた所で何かあるわけではあるまい。互いが互いを捨てた関係なのだ。赤の他人で、ましてやこの男にこそ関係のない。そんなセイタの怒りを察してか、今度は何故か男はフッと諦めた様に笑った。


「ああ。納得だ。こんな場所で、呪いが進行しないわけがない」


「…は?何を—っ!!」


ふと男の腕が赤くなっていることに気がついた。鬱血でもしたのかと思ったが、違う。彼の身体がどんどん赤毛に包まれ、異形の姿に変化し始めていた。何故こんな急激に異形化か進んでいるのだろう。赤毛が彼の身体を覆っていく光景に、セイタは目を見張った。


「俺も、お前ほどの才能が有れば…。何故、お前の様な、人の子が…」


その目には涙が浮かんでいる。男は震える声で続けた。


「ああ、嫉妬とは醜い。仙になる時、そんなものは捨て置いたはずなのに……」


逞しい大きな獣の手と人の手が、ブラシの柄を掴む。


「なぁ、頼む。私を人のまま、逝かせてくれ」


「…は?」


「頼む…」


「……っ」


その時、セイタは突然、背後に複数の気配を感じ取った。ハッとして振り返ると、街の異形達が数人、集まっていた。皆、騒ぎの間中、近くに隠れていたらしい。


「掃除屋、介錯は始めてか?」


「……うん」


「なら、どけ」


布を深く被った異形が言った。


「でも…」


「敬意を払え、掃除屋。介錯の邪魔は何人たりとも許されない。人も、異形も、それが仙人であろうともな」


「……」


セイタは跨っていた男から退いた。すると、異形達が彼に肩を貸す。


「お前の哀しみ、俺にも伝わったよ…」


異形の1人がそんな言葉を掛ければ、もう半分以上、獣になった男は遂に泣き出した。


「う、ううう…」


「……」





男は結局、異形達に連れて行かれてしまった。

メグルは黙ってセイタの手を握り、精一杯、彼の歩幅に合わせてついていく。セイタは抜け殻の様に、ぼーっと街を歩いていた。


「…まさか、あの状況で介錯を頼まれるとはな」


ブラシが言った。


「かいしゃく…?」


メグルが首を傾げる。ブラシは困った。果たして、なんと説明すれば良いものか。


「うーん、まあ、誇りを守るって事だな」


「ほこり…?ブラシがいつもそうじしてるやつ?」


「…違うけど。まあ、今はそれで良いよ。何れお前さんも分かる」


「ふーん」


「…何が誇りだよ」


すると、それまでずっと黙っていたセイタは、そう冷たく吐き捨てるように言った。


「アイツら、介錯だとか、お前の悲しみは伝わったとか、都合の良い御託を並べて、結局殺したら、アイツの残った人間の部位を回収屋に回すだけだろう」


「…セイタ。アイツの身元は割れてる。“介錯“がある時の遺体は、丁重に遺族の元に返される筈だ」


ブラシがそう言うと、セイタは怒気を強めた。


「あいつは“天下り”だ!!八区には戻れない!!例え、死体であってもだ!!」


「……そうか」


セイタの声が、ビリビリと痺れるほど強くブラシに響く。ブラシは失念していた。恐らく、セイタの言ってる事は正しい。あの場で介錯を申し出た連中は、少なくとも法と掟を重んじている。でも、回収屋にはそんなのは関係ない。ましてや、遺体が八区に輸送されないと分かれば、後は好きなようにするだけだろう。


「くっそ…気分が悪い」


セイタが道端の石ころを思いっきり蹴飛ばすと、隣のメグルがビクッと肩をすくめた。


「……」


手から震えが伝わってくる。


「……怖いか?」


「…うん。メグル、おこったセイタ、すきじゃない」


それでも、メグルはその小さな手でギュッと強くセイタの手を握る。


「……そうか。ごめんな」


セイタはそう返したが、正直、もう何もかもが嫌だった。メグルにまで、こんな顔をさせてしまうなんて。自分が嫌いになりそうだ。


「あのひと、わるいひと、なんだよね?」


メグルが言う“あの人“とは、虎の面をつけたアイツの事だろうか。


「あまくだり、わるいひと。ってかかさま、いってた」


「…どうだろうな」


仙の世界の話はまた、別だ。人の法も、異形の掟も、常識も、全てが当てはまらない。ましてやセイタの基準では、彼らの善悪を図ることなど、到底無理だ。


(天下りが悪い人…か)


