二区の掃除屋
おかもと瑛
第1話 噂の掃除屋
この街はもう300年は陽の光を浴びてない。
「おい、セイタ、おいってば!」
前時代の遺物やガラクタで出来上がった常夜の街。ここは昔、東京という場所だったらしい。ずっとずっと地下深くに伸びるたくさんの灯火を、セイタはぼんやりと眺めていた。
「いや、ちょっとな」
「は、何黄昏てんだか。下のヤツらの生活でも恋しくなったか?」
今日もデッキブラシはうるさく毒を吐く。セイタは彼をクルリと回した。
「まさか」
前時代から走る列車が、壁に沿って緩やかに弧を描きながら登ってきていた。セイタは壁から生える様に伸びた昇降機の鉄柱の上を、カツカツと音を立てて歩く。
「…俺はこっちの方があってる」
じっとタイミングを見計らい、列車のフロントライトが一瞬だけ、どこかの鏡に反射してセイタの顔を照らした。その瞬間、彼はそこから飛び降りた。
「そうこなくっちゃ!はっははー!!!」
デッキブラシは下から受ける風を感じながら叫んだ。
線路を駆け抜ける列車目掛けて、セイタ達は落ちてゆく。そこには黒い異形の塊が群れをなしていた。
グチョッ
と液体を含んだ何かが潰れた音と共に、鋭い金属音がキンッと車内に響く。その瞬間、乗客達から短い悲鳴が上がった。アイスピックの様な鋭い針の束が天井を突き破って出てきたのだ。そりゃ、驚きもする。針の束は不快な音と共に、直ぐに天井に引っ込んだ。空いた無数の穴からは黒い液体がポタポタとこぼれ落ちていた。
「ああ、掃除屋か」
誰かがそんな事を呟いた。
「もうちょっと、やり方がどうにか何ないのかね。これじゃ、いつかこの列車も使い物にならなくなっちまう」
同じ車両の天井には掃除屋の彼が先月開けた穴がもう1箇所ある。お陰であそこの蛍光灯は使い物にならなくなった。
「全く。鉄の遺物は貴重だってのに…」
「まぁ、仕方あるまい。この街には必要な仕事さ」
「ねぇ、掃除屋って、“浄化”する方のことよね?」
乗客の1人であった兎の面の異形が、そんな事を隣の奴に尋ねた。
「ああ…ここは二区だから。あ!てことは…」
「そうそう。さっきの、噂の人間の掃除屋かもね」
*
ゴミ袋を肩からひき下げ、常夜の街を徘徊する人間の少年。彼は、恐らく昔はアパートの階段として使われていたであろう、その廃材で出来た橋を渡り、隣町への入り口であるモルタル製の門の前までやってきた。
「けっ。相変わらず薄気味悪い場所だぜ!」
「お前が言うな」
デッキブラシの冗談を軽くあしらい、セイタは門の隣にあった管理室の扉を叩いた。
「おい。俺だ」
すると、いつもの様に覗き穴の瞼が開く。
「よお、セイタ。今回は早かったなあ」
「雑魚ばっかだった」
「はっ!言う様になったじゃねぇーか。ボスがお待ちだ。入りな」
扉はそう言って、ギィと自ら開いた。目の前に現れる扉と同じ大きさの口。セイタは唾を飲み込んだ。
「は!相変わらずビビリだな」
そして、ゆっくり足を扉の舌に踏み入れたその時、セイタは思わず口と鼻を押さえた。
「おい、トビラ!!昨日ニンニク食ったな!!」
「はっ!うっせーな!サッサっといけ!!」
「うわっ!」
足元の舌が持ち上がり、セイタとデッキブラシはトビラの喉に吸い込まれていく。コロコロと転がり、彼らは悲鳴を上げながら、落ちるとこまで落ちた。
そして急に視界が開けたと思ったら、頭に走る衝撃。セイタは思わず頭を抱え悶えた。
「いっつぅ……」
「おや、セイタ。今日は早かったね。またトビラを怒らせたの?」
ぐつぐつと煮えたぎる鍋。そこからもくもくと上がる湯気の向こう側に、雑面をつけたボスの姿があった。
「…ボス。何で事務所で鍋なんかやってるんですか」
「ええ、ああ、これ。最近四区のふるさと納税頼んだらこんなの来てさ。久しぶりのもつ鍋にテンション上がっちゃって」
表情は見えないが、ウキウキしてるのは嫌と言う程伝わってくる。ボスは鼻歌を歌いながら、パキッと割り箸を割った。
「久しぶりって…こんな念の塊みたいな気持ち悪いもの、よく食べますね」
謎の白のぶくぶくとした何かが、ニンニクと共に煮えている。なるほど、トビラの入り口が臭かったのはこれのせいだったらしい。たぶん。
「もー、そんな目で見ないでよ。とっても美味しいんだから。私も食べるの100年ぶりだしね!この味を知らないなんて、君たち若者は本当に可哀想だねぇ」
そう言ってボスは熱々の鍋に箸を伸ばす。なるほど。確かに、見た目はグロいが匂いは中々そそられるものがあった。そして、グゥーっと自分が腹がなる。そう言えば、夕飯がまだだった。
「ハフハフッ!…んー、そうそう、こんな味だった!ああ、懐かしいねぇ。あ、セイタも食べる?」
「…良いんですか?」
「ダメ」
「だった聞くなよ」
「ハフハフッ。あーーー、うまーーー!」
ボスはセイタの事は二の次の様で、目の前のもつ鍋もこれ見よがしに頬張り始める。
イラッ
としたセイタは持っていたゴミ袋を前に突き出した。
「仕事!今日の分」
「あーはいはい。ありがとうね。そこのゴミ箱に入れといて。今日回収屋か来てくれるから、今月分一気に払えるよ」
「じゃあ、待ちます」
「うん」
