恋航路
二十三時半。約束の時間ぴったりに現れたさとみは、軽装の上何一つ荷物を持っていなかった。いつもの薄手のワンピースにカーディガン。彼女の軽装は、このまま島外に出る気などさらさらないことを示していた。浮き立っていた俺の心は一気に冷え込んだ。拍子抜けして、ダッフルコートを脱いでさとみに手渡す。
「寒いだろ。着なよ」
「いいの?」
「別に。船の中は暖房効いてるしな。さとみはこれで何か買ったら」
財布を取り出し、ぶっきらぼうに百円を手渡す。取り落としそうになったさとみがこちらを見る。その視線にまた苛立ちが募った。夜風にせかされるようにして、早足で逃げ出した。
「乗船券買ってくる」
――俺は本気だったんだぞ。
艶やかな黒髪の大学生、さとみ。大学の入学式で出会った彼女に、俺はずっと焦がれていた。
『逃げ出そうか』。
恐る恐る切り出した言葉にさとみが頷いてくれた時、死んでもいいとすら思った。お互い以外、自分のことを誰も知らないところへ行こう。淡い夢に浸って、薄暗い部室のすみで青地図を描いた。
しかし現実はこれだ。やはり彼女は高嶺の花のままだったのだ。
使い古しのコートと、百円の飲み物。安い餞別だが所詮この程度の関係だったのだろう。浮かれて舞い上がっていた自分が馬鹿みたいだ。
田舎町のさびれた港、しかも三月末の深夜とあっては人通りも少ない。どす黒い海が静かに波打ち、空回ってばかりの俺を嘲笑していた。たどり着いた券売所では、やつれたオヤジが一人でラジオを聴いていた。奥に佇むさとみと俺を見比べにやつく。
「若いねえ」
「見送りです。ただの」
苦い気持ちで吐き捨てた。
「乗船券。おとな一枚」
オヤジはつまらなさそうに紙入れを手渡す。無神経もいいところだ。
窓口から離れると、さとみがおどおどと駆け寄ってきた。
「さっきのお金、返す。これから色々と入用だろ、少しでも取っておかないと」
「……もうじき船が出るな。俺はもう行くよ」
荷物を抱え、乗船口へ向かう。さとみが大袈裟にたじろいでみせた。
「寒いね」
乗船口で券を手渡し、ゲートをくぐる。当然のように続こうとしたさとみが呼び止められ、顔を硬直させた。
「か、彼が、持ってないんですか」
「は? さとみ、来ないんだろ? 荷物もない、まだ寒いのに防寒はしない」
さとみの目がにわかに潤みだす。
「――そんなふうに思ってたの。だからさっき冷たかったんだ。何も持ってないなんて当たり前でしょ! 新しい生活を始めたくて来たんだから! たかが見送りのために、こんな深夜に、こんな港に、こんな格好で来ないし」
彼女の声には、少しづつ嗚咽がまざってきた。さとみの声が、ほぼ無人の場に響き渡った。
やっと分かった。すべて俺の勘違いだったのだ。荷物が無かったのは、俺との生活に新しい生活に気持ちを切り替えるため、飲み物代の百円を取っておいたのも……。
「荷物持ってなかったから、それで俺、てっきり……」
「ばかぁ……っ」
さとみが涙目でこちらを睨む。明らかに拗ねていた。
「――すみません!」
ゲートを乗り越え、さっきの券売所へ走る。後ろからさとみが呼び止めるがもう構わなかった。さとみの分の乗船券を買わなければならない。くだらない勘違いで裏切った彼女に、もう一度告白するために。
「大人一枚! 追加!」
オヤジは振り向くなり目を輝かせた。代金を叩きつけると、乗船券のついでに未開封のココアが投げつけられた。驚いてオヤジを見れば、
「祝いだ。たまにオマエみたいな奴に会えるから、この仕事はやめられねえ」
オヤジがキシシと笑う。彼がココアとともに何を託したのかが伝わってきた。
「必死な姿なんざ無様なもんだ。彼女に笑ってもらうこったな」
「笑わせてやるさ」
乗船を促すアナウンス。さとみは、――立っていた。
「さとみ! さっきは悪かった!! さとみのぶんの券だ!」
肩で息をし、周りの目など気にせずに吐き出す。
「俺と一緒に来て下さいッ!!」
風を切って頭を下げる。
さとみは身じろぎして、それからこちらへ駆け寄ってきた。受け取られる。
「望むところ」
聞こえた。そろそろと顔を上げる。さとみのセミロングヘアが潮風と遊んでいた。その風さえ、今は生ぬるい。心臓がバクバクしている。
「お客様! 早くお入りください!」
「え、でも出港時間は」
さとみが時計を見る。
「まだまだ間に合います!」
その言葉に、さとみを振り返った。細い手を握りしめ、
「――行こう、さとみ」
船内へつき、赤いシートに腰を下ろした。出航のベルが響いたきり、船内は静まり返る。
ほどよく暖房のかかった中にあっても、さとみはコートを脱がなかった。うつむいた彼女の掌には、ぐしゃぐしゃになった乗船券。
今夜は本当によく走り、よく世話になった。あのオヤジにも係員にもきっともう二度と会うことはない。
親切というより情に弱い彼らに、自分たちばかな恋人たちはどう映ったろう。
「さとみ」
もう何度呼んだとも知れない、愛しい名前を繰り返す。彼女の瞳は潤み、涙をいっぱいに溜めていた。雫がワンピースの上に落ちる。
「泣いてんのか」
「ううん。嬉しいだけ……」
「そっか」
泣きながら笑う彼女の手に、自分の手のひらを重ねた。
窓の外は澄まし顔で真っ暗なままだ。水面に揺蕩う故郷の街明かりはぼんやりと滲んで、やがて見えなくなる。もう帰れないという実感が胸をいっぱいにするが、寂寞はない。期待だけがここにある。さとみの髪から、ただ、夢の残り香がしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます