第2話 新しい家族
「…おい、人間のガキなんてどうするんだよ」
異形達が何やら揉めている。気がつくと、ボスの背中がいつもより高い位置にあった。
「見たところ耐性持ちみたいだし、私が預かるんじゃダメ?」
「そりゃ、ダメって事はねぇけどよぉ」
異形の連中はボスを前に随分と困った様子だった。でも、ボスはそんなのはお構い無し。いつもの調子で、嬉しそうに両手をパンッと気持ち良く合わせる。
「なら、決まり」
「良いのか?そんなに簡単に決めちまって」
「どのみち
雑面が一瞬、風に吹かれると、少しだけ彼の瞳が見えた気がした。
(…あれ、泣いてる?)
嬉しそうだったのに。どうして、彼は泣いているのだろう。ぼんやりと首を傾げるセイタに向かって、ボスは言った。
「君、うちで働かないかい?」
—ジリリリリリリリッ
耳に突然鳴り響く音。慌ててソファーから身体を起こすと、事務所の黒電話が鳴っている。傍らには少女が眠っていた。まだ夢の中のようだが、この不快な音に苛立っているのは表情を見れば分かった。
「…夢か」
昔の夢を見るなんて、らしくない。あれは、ボスと初めて会った日の光景だ。実際はボスの雑面の下の顔なんて見た事無いが、こんな夢を見るのも、全部この傍らで眠る子供のせい。
「…はあ」
セイタは深いため息をつき、ソファから起き上がると、電話を取った。
『ああ、宮守セイタさんですか?』
「はい、そうですが」
『養子縁組の件ですが、宮守さんは現在、未成年でありますので、残念ながら申請が受理されなかったのですが、如何します?』
「は?」
*
「何だー、ダメだったの?」
ボスはボリボリと煎餅を齧りながら、呑気にお茶を飲んでいた。
「俺は17だから、まだ保護観察対象なんだと。それがこの子の保護者になるのは難しいって。こいつだけ戸籍の登録する事は出来るけど、なんせ名前もまだ決まってないし…」
「…そうねぇ。ところでセイタ、誕生日いつだっけ?」
「……来週ですけど」
知ってて聞いてく奴があるかと思った。
「なら、来週まで養子縁組の申請は待とうか」
イケると思ったんだけどナーっという顔が雑面から透けて見えている様で、セイタはさらに腹が立った。ボスが養子縁組の手続きの決まりを知らない訳がないのだ。なんせ彼は一回経験済みなのだから。
「…良いですけど、ボスが保護者になれば良いじゃないですか。その方がこの子の手続きとかスムーズでしょ。役所にも顔が効くわけだし」
「ヤーだね。言ったでしょ。私、子守は苦手なの。ガキは君だけで充分」
「むっ。そんな言い方しなくても…」
「こらこら、拗ねるな、セイタ。君を引き取った事は米の粒ほども後悔してないけど、反抗期真っ只中の君を更生させるのは、本当に骨が折れたんだから」
すると、キキキッと立て掛けてあったデッキブラシが笑い始めた。
「そりゃー、そうだな。なんせ、こっち来たばかりの時は俺の毛束よりもツンッツンに尖ってたもんな!」
この言われよう。セイタはそこまで言わなくても良いではないかと、眉を顰めた。なんせ二区に来たばかりの頃は、周りの全てが敵だと思ってたのだ。そりゃ尖りもする。
「し、仕方ないだろ!二区の連中、俺を見るなり襲いかかってくるし、どっか連れて行こうとするし!!」
「なら、君も良く分かるだろう。この子は異形だけど、見た目はかなり人に近い。“持ち主が居ない“って分かれば、殺されて回収屋に売り飛ばされて終わりさ。つまり養子縁組は必須。この子の親になるんだ、セイタ」
「…チッ」
だから、それをボスがやれば良いじゃないか、と言う話をしている訳だが、ボスは断固としてそれを譲らない。こう言う時は、テコでも動かないのだ。セイタは諦めてため息をついた。
「分かったよ…」