セイタは机の隣にあった青いゴミ箱の中に袋をぶち込んだ。すると、そのタイミングで部屋の奥の扉がガチャッと開く。顔色が悪いと言うか、文字通り顔の色が悪いツギハギだらけの男が部屋に入ってきた。
「回収デース」
「お、きたきた。そのゴミ箱4つ」
ボスが指を鳴らすと、セイタの前にもう三つのゴミ箱が現れた。回収屋は「ハーイ」と何だか気のない返事をして、ゴミ箱を一気に担ぐ。その際、一つだけ蓋が外れて、中からポロリと質量のある物が転がり落ちた。人間の腕だった。
「ア、イケネ」
「……ほら」
セイタはそれを拾い、蓋の空いたゴミ箱に戻そうとした。その際、大きな鳥の頭とバラバラになった人間の身体の殆どが入っていて少し驚いたが、何事もなかった様にゴミ箱の蓋を閉める。
「ンジャ」
回収屋は短く挨拶を返し、そのまま出ていってしまった。扉が閉まると、ジリリリリと金額が振り込まれる音が部屋全体に響き渡る。ボスが「んー、まぁ、こんなもんか」と溢した。
「ねぇ、ボス、今のって」
「ああ、三区の異形街に迷い込んできたんだよ。興味本位だったんだろうけど、あんな鳥の被り物じゃね。変装ってより、僕らを馬鹿にしてる様にしか見えないよね。作法を蔑ろにしたせいで、あんなになっちゃった」
ボスがまた指を鳴らすと、テーブルのもつ鍋が消えた。
「…あの人、殆ど変化がなかった。俺と同じ耐性持ちだったのかも」
ボスはまた指を鳴らす。
「さあね。そうだとしても、皆んなが君みたいになれる訳じゃない」
そうして、セイタの前に差し出されたのは一枚の紙だ。三区の地図に、赤い点がポツポツと打たれている。その北側に妙に点が集中してる場所があった。
「これ、次の仕事」
「なんですか?」
「三区で呪いが異常発生してるみたい。僕はこの見た目でしょ?先方は耐性のある人間である、君をご所望みたいだよ」
「三区って…本当に俺で良いんですか?」
「今回は君向きの仕事だと思ったんだよね。ほら、ここ」
ボスの細長く鋭い黒い指が例の北側の場所を指した。
「二区じゃこんなの日常茶飯事でしょ?」
「まあ」
「よろしく頼むよ。噂の掃除屋さん」
「何ですか、それ」
「知らないの?君。今じゃちょっとした有名人なんだよ」
「はっ!?こいつが?」
とデッキブラシが悪態をつく。だが、こればかりはセイタも言葉が出ない。微妙な気持ちでいると、ボスは嬉しそうに教えてくれた。
「そうそう。呪いの効かない少年が二区の街の平和の為に駆け回ってるって。それがうちの掃除屋の少年って、なんか浪漫だよね」
「…うーん。なんか、ダサいですね」
「そうかな。あ!賞賛のほかに苦情も来てたよ。公共交通機関から依頼料は偶数特急車両の修理と差し引きで“無し“だって」
「なっ…!」
「ま、そう言うわけだから、早く行っておいで。じゃないと、今月、うちは赤字だ」
「んな、アホな!!」
*
—間もなく、対呪トンネルを抜けます。リバウンドにご注意下さい—
そんなアナウンスが車両内に流れた。
セイタとデッキブラシは、トンネルの向こう側から差し込む光に目を向けていた。
「お、いよいよ三区だな」
デッキブラシが言った。給料が入らないと知ったセイタ達は慌ててボスに言われた通り、その日最終便の常夜列車に乗り込んだのだっった。
「ああ。ブラシ、この先はあんまり喋るなよ。三区は人間が多いからな。目立つ行動は避けよう」
「わーってるよ」
ふと、視界が開けた。窓の外の明るさに目を細めると同時に、パッと肩に重みが戻る。何人かの乗客はグッと頭を抑えて、この気持ちの悪さに耐えている様だった。
「おお、明るいな、三区は。セイタ、リバウンドは?」
セイタの様子を心配してか、ブラシが尋ねてきた。
「んー、まぁ、これくれないなら。二区に比べたら大したことない」
対呪トンネルを抜けたせいで、三区に掛かる呪いの負荷が戻ってきたのだ。地上から離れているとは言え、ここも普通の人間が住むには、まだ呪いの影響が大きいらしい。それでも、二区に比べたらだいぶマシだ。
「流石だぜ」
デッキブラシは嬉々として笑う。
「こりゃ、二区に戻った時の反応が楽しみだな」
「悪趣味な奴」
*
駅に着くと、三区は思ったよりも多くの人で溢れかえっていた。呪よけのマスクが流行っているのだろうか、護符が刻まれた布や仮面を付けてるものが多くいた。
「何だか、ボスの偽物がいっぱいいるみたいで笑えるな」
とデッキブラシがボソリと言う。
「お前さんも付けといた方が良いんじゃないか?見られてるぞ」
確かに、街行く人が自分を見ている様な気がする。そいつらが全員、本当に人かどうかは怪しいが、ここではマスクをつけていない奴はかなり浮くらしい。
パッと駅の売店の方に目をやると、“呪よけのマスク 30レイ”という看板が出ていた。
「…高いな」
「おい、セイタ。こりゃ、偽物の護符だぜ。何の力も感じねぇ」
「だろうな。本物ならこんな値段しない」
「もっと安いって意味か?」
「いや、逆だろ。本物なら安くても100レイはする。ま、こんなのは気休めだな」
セイタはマスクを一枚手に取った。そして、店員に金を渡す。「まいどありー」と不気味な声が返ってきた。
「結局買うのかよ」
「まあな。仕事がしづらいのはごめんだ。早く依頼主に会いに行こう。えっと場所は、西インプラントファクトリー…?」