昔、セイタも同じような価値観を持っていた。勝手に産み落とされただけなのに、仙の禁忌だと言われ、母は死に、逃げ切ったは良いものの、結局セイタは二区に捨て置かれた。


(今思うと、あの日ほど、自分の生まれを呪った事はないな…)


グッと胸が重くなる。締め付けられる様な、この苦しさは何だろう。


—久米様の隠し子か?


先刻の男の言葉が、脳裏をよぎる。


「…セイタ?」


息が荒い。ブラシがセイタの異変を察して、呼びかけた。


「どうしたんだよ!?」


「セイタ…?」


メグルの小さな手が、セイタの肩に触れる。思えば、この子も似た様な境遇だった。セイタは息も絶え絶えに、彼女に強く言った。


「……メグル。お前は絶対に自分を呪うな」


「お、おい。セイタ!!それ…」


セイタの指先から黒いモヤが溢れ出す。


「…ああ、呪いってこう言う事なんだな。ははっ」


セイタは意外にも、異形化をすんなり受け入れられている自分に驚いていた。この感情は何だろう。抑圧されていた思いが、やっと解き放たれたような。こんなに悍ましいのに、どうしてか嫌悪感はない。寧ろ心地よささえあった。あっという間に、指の形が変形する。血管が浮き上がり、筋肉が発達し始めた。


「おい、セイタ。気持ちを沈めろ!!今ならまだ間に合う!!」


「セ、イタ?」


セイタの右腕が、ブクブクと膨れ上がり、関節がいくつも生まれ、巨大化していく。セイタの右目の周りは血管が盛り上がり、瞳は赤く染まり始めた。


「メグル。悪い」


「…っだめだよ!!セイタ!!」


メグルがセイタを強く抱きしめた。





暖かい。

こんな穏やか気持ちはいつぶりだろうか。


(……あれ?何で俺)


泣き声が聞こえる。メグルの泣き声だ。気がつくと、自分の胸元で彼女がワンワン泣き喚いていた。


「…メグル?どうした?」


「あっ、ああああ、セイタああ!!セイタの、ばかあああ!!」


セイタが目を覚ますなり、メグルは更に泣き喚く。彼女の角が顎に当たって地味に痛かったし、服はメグルの鼻水と涙でビチャビチャだ。こんなになってどうしたのだろう。


「…あれ、角?」


「…セイタ。大丈夫か?」


ブラシが尋ねてきた。何だか怯えている様だった。


「ブラシ、何があったんだ?」


「覚えてないのか?」


「…いや。何か、帰り道に、感情がぶわーっとつい大きくなって、目の前が真っ赤になったことまでは覚えてるんだけど」


それ以降の記憶はない。自分が倒れてる理由も、メグルが泣いている理由も検討がつかない。すると、ブラシは神妙な声で教えてくれた。


「…呪いが発動したんだ。右手から肩ぐらいまでかけて一気に異形化が進行した。服見りゃ分かるだろ」


「……はっ。何だこれ」


指摘されてやっと気がついた。右腕の部分、服がブチブチに破れている。どうやったらこんな事になるのだろう。ふと、先刻の記憶が少しだけ、脳裏に蘇った気がした。


(俺、そうだ。子供の頃の事を…)


何だか笑いが溢れた。


「ふっ。はははっ。なーにが、耐性持ちだよ。しっかり呪いに掛かりやがって…」


「セイタ…」


「……悪かった」


セイタは目元を覆った。感情が湧き上がる感覚が思い出される。あんなに悍ましいものだったのに、それを心地よいとさえ思う自分がいた。


(あんな簡単に呑まれるなんて…)