「よろしい。じゃ、君の誕生日まで時間はある訳だし、名前でも決めましょうかね、キラキラちゃん」
「は?」
今、とんでも無い呼び名を聞いた気がした。机の上にあった文房具を積み上げて遊んでいた少女は、コテッと首を傾げる。
「ボス、今なんて…」
恐る恐るセイタが尋ねると、ボスは嬉々として答えてくれた。
「キラキラちゃん!取り敢えずの呼び名だよ。髪の毛がキラキラしてて綺麗だから」
「……ちょっと待て」
頭が痛い。流石に冗談だと思いたかった。すると、デッキブラシは低い声で教えてくれた。
「おい、セイタ。こいつにセンスは期待するな。俺も昔、出会ったばかりの頃、とんでも無い名前をつけられそうになった」
「どんな…?」
「あー!ちょっとブラシ!とんでも無いって事はないでしょ!」
ボスが茶々を入れる。やっぱり、“キラキラちゃん”はふざけてやってる訳では無かったらしい。すると、ブラシがボソリと呟いた。
「…チャブラシ」
「は?…っはっはっは、チャ、チャブラシ?」
乾いた笑いが漏れた。ジワジワと効いてくる。茶色のデッキ部分。ブラシ。歯ブラシと掛けていたのか。すると、ボスがまたブイブイ主張する。
「良いじゃない!歯ブラシみたいで」
やっぱりそうだった。
「は、はははははは!!」
セイタは腹を抱えて大笑い。センスが無さすぎて逆に面白い。いや、待て。冷静に考えてみれば、笑っている場合じゃ無い。これで事実がはっきりした。
「ボス、あんたは名前付けちゃダメ」
「えーどうしてさ!私、色々考えてたのに!鹿りん、とか、こんぺいとう、クッキー、ツノ丸とか、他にも沢山—」
「あああ、もう良い、分かった。やめてくれ!」
「くっきー?」
ふと、少女がボスの元に駆け寄る。期待に満ちた眼差し。ボスが都合よく解釈しない訳が無かった。
「おや、気に入ったかい?じゃあ、君は今日からクッki—」
「ああああ、コラコラコラコラ!!お菓子に釣られて来ただけだから!!ほら、甘いものならあんこ餅やるから、こっちおいで」
「…あんこ」
少女はそう呟いてプイッと顔を背ける。ボスはその様子にニヒヒッと笑った。
「“あんこ“は嫌みたいだね。やっぱりクッキーかな?」
「くっきー?」
少女はまた目をキラキラさせる。
「ちょっと!お菓子の話だろ!断じて名前じゃないからな!この子にはまともな名前をつけるんだ!」
必死に名前の定着を阻止しようとするセイタだが、2人はニコニコと笑っている。このままじゃ、いかん!
すると、デッキブラシがやれやれと助け舟を出してくれた。
「しっかたねぇな。ここは俺が一肌脱いでやるか」
「ブラシ!」
やっぱり頼れるのはいつもの相棒だ。セイタは期待の眼差しで彼を見た。
「そうだな、嬢ちゃんは繭から生まれたからな。カイコは?」
「………お前も大概だな」
「何だよ!クッキーよりはマシだろ」
「そうか。そういや初めて会った時、ブラシって呼べって言ってたけど、他にいい名前が無かったから、ああ言ってたのか」
「何だよ、今更だろ、それは!!じゃあ、セイタ、お前さんには何か良い案があるのかよ」
そう聞かれ、セイタは改めて彼女の名前について思いを巡らせた。考えなかった訳じゃない。ただ、どれもしっくりこないのだ。
「…俺も似たようなもんだけど、繭から生まれたから、そのまま繭ってのは一瞬思った。でも、虫の名前つけたく無かったんだよな」
「何だ、お前さんも大概だな」
「悪かったな」
すると、またボスが茶々をいれる。
「だから、クッキーちゃんで良いじゃないか」
「「それだけは無理」」
セイタとブラシは同時に否定する。すると、ボスも流石にバツが悪かったらしい。少しばかり拗ねていた。
「何さ、二人して。名前なんて適当なぐらいがちょうど良いだろ。親の願いを込めたところで、この子の人生はこの子のものなんだからさ」