*
「いやはや、貴方が噂の二区の掃除屋さんで」
セイタ達を出迎えてくれたのは西インプラントファクトリーの社長だった。デッキブラシが耳打ちしてくれたが、西インプラントファクトリーは異形化が進んだ患者向けに人工の身体を提供しているらしい。細部から体全体まで、手術に必要な部位をリーズナブルな既製品からオーダーメイドまで各種取り揃えてるのだとか。
「はぁ、まあ」
ただの掃除屋に、社長直々挨拶なんて、随分としたもてなしだ。セイタとしてはさっさと仕事を済ませて帰りたかったのだが、そう言うわけにもいかなさそうである。
どうやらこの社長、相当呪いに怯えている様だった。手首には呪よけの黒の数珠。部屋の前には呪よけの護符が刻まれた紋様。その他至る所に呪よけグッズが置いてあった。
(こんな良い生活してるのに、まだ不安な事があるんだな、このオッサンは)
セイタはぼんやりとそんな事を思った。そもそも二区と三区じゃ生活の水準も住んでる奴も、何もかもが違うのだ。廃材で出来てる建物なんて無い街。まだ、人が人の形を保っている。二区に比べたら天と地の程の差がある安全な場所だが、それでも二区と隣り合わせのせいか、三区の人間は異様に呪いを恐れている様に感じた。
「それで、依頼内容は、北の工業地帯周辺の“掃除“で良いんですか?」
「ああ、出来れば、原因も突き止めてもらいたいんだ」
「…原因ですか。それが、分かれば俺たちも苦労しないんですが」
「ははは、全くその通りなんだけど、まあ。二区では日常茶飯事かも知れないが、三区では今までこんな爆発的な呪いの発生は起こった事が無いんだ。きっと何か理由があると思う」
「…例えば、地上につながる穴が何処かに空いたとか?」
実際、呪いは空気感染では起こらない言われているが、それを鵜呑みにする者はそう多くはない。なんせ呪いに関しては未だ謎が多いのだ。だから、皆んなあらゆる可能性を恐れている。効果があるかもわからない、呪いのよけのマスクが良い例だ。
「我々もその可能性も考えたが、確認しようがないんだよ。調査班は原因を特定する前に皆連絡が途絶えてしまった。1人耐性の強い者が街外れの道端で発見されたが、今は病院で寝たきりだ」
「それは…お気の毒に」
「いや、気を遣わせてしまったね。取り敢えず、現場の様子を見てもらいたいんだ。何か必要な物が有れば手配するが…」
「いえ。大丈夫です。では、今夜早速取り掛かります。問題があったら連絡入れますので」
セイタはサッと立ち上がり、一礼すると社長室を後にした。そんな素っ気ない彼の態度に、西インプラントファクトリーの社長は、ため息を漏らす。
「…若いな」
「腕は確かだそうです」
秘書が頭を下げながらそんな事を言った。
「いや、君の人選に疑いは無いよ。私の耳にも噂は入っているからね。それにしても、実際本物を見ると、なんと言うか…普通だね。二区で呪いよけも無しに、あの姿のままで居られるなんてな」
「…そうですね」
「全く。羨ましいね、耐性持ちは」
社長は手首の数珠をギュッと握りしめた。
*
「はぁ…」
「全くすげぇな、三区は。昼夜制御プログラムってんだってさ」
デッキブラシは鼻息を荒くして、立て掛けられた看板を読み込んでいた。
「何が?」
用水路の橋の上でぼんやりと空を眺めるセイタは、気のない返事をした。すると、デッキブラシは毛束を少し尖らせた。
「だから、この明るさだよ。常夜の二区とは違うなって」
「ああ。壁に仕組まれたマイクロLEDだろ。旧式だけど、景色を表現するには十分だよな」
蛍光灯と反射板の数も質も、二区とは比べ物にならない。ここまで格差があるのかと、正直セイタは落胆さえしていた。
(大穴から見えてた景色とは、だいぶ違うな…)
いつも二区の大穴から見える下の区の光景は、昼は靄がかかり、夜は無数の明かりがチラホラ見える程度だった。セイタはあれらの光を、いつか本で見た“宇宙の星“のように思っていたのだが、こうしていざ、“星“の元に来て見れば、実際想像していたものは、だいぶ違ったのだと知る。
「おお、よく知ってるな。あ、あの白いのは何で言うんだ?」
そんな人の気も知らず、デッキブラシはキャッキャと楽しそうにはしゃいでいた。水色に輝く天井を泳ぐ様に、白い綿が流れてゆく。セイタもあれが頭上に在るのを見るのは初めてだった。
「あれは…多分、雲だな。昔、本で読んだ」
「雲?」
「霧は二区にも起こるから知ってるだろ。あれと同じだ。水蒸気が冷えると、水や氷の粒になってあんな風に白い綿のように見えるんだとさ」
「ほおおー、セイタ、お前さんは本当によく知ってるなぁー!」
「別に、これくらい…」
ふと、気がつくと、空が赤く変わってゆく。
「お、これが夕方か」
「……」
街の遠く沈みゆく偽物の太陽。昔の地上での生活を再現しているらしいが、セイタからすれば実に滑稽な事だった。ここに住む誰もが本当の太陽も空も知らない。恐らく、それを知るのは二区にいる、人の寿命を遠の昔に超えた異形たちだけ。そんな彼らは今、空も太陽も無い、常夜の街で暮らしている。
「…綺麗だな。地上に出たら今も同じ物が見れるのかな」
セイタはボソッと呟いた。