そんな自分に、セイタは嫌悪感を覚えた。すると、ブラシがまた声をかけてきた。


「セイタ。お前さんを救ったのはメグルだ。どうやったのか分からないが、多分こいつの能力だ」


「……能力?」


「お前さんが異形化し始めて直ぐに、メグルが何かやったんだよ。そしたら、お前さんの体はまた元に戻って、代わりに新しい角が生えた」


「新しい…?そういやなんか、この角、前のよりゴツくなってないか?」


腹の上で泣きじゃくるメグルの角をみると、前より太く、大胆に縦にも横にも大きく伸びている。気が動転して、こんな大きな変化にも気がついていなかったらしい。

鹿の角というよりは、今生えてる角は、どっちかというと羊とか、ヤギのそっちに近いだろうか。


「セイタののろい、、、おもい」


グズりながら、メグルが何か言った。


「……もしかして、その角。俺の呪い、なのか」


メグルは「うん」と頷いた。角がまたセイタの頬に突き刺さる。地味に痛いのだ。お陰で夢でない事はハッキリしたが。


「どうする?」


「どうするったって…」


状況を整理するに、兎に角、メグルはセイタの異形化を止めたらしい。それどころか、セイタの呪いを吸い取り(?)、それはメグルの角となった。

セイタは試しに右手を開いたり、閉じたりしてみる。異常は見られない。普通の、いつもの自分の手だ。


「…本当に俺の呪いを肩代わりしてくれたんだな」


内心、セイタはもの凄く驚いていた。これは奇跡といってもいい。メグルのこの力は、捉えようによっては異形たちを救う事が出来るかもしれない。あるいは人々が長年苦しんできた“呪い”の原因を突き止めるヒントになり得るやも。でも、それは同時に危険な事でもある。


「…天仙が欲しがりそうな力だ」


おそらく、いや、十中八九、メグルは元は天仙の物になる筈だったのだ。じゃなきゃ、三区のあの寂れた場所に、あんな複雑な呪い避けを身に纏った連中がやって来るわけが無い。ちょっと考えれば分かる事なのに、あの時、セイタは安易にボスの提案を受け入れ、彼女をここへ連れ帰ってしまったのだ。


「…セイタ、私欲に溺れるな。悲しむのはメグルだぞ」


「分かってるよ」


ボスが最初からメグルに利用価値を見出していたかどうかは分からない。でも、何かしらの可能性は疑っていたはずだ。だから、彼はうちで保護すると言い出したのだ。実際、そうしなければ、メグルは三区や二区で捨てられて死ぬか、はたまた天仙の元でこき使われて一生を終えるだけ。哀れな少女だと思った。


(メグルの母親が、コイツを産みたくなかった理由も分かる気がする…)


そんな事を言ったら、メグルは傷つくのだろう。彼女が生まれ持って背負う業は、その小さな身体には大きく重すぎる。


「………ボスと話し合う必要があるな」


「ああ」





天幕が掛けられたその部屋は、高貴な気に満ち満ちている。八区。そこは神格と貴族、それらに仕える者たちのみが生活する、誇り高き最下層。そこにある神殿の最奥には、まつりごとを司る天仙が居座っていた。


「天仙様、ご報告いたします。二区で、強力な霊光が観測されました」


「…二区で?どういう事だ?例の“たまご”が見つかったのか?」


「恐らくは。三区では長らく消息不明とされていたのですが、どうやら二区に居るのではないかと」


「調査班は?」


「既に手配済みです。しかし、二区は異形自治区ですので、なかなか有力な情報は得られず…。現在、秘密裏に調査を進めている段階です」


「…そうか。相変わらず、我々への風当たりは強いのだな」


異形達、特に二区の住民は、その下層部に住む人間達を毛嫌いしており、その中でも、地下都市で最高権力を持つ八区は、特に目の敵にされていると言っても過言ではない。長らく続く異形差別意識のせいで、蟠りが未だに解けないのが主な理由だ。


「はい。異形社会では治外法権があってない様なものですので、下手に我々が動いても人の犠牲が増えるだけかと…。正直、かなり気を遣って動いております」


「全く、野蛮な連中め。呪いのせいで不死身と勘違いしているのだな。愚かな」


「おっしゃる通りで…」


「ふむ。…時に、最近女仙が1人、最年少で試験に合格したらしいな?筆記は最低だが、実技は満点だったとか…」


「へっ…ご存じだったのですか?」


天仙は笑った。


「話を聞く限り、どうせその者には事務仕事など出来ないのだろう?この時期は、皆天網の綻び直しで忙しい。其奴に“留学”という名目で行かせてみよ」


「て、天仙様、それはちょっと…あまりに無謀と言いますか…」


「なぜだ?実技が申し分無いのであれば、きっと呪いの耐性も高かろう。これ程の適性者はいないと思うが…」


「ですが、アレは少々、精神的に幼いと申しますか—」


「ならばお前が行くか?」


天仙の鋭い目の光が、彼の姿を捉える。睨まれただけで、この唯ならぬ圧迫感。神通力の差をこれだけで思い知らされた。


「…彼女に遣いを出します」


「…うむ。では、よしなに」


天仙はふっと天幕の影に消えていった。





「やっほー、皆、たっだいまあーって…あれ?どうしたの?」


ボスが事務所に帰って来るなり、随分と重たい雰囲気だ。てっきりセイタ達は気分転換しにフィオの所に出かけて行ったのだと思ったのだが、このお通夜みたいな空気。会社のボスを出迎える態度ではない。


「どこ行ってたんですか?」


とセイタ。何だか機嫌が悪そうだ。服の右腕部分がぶちぶちに破られてるし、フィオの所のいちまると喧嘩でもして、負けたのだろうか。かわいそうに。

と思ったボスは、敢えて何も聞かないことにした。


「どこって、ちょっと買い物にー…ってセイタ。メグルちゃんのその角、どうしたの?」


百歩譲って、ブチブチの穴だらけの服はファッションとして受け入れられるかも知れないけど、その厳つい角は、流石のボスでも、無視は出来なかった。


「はぁ…」


深いため息がセイタとブラシから漏れる。


「本当ボスって、いつも通常運転ですよね」


「そりゃーね。それが私の取り柄でもあるから。どんな時でも自分を見失わない事!それが穏やかな異形の心得。さー!“ソフィアお婆ちゃんのクッキー”でも食べよ!今日セールだったの」


「……そうですね。俺、茶でも入れます」


セイタは立ち上がった。そして、手際よくお湯の準備を始める。いつもなら、積極的にお茶菓子を楽しもうとしない彼なのだが、今日はどうしたのだろう。慣れない彼の優しさに、ボスは吃って言葉を紡げずにいた。


「何してんですか?ボス。座ったら?」


「ええ!?いや、あの…セイタ、どうしたの?いつもより、その、なんか素直だけど」


「……」


セイタはガスの火をつけた。


「ボス。メグルの事、ちゃんと話し合いましょう」


「……」


「こんな生ぬるいやり方で保護してたら、天仙にいつか足をすくわれますよ」


「…そうねぇ」


ボスは長い指を顎に当てる。何だか色々気付いちゃったらしい。


(まあ、それもそうか…。いつまでも子供ではいられないものね)


ボスは肩を落とす。


「セイタ、今夜は一緒に仕事に行こうか」


「え?」


そして、妙な提案をしてきた。


「メグルちゃんに聞かせるのもね。それより、今はお茶を楽しみましょうよ。ね?」


「…ちゃんと、腹割って話してくれるんですよね」


「もちろん」


ボスのその返事は、どう言うわけか少し喜んでいるように聞こえた。何も楽しい事など無いのに、どうしてボスはこうも明るくしていられるのだろう。セイタの胸のモヤモヤは一層色が濃くなった。

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