第2話

 僕はますます剣道に熱中するようになった。精神的に落ち着いてきたのは、剣道のおかげだと思っていたし、このまま心の葛藤から逃れたいという気持ちが強くなった。

 実のところ剣道はそんなに好きじゃない。上下関係とかが面倒くさいし、夏場など特に、防具がくさくなるし、単純に楽しいと思えることは少なかった。でも心を落ち着かせるために剣道は必要だった。鬼気迫って練習しているので、顧問の宇野先生に心配された。宇野先生は心優しい、無口な数学の男の先生だ。頭の薄い27歳。生徒に人気がない。

「鈴木……。ちょっと飛ばしすぎ。なにかあったの」

 僕は鈴木耕平(すずきこうへい)という。みんなに鈍いと言われている宇野先生に心配された。でも言葉で伝わらないことが、剣道で伝わるときもある。それに宇野先生は無口なだけで、鈍くない。感情も表に出さないひとだけど、剣道は鋭い。

 僕は小学生のときに剣道で全国大会に出たことがある。全国では2回戦で負けたけれど、腕にはそこそこ自信がある。宇野先生は貧相で細い体をしているけれど、僕が言うのもなんだけれどセンスがある。僕と実力が伯仲していて、対戦が面白かった。僕が言葉に詰まっているのを見て、先生がすまなそうな顔をした。

「いや、ごめん。オレに相談しても、だよな。なにかアドバイスとかも言えそうにないもんな」

 笑えた。先生なのに。正直だし。僕は宇野先生が友達だったらよかったのにと思うことがある。実際、年が離れているし、教師と生徒だしありえない。先生も普段はほんとにつまらない人に見える。人気が無いのもうなづける。

 授業は淡々としていて、冗談もなく、生徒や他の先生ともあまり親しくしていないように見える。それが竹刀を持つと、先生の目に色がつく。このパターンは剣道ではわりとある。一対一の対戦という競技のなせる業かもしれない。根拠はないけど、普段あまり感情を表したり、言葉を発したりしない人ほど、剣道で心がよく見える気がする。宇野先生は尊敬できるし、癒される人だった。

「すみません。説明がしにくいんですけれど、頭でっかちになってる感じです」

「……うん。そうか。そうだな。もし鈴木が嫌じゃなければ、担任の佐々木先生に話を聞いてもらったらどうかな。もちろん無理にとは言わないよ」

 普段、おとなしい宇野先生が言ってくれて、ぐっと来た。断りたくなかった。「そうしてみます」と言ったら、宇野先生がほっとした顔をしたので、僕もほっとした。

 本当は誰かに精神的な話をしたい。でも担任の佐々木先生には言いたくなかった。失礼だけれど、伝わらないだろうという気がするし、よけいな心配をかけるだけだと思った。佐々木先生は佐々木美晴という。女子には美晴さんと呼ばれている。姉御。佐々木先生はいい意味でも悪い意味でも単純な人だった。


 後日、職員室の隣。面談室にて。

「そう。それならいいけれど。わたしも耕平は心配ないと思ってるけれど、耕平、ちょっと考えすぎる性格してるからね。わたしに相談しても無駄だと思ってるでしょ。ごめんね、頼りない担任で」

 美晴先生が困った顔で笑った。常に自分の生徒を気にかけてくれている。申し訳ないなと思った。

「耕平は、いろいろ考えているんでしょう。たぶんね。だから今日は特別ゲストをお呼びしました。桃子先生でーす!」

 ゲッと思った。木下桃子先生。音楽教師。生粋のクリスチャン。生徒に聖書をプレゼントして校長先生に怒られたことがあるらしい。そうでなくても、授業中にキリスト教の話を真剣にしたりして、みんなに恐れられている。若くてかなり美人だけれど、誰も近づかない。そしてなぜか、単純な佐々木先生とすごく仲が良い。佐々木先生はまったくキリスト教に興味はないらしいが、相性がよいらしく、2人は生徒に夫婦と呼ばれている。もちろん佐々木先生が旦那役だ。

 木下先生がニコニコしながら面談室に入ってきた。実は僕は音楽の時間にこの先生になんどか声をかけられている。それも決まって心の葛藤がひどいときだった。耕平君大丈夫?と突然言われて、ぞっとしたものだ。なんで分かったのだろうと思った。僕が悩み深いからだろうか、ずいぶんやさしく接してくださっている。木下先生は、僕になぜかキリスト教の話をしなかった。

「じゃあ、あとは若いお2人で」

 美晴先生がつまらないことを言って部屋を出て行った。


 木下先生が席につくなり言った。

「耕平君。クリスチャンになるのよ。すべて解決するわ」

 これは冗談だ。ユーモアのセンスがあるのだ。そして佐々木先生には悪いけれど、お化粧をして、きれいな洋服をきて、長い髪をしていて、木下先生は美人だなぁと思った。クリスチャンになろうかなと思った。

「僕じゃなかったら、冗談にならないですよ。先生、すごいですね」

「少しは緊張が解けた? わたしは恐れられてるから」

 木下先生がいたずらっぽく笑って言った。

「僕は恐れていません。でも宗教は人を救ってくれるんでしょうか。こう、考えすぎて、自分の存在とか、ひねくれて考えている人間を」

「宗教といってもいろいろあるから。特に耕平君みたいにいろいろ考えている人は、自分で見つけていくしかないと思うの。だって、誰かに勧められてもまず疑問が浮かぶでしょう?自分で納得のいく解決法を、少しずつ探すしかないと思うわ。あせらないで、ゆっくりとね」

「そうですね。僕は今の状態はわりと気に入っているんです。でももっと悪い状態を想像できるし、将来そういうときが来ると思います。だから突然、絶望的な気持ちになるときがあるんです」

「中学生なのにそういう意識になっているのは、ちょっと早いけれど、それはある意味正しいことよ。生きること自体が地獄だと表現している人もいるわ。だから先生は大丈夫よって言わない。言っても耕平君は大丈夫だと思わないだろうし。でもまだ先は長いし、勉強はできるし、もうちょっと落ち着いたら少しは楽しいことも見えてくるかも。言えるのはそれくらいかな?」

 僕はちょっと泣きそうになった。解決の糸口さえみつからないけれど、ただ人に話すということでけっこう救われるということを知った。

「先生。ありがとうございました。あの、また、もしかしていつか、話を聞いてもらってもいいですか」

「もちろんよ。そのための先生なんだから。今度は美晴先生を混ぜてお話しても面白いわね。美晴の戸惑っている顔ってけっこうかわいいのよ」

 木下先生が少し先生の領分をはみ出してきて、やっぱりちょっと怖い人だと思った。でも僕は相談できる人ができてうれしかった。僕は先生運がいいなと思った。

 その日の帰り道。土手を歩きながら思った。僕はこうやって、少し悲しく、時に絶望を感じながら、毎日を重ねていくのかもしれない。悲観的な考え方だけれど僕は、この感覚が気に入っている。それは土手に1人立って夕日を眺めているときのすがすがしさに似ていた。

 宇宙に僕がただ1人。今ここに立っているという自意識。つきつめたらそれぐらい貴重なものもない。それを僕は大切にし続けるだろう。いろんな物事を犠牲にしても。そうせずにはいられない。僕はまだ中学生だけれど、このままだと将来、まともに生活できない人になりそうな気がする。しかしそれを回避する気も起こらない。考えすぎだろうか。

 

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