「んー、どうだろうな。まあこの景色が綺麗な事には変わりないが、いくらか着色は入ってるだろうよ」
デッキブラシは続けた。
「そうじゃなきゃ二区の奴らだって、ずっと常夜に住みたいなんて思わないだろ」
「それどう言う意味?」
「残念な話だけどよ、二区の連中は現実ってヤツをよく弁えてる。たぶん実際はこんなに綺麗じゃねぇんだよ。本物を知ってる奴が、着色された虚像を拝んでも虚しいだけだろ?」
なるほど。デッキブラシにしてはまともな事を言うと思った。
「…そうかもしれないけど、でも、虚像でも拝んでたいって奴も居るんじゃ無いか?綺麗だし」
「はあ。綺麗で済ませられるなら良いけどな。ま、仕事前に良いもん見れたぜ。準備はいいか?」
空が紺色に染まってゆく。
「ああ。さっさと済ませよう」
闇は呪いが生まれる場所だ。セイタは帽子を深く被った。影が長く伸びて、やがて地面に溶けてゆく。街にはポツポツと明かりが灯った。やっと三区の街にも夜がやって来たのだ。
「…あっちだな」
デッキブラシがセイタの腕を引っ張り、方向を指し示す。
「おっけー」
セイタは橋の柵を掴むと身軽に飛び上がり、建物の壁を蹴り飛ばして、夜の街を駆け抜けた。
「ひゃっはー!今日も絶好調だな!!近いぜ!!」
デッキブラシは声高らかに笑い飛ばした。
「右だ!」
その合図にセイタはデッキブラシを右に振り回した。グチョッと音がする。小さな黒い塊が潰れて消えていった。
「…なんだ。こりゃ、異形の念だな」
デッキブラシは自分の毛をブルブルと振るわせて汚れを弾きながら、妙な事を言った。異形の、なんて、誰のものか分かるみたいな言い方じゃないか。
「…ん?人間のも同じじゃ無いのか?」
「いや。人のはもっと形が曖昧なんだ。それこそあの雲みたいにふわっとした—」
「!?」
突然感じた無数の気配に、セイタは咄嗟にデッキブラシを振り回した。先ほど潰した1匹の仲間達だろうか。上から小さな念の塊が大勢で襲ってきたのだ。しかし、こんなのはセイタの敵では無い。あっという間に、全部が壁のシミだ。
「雑魚ばっかだけど、多いな」
デッキブラシが言った。
「三区の異形街からはだいぶ離れてるから、ここにも異形が潜んでるってことか?」
「かもな。…匂うぜ。あっちだ」
デッキブラシはまたセイタの腕を引っ張る。彼はブラシの指し示す方へと歩を進めた。高い建物の間をいくつも通り抜け、たどり着いた先にあったのは、広い敷地の中にポツンと佇む、背は低くも大きな建物だ。
「…工場か、なんかか?」
周りは柵に囲われ、門には南京錠。斜め上には監視カメラまである。随分と厳重な警備だ。
「…動いてない?」
「おい、ここ、西インプラントの工場跡みたいだぜ」
デッキブラシが何か見つけたらしい。柵に括られた看板には、営業時間等の詳細の他、確かに、西インプラントファクトリーの文字が書いてあった。
「工場跡って…本当にもう人はいないのか?」
セイタはデッキブラシに尋ねた。
「“人“は居ないだろうな。ここは瘴気が濃い。耐性がなけりゃ、普通の人間なら呪いで形を失うぜ」
「そうか」
セイタはまた気のない返事を返して、身軽に柵をサッと登った。ガシャンガシャンと鉄の網がぶつかり合う音が、妙に大きく響いた。
「あ、おい」
「何だよ」
柵の向こう側に軽々と着地してから、セイタは右手の彼に、めんどくさそうに返す。こっちとしては、サッサと終わらせたいのだが、デッキブラシはこう言う時、やたら慎重なのだ。全く、いつもは「ひゃっはー」とか馬鹿みたいに騒いでるくせに。
「…原因を探るのは賛成だが、何かヤバいぞ、ここ」
「ヤバい?どんなふうに?」
セイタには分からなかった。デッキブラシ程、こういう勘は良く無いのだ。
「何だろうな、うまく言えんが…混ざってる感じだ」
「?…まあ、元は人が運営してた訳だし」
「ああ。兎に角、三区の呪いの根源はここで間違いなさそうだ。セイタ、いつも以上に気をつけろよ」
「…わかった」
工場にドンドンと金属を殴る音が響き渡る。何度か衝撃が走り、扉がやっと開いた。セイタ達がそっと覗き込めば、中はシーンと静まり返っていた。
「……見た感じ、普通だな」
セイタたちが足を踏み入れたそこは、机が幾つも並べられ、床には書類が無数に散らばっていた。ここは恐らく事務所か何かだったのだろう。そこから、扉を開け、長い廊下を進んで行くと、いつの間にか工場の生産プラントの中枢にまでたどり着いていた。生産途中の義手や義足が、天井を伝うレールから規則正しく吊るされ、今にも動き出しそうなほど不気味な雰囲気を醸し出していた。
「……」
コツッとセイタの足元に何かが当たる。天井から落ちてしまったのだろうか。それは一本の義手だった。徐に手を伸ばせば、それは思ったより軽くて、妙な感じがした。
「……腕だけ呪いにかかる事ってあるのか?」
「何だ、知らないのか?一般的に呪いの進行は身体の末端から始まるんだぜ」
デッキブラシは答えてくれた。なるほど。だから、義手や義足のパーツが多いのか。
「へぇ…」
セイタが普段暮らしている二区にいるのは、完全に異形化した連中か、呪いに耐性を持つごく一部の人間だけだ。噂では異形化と言うものは、進行に個人差があるらしいのだが、考えてみれば、セイタは今まで半端な異形を見たことが無かった。