「でも流石にクッキーはないだろ。絶対虐められる」
「ああ、間違いないな」
「なっ!」
セイタはブラシの意見に完全同意だ。プクッと頬を膨らませるボスと、訳が分からず首を傾げる少女。
「良いもん!この子がクッキーだと思って、頷いてくれれば、もうそれは名前だもの」
なんて、ボスはとんでも無い事を言い出した。
「くっきー?」
「そう、クッキーだよ!君はクッキー」
もうヤケクソである。
「くっきー、たべる!」
それみろ。この子供は名前よりもお菓子のことしか考えてない。
「…俺、ちょっと外出てくるわ」
「セイタ?」
ブラシが呼びかけると、セイタはドアノブに手をかけながら言った。
「ブラシ、ボスのあれ、俺が戻るまで阻止しといて。ちょっと修理街に行ってくる」
「…おう」
「じゃあ」
扉が閉まった。さて、どうしたものか。ボスはクッキー以外にも、他の名前を試そうとしている。でも、少女はお菓子の名前には反応するが、それ以外には、うんともすんとも言わない。
(こいつ、食い意地が張ってるだけじゃ…)
ならば、ブラシもお菓子の名前をぶつけるだけだ。
「なぁ、お嬢ちゃん、ショートケーキって知ってるか?」
「けーき?」
少女は首を傾げた。
*
「フィオ姉ぇ、居る?」
修理屋が立ち並ぶ4丁目。ここには身の回りの機械や製品から、異形の身体の不調まで“修理”してくれる専門店が軒を連ねている。セイタは、その中でも一際派手な店構えの暖簾をくぐった。
「おーい!フィオ姉ぇ!」
セイタが呼びかけると、中から聞こえていたウィーンというモーター音が止んだ。それから直ぐに、キュルキュルと椅子のキャスターが滑る音と共に、中から黒い眼鏡をかけた女性が出て来た。
「ああ、セイタ。何、虫歯?」
「違う違う。ちょっと相談事があって」
「ああ、今日の予約の患者、あと1人だからさ。本でも読んで少し待っててよ」
すると、店の奥から声がする
「%*→〒々>=♪*$~#|\%?!|」
「あー、はいはい。お客さんの歯、ちょっと根っこが深くて…はい。はい。だから、根本をね…」
「*÷々〒\$€>°#ぎゃああああああ!!」
その悲鳴にビクビクと背筋を凍らせながら、セイタは待合室で暫く過ごした。20分ぐらいすると、烏賊っぽい異形が一人、げっそりした様子で店を出て行った。
すると、受付の所にフィオ姉ぇが、やっと顔を出した。
「セイタ、終わったよ。で、何だい、相談って?好きな異形の女の子でもできた?」
「まさか」
セイタがフィオ姉ぇと呼ぶこの人物は、二区にいる数少ない耐性持ちの人間だ。彼女は歯医者として働いていて、どんな異形の歯でも治療してしまう、かなりの名医らしい。脚が悪く、普段は車椅子で生活をしているが、基本的に一人で何でもこなしてしまう、セイタが尊敬する強い女性だった。
「実は、養子を引き取ることになって…」
「ああ、その話か。そういや噂になってたね。また掃除屋が人の子供を引き取ったって」
「流石に、情報早いですね」
二区の連中はみんな暇なのだろうか。
「…まあね。掃除屋さんは“君”って言う前例があるからさ。普通は人の子を養子になんかしないし、出来ないからね」
「そうなの?フィオ姉ぇでも?」
「は?アタシ?まぁ、出来ないって事は無いけど…やりたくは無いかな」
「ふーん。そう言うものなんだ…」
フィオ姉ぇの反応を見る限り、やはり一般的な事では無いらしい。それならボスが拒否するのも何となく仕方がないと思えた。でも同時に、だったら押し付けるんじゃねぇ、とも思う。
「うーん。まあまず、手続き結構面倒だし。今の収入と実績なら多分申請降りるけど、そもそも人の子が二区で受け入れられるのって結構稀でしょ。あんたもそれは良く身に染みてるから分かってると思うけど」
「…まあ」
「二区に捨てられた子供が生きていくのは簡単な事じゃ無いからね。あんた、ここまでデカくなれたんだから、掃除屋さんには感謝するのよ」
「……はい」
仕方なく返事をしたのだが、フィオ姉ぇは全てを見透かしたように鼻で笑った。
「ふっ。あーあ、歳取ると説教臭くなるって言うけどホントだね。やだやだ。それで?どんな子なのさ」
「どんな子って言われてもなぁ…。まだあんまり喋んないし。見た目は殆ど人だけど、ツノ生えてる」
「なんだ、呪い持ちかい」
呪い持ち。果たして、あれは呪い持ちと言えるのか、甚だ疑問だ。
「……たぶん」
「なんだ、その煮え切らない返事は」
「呪いって、体の末端から進行していくもんなんでしょ?あいつ、手足は人のままだし」
そう。異形になる途中の段階だとしても、他のものとは少し違う気がするのだ。明らかに形が整い過ぎている。セイタが知っている鬼の異形だって、角が生えてるから“鬼”と呼ばれているのであって、物語や絵本に出てくる鬼とは大分違う者ばかりだ。見た目の違いは角の形だけにとどまらず、肌の色や筋肉といった肉体全体に個性的な変化が見られる。中には人の形から掛け離れる者だって少なく無いのだ。
「…ふーん。なら、ただの人型の異形って可能性もあるかしら。何れにしても、その姿じゃ苦労しそうね」
「だろ?養子縁組の話もさっさと済ませたいのにさ、ボスは俺が保護者になれって煩いの。その為に誕生日まで待つって」
「保護者?アンタが?…ぷっはっはっはっはっ!」
そしたらフィオ姉ぇ、突然吹き出して腹が抱えて笑い始めた。
「な、何で笑うんだよ」
「いや、昔の掃除屋さんの事、思い出してさ!あんた、しょっちゅう誘拐に遭いそうになってたから、掃除屋さん、てんやわんやで!なるほどな。まあ、楽では無いよね!はっはっはっは!」
「???」
「はぁー、笑った笑った。あんたも大変ねぇ」
「はぁ…。フィオ姉ぇ、笑い事じゃ無いって」
「悪い悪い。んで、愚痴を言いに来たってわけね」
「それもあるんだけどさぁ」
さて、やっと本題だ。
「名前ってどうやってつけるの?」
*
結局、フィオの話はこれと言って参考になる事は無かった。彼女曰く
「さぁ、ペットにつける時と同じで良いんじゃ無い?」
との事。するとその時、突然、彼女の右肩にボヤッと煙が立って、一つ目の犬みたいな異形が現れた。
「うわっ」
「へへ、可愛いでしょ。いちごうって言うの」
彼女はそう言って、いちごうと呼ばれる小さな異形をわちゃわちゃと撫でていた。
そんな先刻の出来事を、ぼんやりと思い出していると、道のすれ違いざま、体長2メートルはあるであろう異形が、散歩紐片手に小さな異形を連れ歩いているのが目に入った。
ペットとして飼っているのだろうか。四つん這いになった人の形を残す異形が「にゃー」と鳴いている。
あれはどう言う事なんだと、ペットの方を思わずじっと見ていると、先を歩いていた飼い主の方がこちらを振り返り、見つめてくるではないか。
(ヤベッ)
セイタは慌てて踵を返し、その場から早足で歩き去った。
(流石にペットみたいな名前はダメだろ)
ただひたすら歩いていくと、いつの間にか西の飲み屋街まで来ていた。もうそんなに歩いたのかと、酒で酔っ払う異形達が行き交う街並みを眺めてみる。ふと、道端で占い屋を開く異形がしゃがれ声で話しかけて来た。
「おやおや、人の子とは珍しい」
「……ばあさん、俺のこと知らないの?」
いつもなら無視するのだが、その時は何となく気になって、セイタは会話を始めた。
「んー?知らんよ。何だ、君は有名人なのかい?」
「うーん。まあ…ここいらじゃ“掃除屋”で通ってるよ」
「おや…私の記憶では“掃除屋”は宮の守の巫女さんだったと思ったが」
(巫女…?何代前の話だ?)
