第3話

 セミの声がうるさい。夏休みに入っている。窓から見える土手の風景がますます美しくて、エアコンで冷えた部屋は快適だけれど、ベランダに出て川の流れに見とれた。

 うちの中学の剣道部は特に熱心でもないので、週に3日しか練習がない。それでも他の部員は、この暑苦しい中で練習をするのが苦痛らしい。一方僕は非常に困った。生活のリズムが崩れると、精神にモロに影響がくる。これほどとは思わなかった。僕が考えていた以上に僕の心は迷走していて、いままでは剣道に集中することでバランスが保たれていたのだ。

 部活のある日は大丈夫。だけどそれが無い日にはだんだん気が狂いそうになった。

 朝起きて、夏休みの宿題を少しやる。昼ごはんを食べる。また勉強をするか、読書をする。べつに勉強が好きなわけではないけれど、なにかしていないとそわそわしてくるのだ。勉強にはあまり集中できない。部屋の中にずっといると、「自分が部屋にいる」という意識がうるさくなった。これはもう病気だ。

 夕方になると土手を散歩する。すると開放されたような喜びを感じて、土手がいつもよりさみしく、そして美しく見えた。危険な兆候だと思った。悲しい気持ちのときのほうが、景色が美しく見えたり、感傷的になる。そのこと自体は好きだ。でもこのサイクルをつづけると精神が持たない。頭がとても疲れる。仕方がないので、部活がない日には土手に出て、竹刀の素振りをしようと思った。


 ちょっと恥ずかしいので、家から少し遠くでやることにした。土手には自転車と散歩やマラソンをする人のための道があって、けっこう往来がある。その人たちから見られるのも恥ずかしいので、川沿いの背の高い草を掻き分けて、川べりまで出た。ここなら誰もいない。釣りをする人も来ないようなところをわざと選んだ。

 準備体操をして、筋トレを少しして。川に向かって素振りを始めた。あきもせずに30分。なんでこんなに落ち着くのか。早くやればよかった。竹刀を振り続けていると、僕の体が僕のものではないような気がしてくる。土手の美しさも、川も、空もなにも気にならない。あるのはただ動いている肉体と、運動している僕の苦しい息遣いだけだ。「心を殺している」という言葉がふと頭に浮かんだ。剣を振るたびに、僕は心を殺しているのかもしれない。もちろん擬似的なものだけれど、僕は攻撃の練習をしているわけで、その相手は僕の心のような気がした。ほんとうに無駄な、馬鹿げた解釈だと思うけれど、僕にとっては必要としか言いようが無い。生きるために、生きることを考えるのを止めようとしなければならないとしたら、人間はなんて不幸な生き物なんだろう。また考えすぎた。とりあえず僕は、今日を生きるために竹刀を振らなければならない。

 休憩を入れながら2時間。疲れて、ようやくバランスが取れた気がする。本当に厄介な性質だ。僕はこの先どうなってしまうのだろう。川べりのコンクリートに座って対岸をぼうっと眺めた。疲れすぎて思考が止まっている。それがとても心地よい。夏休み中、続けようと思った。これが部活のない日の日課になった。


 夏休みも半分過ぎて、お盆休み。両親が忙しくて、旅行にも行かないし、田舎にも帰らない。でも僕はそのほうがよかった。遊びに行っても恐らく心から楽しめない状態だ。そんな孫の姿を祖父母に見せるのも忍びない。剣道部はますますやる気がなくて、お盆休みは練習がなかった。だから僕は例の日課を続けた。

 今日も素振りを終えて一息ついたところ。背後で草をざわざわと掻き分ける音がした。

「ああ、やっぱり鈴木君だったの」

 背の高い女の子だった。

 赤い髪をしている。赤い髪といっても染めているわけではなくて、もともとの色のようだ。天然パーマの長い髪の毛がクルクルしている。この特徴で忘れるわけは無い。同じクラスの別所(べっしょ)さんだった。

「別所さん。どうしたの」

 学校では制服とその髪がアンバランスだった。今日の別所さんは自分の赤い髪に合わせてセンスのよい服装をしていた。こんなにかわいかったかと思った。美人とかそういうタイプではないけれど、いい感じだと思った。

「あの、ほら、川の反対側。オレンジ色の線が入ったマンション。あそこがわたしの家なの。それで、川を見てたら、なんか棒を振っているいるひとがいて、よくみたら鈴木君みたいだったから。ちょっと来てみたの」

「うへ。じゃあ丸見えだったのか。恥ずかしいからここで素振りやってたんだけどね」

「対岸からはとってもよく見えるよ。別にいいじゃない、人に見られても」

「うん。いいけどね。まあでも、なんとなく恥ずかしいから。そうか、見られてたか。場所を変えようかな」

「あああ。ごめん。声をかけなかったらよかったね。でもね、鈴木君、川が好きでしょ?というか土手が」

 感が鋭い人なのかと思った。クラスではほとんど話したことがない。でもなぜかすんなり話ができた。思春期真っ只中で、学校では女子とはほとんど話しができない。でもそれは周囲の目がうるさいだけで、僕はむしろ女子と精神的な話がしたかった。