「切り落とせば、幾らか進行を止められるらしいぜ。ま、呪いってのは個性があるもんだからな。それでどうにかなるかは人による」
「ふーん」
「こえーぜ。段々と自分が自分じゃなくなる感覚ってのは。お前さんも、いつかこの苦しみを味わう日が来るぞ。ずっと先の事だろうがな」
「…俺も、いつか異形になるのか」
セイタは拾った義手をまた床に戻した。
「いくら耐性持ちでも、業に塗れて溺れれば、皆そうなる。ま、掃除屋でいるうちは大丈夫だろ」
「業、ねぇ」
ふと、カタカタと背後で音がする。
「これもか」
セイタがデッキブラシを自身の背後に力強く振ると、人影にヒットした。思ったよりも軽い感覚に驚いた束の間、それは壁に吹っ飛ばされていた。
「うっわ、気持ち悪りぃな」
デッキブラシが騒いでいる。白く舞う埃の中から、頭が半分潰れた男が立ち上がり、ゆっくりとこちらへ向かって来た。
「見ろよ。ありゃ異形より酷い」
生身の部分はどれだけ残っているのだろう。彼が歩くたび、カチャ、カチャと機械的な音がする。男の目は焦点が定まっておらず、生きている様には見えなかった。
「まるでゾンビだな」
「ああ、完全死んでる。人でも異形でも何でもない。あいつには魂がねぇ」
デッキブラシは言う。
「念だけで動いてるみたいだ」
デッキブラシは毛束を鋭く尖らせた。
「ちゃちゃっと終わらせよう」
セイタはブラシを構え、それから床を力強く蹴り上げた。その瞬間、男はまるで蜘蛛のように四肢をまげ、両手両足を地面にベタリとくっつけると、素早く飛び上がる。空中で関節を自由に回し、襲ってくるセイタに、力強い回し蹴りを当ててきた。
「つッ!」
「おい、左」
「うわっ」
咄嗟にデッキブラシがセイタを引っ張ったおかげで転んだが、男の拳がクリーンヒットするのだけは間一髪で避けられた。セイタは、尻餅をついた次の瞬間には、腰を捻り、男の顎を思いっきり蹴り上げた。
「ぐっ」
その衝撃で、男の頭は機械仕掛けの体からすっぽ抜け、高く吹っ飛んでいく。途端に、身体の方は力を失い、バタリとその場に倒れてしまった。
「……きっしょ」
「危なかったな、セイタ」
「何だよ、あれ」
「…さあな。でもまだ、気を抜くのは早いみたいだぜ。居るぞ」
気がつけば、カチャカチャと何かが動きまわる音が至る所から聞こえてきていた。さっきまで、こんな気配は無かったのに、一体どれだけの数が潜んでいたのだろ。
「落ち着け、セイタ。お前さんと俺なら大丈夫だ」
「ああ、分かってるよ。よろしく頼むぜ」
セイタは半人半人形の群れを前にデッキブラシを構えた。
*
「っつぅ…」
脇腹を押さえながら、壁伝いにセイタは歩を進める。またカタカタと勝手に動きかけた義手や義足を踏み潰し、ただただ、奥へと突き進んだ。
「にしても、やたら多いな。こいつら一体何なんだ?これも呪いの影響か?」
もう殆どが壊れて動けないのに、それでもセイタの足首を掴もうとしてくる。手だけで飛び掛かってくる奴らは、デッキブラシが蹴散らしてくれていた。
「何だろうな。まるでこっちに行かせない様にしていると言うか…」
その時ふと、角を曲がったところで、妙な扉が目に入った。そこにあったのは、重厚な円形のガラス扉。その分厚いガラス扉を通して、部屋の奥には、白くて大きく淡い光を放つ物が見えていた。
「……これ、呪よけの護符?」
セイタはガラス扉に刻まれた細やかで鮮やかな紋様をなぞった。すると、背後からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。おいおい、勘弁してくれよ、と振り返えれば、そこに現れたのは奴らでは無かった。
「は?…あんたら」
「噂の二区の掃除屋だな。悪いが、この先は我々の方で対処する。君はここまでで良い。ご苦労だった」
全身を覆う分厚い防護服。呪よけの紋様が細かくびっしりと刻まれていた。
「誰だよ。いきなり何だ」
「西インプラントファクトリーの科学班だ。この先は我が社の機密事項に大きく関わっていてね。即刻立ち退いて頂きたい」
黒いフィルターのせいで顔も見れない誰かが言った。随分と威圧的な態度だ。
「…掃除はここまでって事?」
「そう言うことになる…」
「……」
セイタが黙ると、妙な空気が流れた。相手もこちらの出方を伺っているらしい。そんな中、なんとも珍妙な声が沈黙を破る。
「そっりゃ、おかしな話じゃねーか?」
「なっ、何だ、誰だ!?」
科学班の連中はこぞって慌てふためいた。まさかその声が、デッキブラシから放たれているモノだとは思いもしなかったらしい。
「俺たちは、あんたらの社長から“原因を突き止めてくれ”って言われてんだぜ?機密があるなら最初から、“ここから立ち入るな“なり忠告ぐらいするだろ?」
「デ、デッキブラシが喋ってる!」
「いや、待て!異形を素手で触って大丈夫なのか!?」
「皆んな、落ち着けよ」
「…喋るブラシを見るのは初めて?」
セイタがそう聞くと、彼らは少しばかり冷静さを取り戻した。全く、偏見ばかりで嫌になる。同じ人間なのに、セイタの中で嫌悪感が増した。すると、彼らのうちの誰かが、恐る恐る尋ねてきた。
「君は平気なのか?」
「……さあ?元々こう言う体質でさ」
ブンっと風を切り、セイタはデッキブラシを彼らに突きつける。連中は思わず足を退き、セイタの鋭い視線に息を詰まらせた。
「な、何をする!?」
「質問。その防護服」
「…は?」
「それは西インプラントから支給されてるの?」
「……」
彼らは互いに顔を見合わせ、それから1人が答えてくれた。
「…これは特別性だ。西インプラントでも我々科学班だけが着ることを許されてる」
「質問の答えになってない」
セイタは食い気味に言った。
「それに刻まれてる護符、それは天仙のものだ。八区が絡んでるって事?」
「なっ…」
「ん?」
「…そうなのか?天仙って」
「お前、知ってたか?」
「まさか、冗談だろ?」
反応は様々だった。彼らのうちの何人かはセイタの発言に素直に驚いている様だった。だがもちろん、それを承知の者も居たらしい。
「ふっ。流石に、従順な耐性持ちを揃えるのは楽じゃないよね」
セイタは鼻で笑った。
「お前、何者だ」
「…二区の掃除屋だよ。今回は西インプラントの社長の依頼でここにいる」
セイタはデッキブラシを更に奴らに突きつけた。そもそも、おかしいと思っていたのだ。“二区の唯の掃除屋“に社長が直々挨拶するなんて。すると手の中のブラシは「キキキッ」と不気味に笑う。
「こいつは仕事熱心だからな」
「ああ、俺を止める権限が有るのはボスと依頼主本人だけだ。それ以外の命令には従わない」
「…はっ。立ち退く気は無いってことか。なら、力づくだ!」
科学班の連中が一斉にセイタに襲いかかってきた。幾らセイタが手負いとは言え、相手はさっきの半人形の連中とは比べ物にならないならないぐらいトロい。ブラシで服を傷付ければ、呪いに身体が耐えられず、手や足が変形し始め、彼らは痛みに苦しんだ。
「うわっ!腕が!!」
「ひっ、ひいいい!」
そんな仲間の姿に臆したのか、何人かは逃げ出す始末。それでも、セイタに突っかかってくる奴がいた。
そいつは、ブラシの針を金属音のする拳で何度も跳ね返してきた。
「くっ!!」
「おら、どうした!?二区の掃除屋って言っても大したこと無いねー!!」
どうやら彼の腕は鉄か何かで改造されているらしい。パワー系で押されるのは、セイタはめっぽう苦手とする戦術だった。おまけに半人形との戦闘後で身体が痛くて、いつもの様に柔軟な動きが出来ない。一度重いパンチを喰らえば、そこからはなし崩しに、男の拳を連続で喰らった。
「うっ!!」
「おい、セイタ!!!」
デッキブラシが叫ぶ。いつの間にか自分の手から離れてしまっていたらしい。朦朧とする意識の中で、男がセイタの胸ぐらを掴んだ。霞む視界の中、男の顔が露わになる。
「あんた…科学班のくせにゴツい顔してんな」
片目が半分機械仕掛けだ。セイタとの戦闘で防護服もやぶけて、肌が剥き出しになっていたが、彼が呪いで苦しんでいる様子は見られない。彼もまた、相当な呪いの耐性の持ち主である事がよく分かる。
「まあな。天仙の元で働くってのは楽じゃねぇーのよ」
「…ははっ。そりゃそうだ。呪い如きに負けてるようじゃ、奴の部下は務まらないもんね」
「何だ、知ってる口ぶりだな。ひょっとしてお前、“天下り“か?」
「…“天下り“?そんなんじゃねぇよ」
セイタは笑った。
「俺は最初からあの場所には相応しく無かったってだけだ」
「はあ?」
「………」
反応がない。男は「おい」と試しに呼びかけてみたが、少年はそれ以上、口を開くことはなかった。やっと気絶してくれたらしい。男は彼の胸ぐらを手放した。
「さて」
振り返ると、腕の呪いが進行している仲間が1人。息はあるがぶっ倒れてる奴が2人。他は皆んな急激な呪いの進行に耐えられず死んだか、逃げたらしい。
「うう…班長…」
唯一意識のあるそいつが、縋るように泣いている。男はため息をついた。
「あーあ、ほぼ全滅だな」
「うう、うううえ」
「あああ、泣くなよ。取り敢えず、俺は中を確認する。待ってろ」
男の部下は右手を押さえながら頷いた。男はニコっと笑い、ガラス扉の護符をなぞる。すると、プシューっと音を立てて、扉が開いた。
男がその部屋の中に足を踏み入れると、ズシッと身体が重くなる感覚に襲われた。
「おっと…こりゃ思ったより具合悪いね」
瘴気の濃さが、比べ物にならない。その原因は明らかだ。目の前にある淡い光を放つ繭。
「…くっそ」
歩を進めようにも、重くて足が上がらない。全力で拒絶されているのが、痛いほど肌から伝わる。
“来るな”
声が頭に直接響いたその時、男は一瞬で身体中の血管が浮き立つのが分かった。束の間、右半身から木の若枝が何本も伸び始めた。
「ぐわっ!!!ちっくしょう!!」
男は体から生えた枝をポキポキと折り、投げ捨てた。痛みでどうにかなりそうだったが、ここで退くわけにはいかなかった。
「何としても、持ち帰るんだ」
“嫌、やめろ!触るな”
また頭の中に声が響く。ハッとして、セイタは起き上がった。
「おい、何してる!!」
男が今まさに淡い光を放つ繭に触れようとしていた。
「うおおおおおおー!!」
男が繭に指を食い込ませた。強い閃光と共に叫び声が頭に響く。
キャアアアアアアアアア!!
「うっ!!!」
その声のあまりの甲高さに思わず耳を塞いだが、結局は意味のない行動だった。悲鳴はセイタの頭の中に直接響き、強い耳鳴りと頭痛を引き起こした。
「ぐっ!!うわあああ!」
*
気がつけば、その場は静けさに包まれていた。セイタはハッと意識を取り戻すなり、慌てて辺りを見渡した。デッキブラシが壁際で伸びてる。痛みに耐えながらも、彼の元へとすぐ様駆け寄ると、ブラシもちょうど目を覚ました。
「な、何だったんだ、今の声…」
どうやら彼らが気絶していたのは、ほんの一瞬で、それ程時間は経ってないらしい。
「良かった、ブラシ、無事か?」
「ああ、平気だ。それより…」
ブラシの声から緊張が伝わる。ふと、振り返ると、破れた繭の側に、金色の髪が特徴的な3,4歳ぐらいの少女が突っ立っていた。
「悲鳴の正体はあの子か…」
「あいつ、頭になんか付いてるぜ。角?」
「みたい…だな。鹿か何かの異形か?」
「鹿は繭からは生まれないぜ、セイタ」
「異形だって繭からは生まれないだろ」
「…まあ、そうだな」
無表情なその少女は側に倒れる男をじっと見つめていた。男は耳から血を流し、その身体からは若木が何本か伸びていた。ぴくりとも動く様子がまるでない。死んでしまったのだろうか。
「……そういや、呪いの瘴気が消えてる」
ブラシの言葉に、セイタは目を点にする。
「そうなのか?」
「この鈍感め。もう少し勘を鍛えろ。あのガキが現れてから空気が一変したろ」
「まあ、…そうだけどさ」
この時、2人は油断していたのだ。床で伸びていた科学班の1人が目を覚まし、彼らの背後で這いずっていた事など、まるで気にも留めて居なかった。突然、その場に緊急アラームが鳴り響くまでは。
—情報保護プログラム施行—
—情報保護プログラム施行—
「なっ、何だ!」
建物内全部が真っ赤な光に一変し、甲高い音がなりひびく。
—まもなく、工場は爆発致します。職員は避難経路ち従い、速やかに脱出して下さい—
「は!?爆発!?」
—爆発まで10分—
「おい、セイタ、逃げるぞ!!」
「わ、分かった……、って待て!」
一瞬逃げ出そうとしたセイタは、慌てて振り返る。真っ赤な光に包まれて、今にも泣き出しそう顔をしながら、不安げに辺りを見渡す少女がいた。
「あ、おい!!」
デッキブラシの呼びかけも聞かず、セイタは少女の元に駆け寄り、サッと彼女を抱き抱えた。その時、足元で倒れてる男の事も少し気に掛かったが、ブラシの「おい、早くしろ」と言葉でセイタは走り出していた。
アラームが鳴り響く建物内を、セイタは全速力で駆け抜ける。やっと外に飛び出し、柵を越えようとしたその時だった。
背後から腹の底を震わせるような爆音と突風がセイタ達を襲った。
「うわっ!!」
あまりの衝撃に耐えられず、セイタ達は柵ごと宙に吹っ飛ばされたのだった。
赤く燃え上がる炎。途端に、街中に鐘が鳴り響いた。
—火災が発生しました—
無機質な音声が街中から聞こえる。夜の三区では、バーチャル表示の看板が全て、火災警報の情報に変わった。
—場所は北街、工業地帯。
以下の地域の住民は、直ちに避難を開始して下さい。
北1,4,5丁目地域の皆さん。避難場所は東3丁目公民館です
繰り返します—
「ちっくしょう」
宙から落ちてゆくセイタは、少女をギュッとさらに力強く抱えると、建物の物干し竿にデッキブラシをひっかけ、落下の衝撃を和らげた。つもりだったが、物干し竿は重みに耐えきれず、ボキッと折れて、そのままなし崩し的に色んなところに引っ掛かっては落ちを繰り返し、セイタ達はやっと地面に尻餅を付いたのだった。
「いってぇ…」
幸い、落ちた先がゴミ捨て場だったから骨折は免れたが、痛いことには変わりない。やっと起きあがろうとした時に、空き缶がまたセイタの頭の上にコツンッと当たった。
「てっ…この野郎…」
そして、ぽつりと落ちてくる水。
「…なんだ?」
それから、急にザーッと無数の水の粒が三区の街に降り注ぎ始めた。
—只今より、消火プログラムを開始します。
北街、及びその周辺地域は天気:豪雨になりますので御注意下さい—
「…は?」
何処かで換気扇が動き出すような音がした。ガチャっと何かが噛み合い、ウィーンという機械的な回転音。それも特大の、だ。
「ヤベェ!!セイタ、走れ!!」
「っ!!」
突然の北街を巻き込む嵐の中、セイタは全力で駆け抜けた。痛みなんかどうでもいい。今は逃げるのだ。
この時、セイタは逃げるのに必死で気付いていなかったようだが、目撃者によると、その日、三区北街周辺上空に一瞬だけ竜巻のような物が姿を現したらしい。その後、直ぐに火災は鎮火され、事なきを得たのだった。だが、三区にとって忘れられない歴史的な1日になった事には違いない。
*
「——んで、随分とやってくれたねぇ。まさか三区に雨を降らすとわ」
ボスは朝刊を読みながらケタケタと笑う。因みにこの笑いは機嫌が悪い時のヤツだ。
「君になら出来ると思ったんだけどねぇ」
「す、すみません」
事務所に戻ったセイタ達はボスにこっ酷く叱られていた。デッキブラシもバツが悪そうに毛束を萎びらせている。
「本当だよ。ただ“掃除“するだけが、工場爆破して街に火災まで起こすなんて!君はテロリストなのか!?」
「いや、そんなつもりじゃ」
「当然だよ!意図的にやってもらってたまるか!!」
ボスは朝刊をテーブルに叩きつけ、食い気味に怒鳴りつける。セイタ達は肩をすくめた。
「…まぁ、幸い、損害費用は全額西インプラントが負担してくれる事になったけど、うちは依頼料の受け取り辞退したから。今月の給料無しだよ、君」