あまり深くは考えなかった。二区の異形には超高齢な者が割とそこらじゅうにいる。この老婆もそのうちの一人だろう。
「ああ、その宮守のとこの使いっ走りだよ」
「かっかっか、そうかい。今は人間のお前さんが掃除屋なのか」
「まあね」
老婆はローブを頭から深く被っていて顔がよく見えなかったが、どうやら鬼の類らしい。スルッと長い2本のツノがフードの下から伸びていた。
「なんか悩みがありそうな顔してるが、こんな所で何してるんだい?」
「ああ、まあ」
典型的な占い師とはこれの事だろうか。少しの懐疑心が生まれたが、実際、この婆さんなら経験豊富そうだし、聞いてみるのも悪く無いと思った。
「実は最近、子供の面倒を見ることになって」
「ほう、その年で?」
「いや、俺の子じゃないんだ。なんて言うか、子供ってより、多分、妹?みたいな」
「そうかい、そうかい」
婆さんは嬉しそうに頷いた。
「名前が決まらなくてさ…。どうやって付ければ良いのかも分からなくて」
「…そうさねぇ」
「婆さんは名付け親になった事ある?」
「そりゃ、あるさ。たーくさん名前をつけて来た」
婆さんの声色が少しばかり陰った。
「どうやって、考えるの?」
セイタが尋ねると、婆さんは天を仰ぐ。フードから覗くその瞳は真っ白く濁り、彼女が盲目である事がわかった。
「そうさねぇ。初めて名前を与えた子は私が殺した子だったからなぁ。償いの気持ちで与えた」
「え?」
何を言っているのか分からなくて、セイタは思わず笑ってしまった。冗談だと思ったのだ。
「地上で戦いが始まってから、何人もの若い子らが私らの病院にやって来たんだ。“子を降ろしてくれ”ってね」
「……まだ、人が地下に住む前の話?」
老婆はコクリと頷いた。
「敵兵にな、乱暴されてしまったんだと。中には今にも生まれそうな子もいてね。先生は『絶対に赤子の泣き声を彼女らに聞かせるな』って」
「……」
「見たこともないくらい、綺麗な髪の色の子でねぇ。生まれてすぐ、首を絞めたんだ。誰も悪く無い。お母さんも、あの子も。でも、そうするしかなかった。誰も幸せにならないと分かってたからね」
「…婆さん、もしかして地上ってここより修羅なの?」
「はっはっは。もう大昔の話さね。それでも業は未だに私の身体に纏わりついてる」
老婆は真っ黒な鱗でびっしりな両手を擦り合わせる。
「アイコ、マコト、タロウ、トワ、キョウヤ、ゴロウ、ショウマ…もっともっと沢山いる。今思うと、あれこそが呪いだったのかもな」
「どう言う意味?」
「名前を与えることで許されたかったんだ。だから、一つ一つに願いを込めた。来世では愛を、真実を、健康を、長い人生を、そんなふうにね。私が受けたこの呪いは、あの子たちの苦しみさ」
「…婆さんだって、何も悪く無いだろ」
本当に呪いとは何なんだろう。また疑問が深くなる。
「ありがとうね。でもね、“
「……分かった」
「良い名を」
「ああ」
セイタは老婆と別れ、また独り、二区を渡り歩く。
「祝福で、呪いでもある、か」
親が子に願いを込めて名を与えるのは一般的な事だ。センスはどうであれ、皆考えを持って、その子の名前を決めるわけだ。あの老婆曰く、それは“祝福であり、同時に呪いでもある”。そう言う意味では、ボスが言っていた「名前なんて適当なぐらいがちょうど良いだろ」と言うのも一理ある気がした。それでも“クッキー”はあり得ないが。
「はぁ…願いねぇ」
自分はあの子にどうなって欲しいのか。
そう自問自答すれば、記憶の中のボスが答える。
—親の願いを込めたところで、この子の人生はこの子のものなんだからさ—
でも、クッキーはない。それだけは確かだ。
「犬じゃないんだから」
一緒にいてくれるペットに対しては、クッキーはアリだ。自分でも思うが、変な基準だ。
「これから一緒に暮らすって事には変わりは無いけど」
それでも、クッキーはあり得ない。絶対ない。
「…あ」
閃いた。セイタは走り出していた。
*
事務所に着くなり、ドアをこじ開ける。トビラびっくりして咳き込んでいたけどお構い無しだ。
「なあ!!クッキーがダメならビスケットぉおおおってええええ」
まだ質問し終える前だってのに、セイタの口元にデッキブラシからのアッパーが飛んでくる。
「いってぇ、何すんだよ」
「バッキャロおおお!考えすぎて気が触れちまったのか!?お前さんまで、ボスみたいになるんじゃねぇ!!」
「はあ?」
「おや、セイタ、おかえり。長かったね、随分。銭湯?」
とボス。セイタはヒリヒリする顎を押さえながら「いや」と答えた。
「で、所で、さっきの名前だけど」
ボスの声が暗く響いた。セイタはゴクリと喉を鳴らす。何だこの緊張感は。
「とっても良いと思う!!セイタにしてはやるじゃない!!」
とボスは親指まで立てて大変ご満悦なご様子。しまった、やってしまった。ボスの喜ぶ姿を見て、セイタはやっと正気を取り戻した。
「ほれ見ろ!こいつが調子乗るじゃねぇーか!」
「わ、悪い。俺、どうかしてた。そうだよな。クッキーとか、ビスケットとか、口の中の水分持ってかれるし、牛乳とか一緒の方が美味しく食べれるわけだし、つまり牛乳こそ至高の—」
「そうじゃねぇえええ!セイタ!目を覚ませ」
「え、ああ、うん。ごめん、ブラシ。俺、何が何だか分からなくなってて」
「にゅう!!」
「え?」
足元で少女が何か訴えてくる。
「にゅうにゅう!!」
「……」
セイタとブラシは互いに顔を見合わせた。
「牛乳?」
「うん!」
「なんだ、喉乾いてるのか。あったか、牛乳?」
ブラシがセイタに尋ねる。
「いや、ちょうど切らしてる」
「にゅうにゅう!」
少女は地団駄を踏み始めた。
「まさか、この子、にゅうにゅうって名前が良いんじゃ—」
「「それは無い」」
とボスの言葉を即座に否定するセイタとブラシ。もう何度目だ、このやり取り。セイタは深いため息をついた。
「仕方ない。一緒に買いに行くか?」
「…うん」
セイタがしゃがみ込み、視線を合わせながら尋ねると、少女は少しだけ恥ずかしそうにしながらも、しっかりと頷いた。
「んじゃ、ボス。俺、ブラシと一緒にこいつ連れて行きますので、留守番頼みます」
「え、ちょ」
「え、俺も?」
「それじゃ、また後で」
有無も言わさず、また外へ向かうセイタ。独り事務所に残されたボスは思った。
「どうしてウチにいる子ってあんな風になっていくんだろうね」
*
「にゅーにゅ!にゅーにゅ!」
少女は嬉しそうにセイタと共に常夜の街を歩いていく。
「ご機嫌だな」
ブラシの声は疲れ切っていた。
「で、名前は結局どうするんだよ。散歩して何にも閃かなかったのかよ」
売店に寄り、牛乳瓶を一本購入し、少女にやる。セイタは彼女をベンチに座らせると、やっと一息ついた。
「ああ…余計に付け方が分からなくなった」
「考えすぎも良く無いぜ、お前さん」
「それは分かってるけどさぁ…」
深いため息が漏れた。空の牛乳瓶を覗き込み、縦にしたり横にしたり、近くから覗き込んだり、離してみたり、少女は楽しそうだ。
「……なぁ、お前は、なんて呼ばれたい?」
それはほんの気まぐれで、セイタは端から3、4歳の答えに期待なんかしていなかった。セイタたちが一体何で悩んでいるのかなんて、きっとこの子は何にも分かっていないのだろう。そう思っていたし、案の定、彼女は首を傾げた。
「…なまえ?」
「そう、なまえ。お前の名前だ」
少女はうーんと宙を見上げる。
「セイタがくれるなら、なんでもいい」
「……」
「あら」
意外な答えにセイタもブラシも拍子抜けした。てっきりお菓子の名前でも言うのかと思ったのだが。
「セイタ、にゅうにゅうくれた。セイタがくれるものは、たぶんいいもの。だからセイタがくれるなら、なんでもいい」
「…だとよ」
「いや、だとよって言われても」
つまり、この少女は食べものをくれるなら、名前も何でも良いと言っているのと、相違ないではないか。
