第2話
「三千円を返すよ」
「それじゃあ、僕もお借りしていた小説を返しますね。面白かった」
僕たちはバーのカウンターで飲んでいる。
あのレストランでのやりとりから、早くも一年が経過していた。
結局、僕は有馬君の名刺に書かれた連絡先に電話を掛けて、二千円を返してもらった。有馬君は渋ることもなく、財布の中からなるべく折れ目のついていない千円札を選んで手渡した。その日はガールフレンドとの約束もなく、せっかくだからと有馬君を飲みに誘った。
「いいですね。近くに焼き鳥が美味い店があるんですけど、どうですか?」
有馬君の薦めで、僕たちはその夜、居酒屋でビールを飲み、焼き鳥を食べた。財布に戻ってきた二千円を含めて手持ちには余裕があったが、会計は有馬君が立て替えた。
それ以降、僕たちは借りた金を返すという名目で、時々、思い出した頃にどちらからともなく連絡をし、一緒に酒を飲んでいる。その一年の間に僕はガールフレンドと別れ、有馬君も女の子と付き合って別れた。僕は親知らずを抜いて、有馬君はブランド物の鞄を買った。牛革の凹凸が、アルマジロの鎧のように見える鞄だった。
有馬君から返された小説をぱらぱらとめくって閉じる。この場で感想を語り合えるほど、小説の内容は覚えていなかった。
「今さらだけど、僕が初めて有馬君に金を貸したとき、本当は君、払えたんじゃないの?」
「おっと、突然痛いところを突いてきますね。そんなわけ、ないじゃないですか」
有馬君は、ははと愛想よく笑うと、「なんちゃって」と続ける。
「てっきり、ばれてるものだと思ってましたよ。今さら訊いてくるだなんて、むしろ意外です」
「どうして、あんなことを言ったんだい?」
「ああ、それはですね」
有馬君が語るエピソードは、僕がすっかり忘れていた内容だ。僕はあの日、当時付き合っていたガールフレンドと三回目か四回目かのデートで、気合いは入っていたが、緊張の方は当初と比べるとだいぶ薄らいでいた。だから、周りに目を配る余裕があったのだろう。彼女をウエイトレスに指定された席にエスコートする途中、客席に座ってうずくまっている中年男性の脇を通過した。よく見ると、彼は盛大に鼻血を出していて、テーブルの上の紙ナプキンは既に使い尽くしてしまっていたようだった。
僕は、ポケットからハンカチを取り出して男性に手渡した。そのハンカチが、ガールフレンドからの贈り物だったことは、それが血染めになってから気がついた。そのことがきっかけになったかどうかわからなかったが、以降、デート中のガールフレンドは終始どこか不機嫌だった。
「俺もちょうど、あなたたちのすぐあとくらいに店に入って、席に案内されるのを待っていて。見てたんですよ。それで、この人は良い人だなとしみじみ感心して」
「彼女の前だから良い人ぶっただけかもしれない」
「俺、良い人ぶってる人も好きですよ」
この青年は若いなと思う。少なくとも今の僕には言えない科白だ。
「感心されるほどでもないよ。ただ、頭が足りなかったんだ。レストランなんだから、他に拭くものはたくさんあったし、ただウエイトレスに知らせるだけでよかった」
「いいじゃないですか。咄嗟に手が出るってやつでしょう?」
「改まって言葉を言い当てるほどの行動じゃないよ」
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