「えっ!そんな…困ります!!それじゃ家賃が払えない!」
「そんなものさっさと引き払いな。宿無しの間はここに住めばいい。その子と一緒にね」
「…え?」
なんか、思っていたのと違う。
拍子抜けして、言葉を失うセイタ。すると、角ありの少女が、足元にしがみ付きながら顔を覗かせた。
「…せいた」
「……って、はーっ!?ボス、この子の面倒はボスが見るって」
そうだ。それはあの爆発から逃げ切った後、ボスに状況を連絡した時の事だった。
*
『何、繭から異形が?』
「ええ。見た目は殆ど人間っぽいんですけど、鹿っぽい角が生えてて…」
北街の惨状からやっと逃げ切り、隣街で見つけた公衆電話から、セイタが手短にこれ迄の経緯を説明すると、電話越しのボスは少し思うところがあったようだった。
『……』
「ボス?」
『…分かった。君は病院寄ったら真っ直ぐその子と事務所帰って。依頼人には私から報告しておくよ』
「え、でも、良いんですか?この子、呪いの発生源にいたのに…」
『うーん…。因みに、今は周りに影響ないんだよね』
「はい…多分」
『なら、どのみち先方に引き渡しても、三区の異形街か、二区に捨てられるだけだろう。だったらうちで面倒見た方がいい』
三区の異形街。その言葉を聞いて、セイタは先日のゴミ箱の中身を思い出した。確かに、あんな事が起こるなら、二区で身の安全を確保した方がこの子の為な気がした。
「……わかりました」
*
と、そんなやり取りがあった訳だが、ボスは端から自分で面倒を見る気はこれっぽっちも無かったらしい。
「私は“うちで面倒みよう”と言ったのだ。“私が“面倒をみるとは一言も言ってないよ」
「そんな屁理屈、通用しませんよ!!」
セイタが抗議すれば、ボスは顎に長い指を当て、意味ありげに宙を見上げる。
「ふーむ。ならベビーシッター、月給600レイでどう?」
「ろっ…」
セイタの頭の中でジリリリリとメーターが動く。1からゼロへ、9から1へ。そしてチーンと鐘が鳴った。
「くっ…足元見やがって」
「社宅付きだよ?水道光熱費込み」
雑面がグッとセイタを覗き込む。
「社宅って…この事務所の事ですよね?」
うちにそんな社宅を所有する余裕が無いのは前々から分かっている。じゃなきゃ、態々異形を雇って異空間に事務所を経営するわけが無いのだ。
「そうだけど、何か不満が?風呂トイレ完備だし、簡易キッチンもある。君の風呂無しアパートより良くない?」
「…」
確かに。実際、金に困っているセイタにとっては、悪くない条件だった。
「あ、もしかして君、銭湯派?やっだ〜」
「ぐっ…」
おまけにボスに便乗するつもりなのか、自分よりずっとずっと小さな手が、ギュッとセイタの手を握りしめてくる。
じー
っとつぶらな瞳でこちらを見つめる3、4歳児。雑面に見つめられるよりはずっとマシだろうか。いや、寧ろ、この手を手放すのは良心が痛むと言うか、なんかもうこの手の小ささとか、かw……!!!
「…わ、わかりました」
勝てなかった。セイタは押しに弱かった。
「よーし、決まりぃ!じゃ、この部屋、当分の間は自由に使って良いからね」
セイタが承諾するなり、人が変わったように雑面はクルクルとご機嫌にステップを踏む。
「いやぁー、助かったよ。私、実は子守って苦手でさ。じゃ、セイタ、よろしくねー!あ、でもこれまで通り、掃除屋の仕事はするんだぞ!なんたって、鉄道会社から追加請求来てるから!」
「は!?」
「じゃ、またねぇ!」
「ちょっ!」
バタンと勢いよく閉められる扉。セイタが後を追って再び扉を開けた時には、二区の寂しいガラクタ街が広がっていた。そこにボスの姿は当然のように無い。
ヒューっと吹いた風が空き缶を転がしてゆく。
「…逃げやがった、あいつ」
また、袖を引っ張られる。視線を下げると少女は両手をセイタに差し出していた。
「ん」
生意気そうな目。彼女はまだセイタをじっと見つめていた。
「んって…なんだ?」
もう最悪だ。給料は入らないし、家は引き払わなきゃいけないし、その上、鉄道会社からの追加の被害請求…。
「んっ!!」
そして、子守りもだ。
「わっかんねぇーよ。なんだ?」
「抱っこじゃねぇか?」
デッキブラシが言う。
「は?抱っこ?……なんで?」
「良いからしてやれよ」
「……はぁ」
訳が分からないが、セイタは取り敢えずしゃがみ込み、少女を持ち上げてやった。すると彼女は嬉しそうにキャッキャと笑う。
「…気に入ったみたいだな」
「…」
デッキブラシがそんな事を言ったが、冗談じゃない。それにこの角、結構硬くて痛いのだ。気をつけないと目玉に刺さりそうになる。
「くっそ…おい、暴れるな!んで、お前。名前は?」
「ん?」
キョトンと目を丸くして首を傾げる少女。
「……まあ、ある訳ないか」
思い返して見ればこいつは繭から生まれたばかりの異形なのだ。繭から異形が生まれるってのも可笑しな話だが。
「取り敢えず、これからよろしくな」
「わあっ…うん!」
何がそんなに嬉しかったのだろう。少女はニコッと笑い、セイタの首元にギュッと抱きついた。お陰で彼女の角がセイタの頭に食い込んだが、無碍にもできずセイタはただ耐えるしか無かった。
*
分類:異形
種族:鬼?
性別:女
名前:???
常夜の街、二区。
この日、噂の掃除屋に新しい家族ができたのだった。
「役所の手続きってどうすりゃ良いんだよ…」
早速困難にぶち当たっているようだが、こんな感じで、少年と少女の新生活が始まった。
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