「…色んな意味で心配だな」
と、ブラシ。セイタも頷く。
「ああ、食い意地が張りすぎてる」
「全く…。食べ物で釣られて悪いやつの所に行くんじゃねぇぞ!」
ブラシは毛束を尖らせながら、彼女に言う。すると、彼女はブラシを不思議そうにじっと見つめた。
「……うん」
「あ!こら、今、少し考えただろう!良いか、お菓子とか食べ物とか貰ったからって知らない人について言っちゃダメだからな」
「……うん」
これは、分かっているのだろうか。
「おかしだけもらうことにする」
分かってなかった。ブラシの毛が萎れ、深いため息をつく。中々大変だ。
「はぁ…。お前さんの反抗期が可愛く思えてきたぜ」
「またそれか」
セイタはうんざりして、天を仰いだ。確かにボスやブラシたちには面倒を掛けたかもしれないが、セイタだってあの頃は幼かったし、色んなことに不安を抱えていたのだ。自分の棚を上げるようだが、それも仕方のないというものである。
だがブラシは毛を逆立てて、続ける。
「ああ、何度でも言うぜ。何でも禁止すればやりたがるし、天邪鬼で、わざと俺たちを困らせるような事を始めるし…」
「……そりゃ、悪かったよ」
ボソリとセイタが謝った。ブラシにとってはそれが意外だったらしい。2人の間に少しの沈黙が流れた。なんか気まずい。だから素直になるのは嫌なのだ。
「……まっ、大変だったけどよ。お前さんが初めて泣いてくれた時は安心したぜ」
一瞬、時間が止まったかと思った。
「…は?」
びっくりして、セイタは思わずブラシに視線を戻す。一体どう言うつもりで言ったのだろう。訳がわからなくて、セイタは眉を潜めた。
「なんで泣くと安心するんだよ」
「いやぁー…まぁ、お前さん、中々泣かないガキだったからな。俺たちの前で泣いてくれた時は、やっと信頼してくれるようになったんだと思えてさ…変な話だけどな」
「そう言うもんなのか?」
「そう。そう言うもん」
「そう…」
なんだかむず痒くて、セイタは視線を逸らせた。そして、まだ幼い少女を見る。
(今度は…俺の番ってわけか)
セイタはこの子の安心する場所を作ってあげなくてはならない。自分がそうされたように。
(恩返し、みたいなもんだな)
セイタは立ち上がった。
「名前、決めた」
*
「だーもぉ、まだあるの?」
その日、二区の役所には掃除屋一行の姿があった。書類の書き込みに苦戦するセイタを囲みながら、ボスとブラシはアレやこれやと指示をしてきた。
「おい、ここ、忘れてるぞ」
「あ、これ、年齢間違ってるよ。今日誕生日なんだから」
「ああ、もう。分かったよ!直すから次々言うな。ちょっと待てよ」
セイタはイライラしながら書き込み内容を修正し、やっとのことで、最後の書類までたどり着いた。
「はい、それでは戸籍登録と養子縁組申請の書類、問題無いのでこちらで正式に受理させて頂きます」
役所の異形からその言葉を貰った時、一同は思わず「やったー」と喜びの声を上げた。バンザーイとはしゃぐ傍ら、ボスだけがそそくさと、先に行こうとする。どうしたのかと思って、セイタが声をかけると、
「ちょっと寄るところがあるから、先に行くよ。君たちは家で待ってて」
と言い残し、ささっとその場を後にしていった。
そして、みんなで事務所兼、家に戻った時だった。トビラが言った。
「よお、セイタ、おかえり。…で、まあ、こりゃ、晴れて大人になれたお前さんへの俺達からの贈り物だ。受け取れ」
「え?」
影がセイタの視界を覆う。視界が真っ暗になってすぐ、自分は勢いよく飲み込まれたのだと分かった。今まで自分から入るのが常で、トビラの方から飲み込んでくる事は無かったものだから、若干驚いたまま事務所に着地すると、地味な部屋がいつもより華やかである事に気がついた。
「あ、おかえりぃ」
「フィオ姉ぇ…何で」
セイタが尋ねる終える前に、「せーのっ」とボスが息を合わせる呼びかけがして、パンッと気持ちの良い破裂音が幾つか部屋にこだました。
「「お誕生日、おめでとーー!!」」
部屋を舞い落ちる色取り取りの紙吹雪。そして、贈られる言葉。ボスの小さな異形の式神たちも、一緒になってパチパチとセイタ達に拍手を送る。
「じゃ、ケーキ食べようか!」
テーブルの上には白くて大きな丸いケーキが一つ。色とりどりのフルーツが上に乗っていて、真ん中にはプレートが置いてあった。
—セイタ、メグルちゃん
お誕生日おめでとう—
「けーき!!!しょーとけーき!」
メグルはセイタの肩の上で目をキラキラさせた。やっぱり甘いものには目が無いらしい。
「セイタ!はやくたべよう!!」
「分かった、分かったから、暴れるな!ケーキは逃げないから落ち着け!」
喜びで今にも文字通り舞い上がりそうになるメグルに慌てて言い聞かせながら、セイタは彼女を肩から降ろす。すると、フィオがケーキに齧り付こうとする彼女の首根っこを捕まえながら、器用にケーキを切り分けてくれた。
「ちょこ、ほしい!ちょこも!ちょこも!」
「はいはい、チョコプレートは主役の人の分だから、セイタと半分こね」
フィオ姉がそういうと、メグルは目をぱちくりさせた。
「セイタとはんぶんこ?」
「そ、半分こ。今日は、セイタの誕生日だから。ついでに、メグルちゃんが家族になった記念日」
メグルのケーキのお皿には、半分に割られたチョコが置かれた。ケーキの横に添えられたそれを見て、メグルは首を傾げる。
「…んー?これ、なんてかいてあるの?」
「ああ、それはね、君の名前だよ」
「なまえ?」
「そう。これ、“メグル”って読むの」
「め、ぐ、る?」
ポンッと彼女の肩に大きな黒い手が触れる。
「そ、メグルちゃん。本当はクッキーが良かったと思ったんだけどねぇ」
「まだ言うか」
ボスの発言には、流石のフィオも呆れ顔だ。すると、やれやれとボスは深いため息をつくく。
「“メグル“なんて、名前の業が深すぎるよ」
「あら、そうかしら。私は素敵だと思うけど」
フィオはケーキを取り分け、ボスとセイタに差し出した。
「じゃあ、ボスから、大人になったセイタに一言」
と、そんな無茶振りがフィオからボスにされる。ボスは予想外の事に肩をすくめた。
「えーーー!?やだよぉ、柄じゃないし…」
「なーに言ってるのよ!ケーキ注文する時、凄く楽しそうにしてた癖に。待ってたんでしょ、この日を」
「ええ…」
ボスの背中が心なしか、いつもより小さく見えた。単に前屈みになってるせいだろうが。自然とみんなの視線がボスに集まる。
「…うーんと、セイタ。お誕生日おめでとう…。子育て、頑張って…。まあ、これからも…宜しく、ね?」
「……はい」
セイタは何て答えていいか分からず、取り敢えず返事をしたのだった。すると、周りもキョトンと拍子抜けした様子。何か間違えたのかと思ったら、フィオとブラシはケタケタと笑い出した。
「ぷっははは!この似たもの親子め」
「もう少し何かあるだろうが!」
「そうそう。全く、本当2人とも素直じゃないんだから」
セイタは恥ずかしそうに苦笑した。ボスも多分笑っていたと思う。尖った耳が少しばかり赤くなっていた。
掃除屋達の楽しそうな声が、外まで聞こえてくる。
トビラは久しぶりのケーキをペロリと食べて、ニヤッと笑った。
「良かったな。ボス」
夢にまで見た5区の高級菓子“匠のショートケーキ”。
実に予約3ヶ月待ちのそれは、口に入れれば、クリームはフワッと溶けてなくなり、上に乗ったフルーツは4区の農場で丹精込めて育てられた一級品。数も限りがあり、入手も困難と言われていた。半年前、チラシで見たあの日から、ボスはこのケーキを切望していて、今日やっと、その夢が叶ったのだった。
「…セイタに感謝だな」
請求書には400レイと書かれている。それは以前セイタが住んでいたアパートの家賃より高い値段だった。
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