 君も土手が好きなの?と言おうかと迷った。なぜなら僕が土手が好きな理由はとても抽象的というか、自分の世界観まで関係してくるからだ。伝わるだろうか。

「別所さんも土手が好き?」

「わたしはね、土手が好きというより、土手にたって反対岸を見るのが好き。そうだなぁ。なんて言ったらいいのか難しいけど、土手に立っている状態の自分がほんとうの自分だという気がするの。ただそれだけ。変でしょう?」

 変じゃない。

「土手は特別な場所だよ。思い切って言っちゃうけど、オレ、けっこう精神状態が不安定なんだ。簡単に言うと、土手は聖域みたいに感じてる。なぜだか癒されてる」

「いい言い方だね。土手は聖域。わたしもそう思う。でも意外だったな。棒を振ってる人がそんなこと言うなんて」

 別所さんが笑った。

「僕は今、一応君を信頼して話してる。理由は分からないけど」

 それはね、わたしが土手の精だからよ、と言って別所さんが川に向かってまっすぐに立った。視線は対岸に向いている。でも別所さんは何か別のものを見ているような気がした。そのまま5分。いや、10分はそうしていたかもしれない。

「なんだか分かったような気がするよ」

 僕がそう言ったら、別所さんはこちらを見て、にっこり微笑んだ。素敵な笑顔だった。

「わたしが土手の精だとわかる人は少ないの。鈴木君、中学生なのに不思議ね。小さい子やお年寄りにはわたし、けっこう人気があるのよ。土手のお姉ちゃんとか呼ばれて」

 あらためて土手を背景にしてみると、別所さんと土手に、なにか一体感のようなものを感じた。別所さんとこの土手は深い親密さで繋がっている。言葉にするとうさんくさいけれど、あっさりとしたものだ。本人が精霊と言っているのだから、それにならったほうがいいだろう。

「いきなりだけど、今度デートしてくれませんか。もっと話がしたいよ。オレ、全然積極的なタイプじゃないから、自分でもすごいこと言ってると思うけど。ダメかな」

 土手の精はまた、対岸を見つめている。僕の声が届いただろうか。少しして、彼女が僕を見て言った。

「うーん。デートはダメかな」

 ぐは。がっかりしすぎて、なぜか腹の底から笑いがこみ上げてきた。この内向的な僕があっさり告白して、あっさり断られて。悲しみもない。ただ、すがすがしく残念なだけ。良いチャレンジだったと思う。

「違うの。わたし、土手から離れると元気が無くなっちゃうから、お出かけはしたくない。いいじゃない、今日みたいに会って話しが出来れば。また棒を振ってる鈴木君が窓から見えたら会いに来るから」

 どん底から一気に浮き上がったような喜びが、体中を駆け巡った。でも違う。自分に言い聞かせたい。別所さんと会えるのは嬉しい。単純に女子と話せるのが嬉しい。でも相手は土手の精なのだ。普通じゃない。そして僕も普通じゃない。生きていくためになんとかしたい。そういう話をしたいのだ。いや、でも、やっぱりこれは恋かなと思った。恥ずかしながら。


 土手に素振りに行くのが楽しみになった。別所さんが僕に会いに来てくれる割合は、だいたい3回に2回くらい。僕に会いに来たというより、散歩のついでと言う感じだ。別所さんの住むマンションを真正面に据えて竹刀を振った。元から偶然そうしていたわけだけれど、僕はマンションに向かって竹刀を振り続けた。別所さんに会わなくても、なぜか気持ちが高揚して、以前よりも気持ちよく素振りができているような気がした。我を忘れて竹刀を振っていたら、いつの間にかあたりが暗くなっていることがあって、自分で驚いた。そんなに集中できたことが嬉しかった。

「別所さんは部活に入らないの?」

 我ながら愚問だ。そして別所さんは、僕の声をまるで遠くで聞いていたような、変わった返答をする。

「わたし、クラスであだ名をつけられたのよ。知ってる?」

「クラスの人とはあまり付き合ってないし、知らないな。しかも女子の間の話でしょ?」

「べっしょん。……わたしのあだ名」

 不覚にも笑ってしまった。でも別所さんも笑っている。

「直接には言われないの。クラスの女子の間でそう呼ばれてるらしくて。でもね、わたし、それを知って嫌な気はしなくて、むしろ納得しちゃった」

 別所さんは川面を見ながら話した。達観した大人の顔でもないし、純粋な子供の顔でもないと思う。よく分からない。ただ、すごく透明感があって、きれいな顔をしているなと思った。

「あだ名を聞いたとき、わたし、土手を散歩している犬が、草むらにおしっこをしているイメージがパッと浮かんだのよね。だから、ぴったりだと思って。それと、あだ名をつけてくれるなんて光栄だなと思ったの。人間もかわいいなと思った」

 ぞわっとした。この人は本当に自分を土手の精だと思っている。僕はそれを疑うわけではないけれど、ここまではっきりと言われると、正直ちょっと怖い。

 僕の視線を感じて、別所さんが顔を赤くした。

「あの。一応、土手の精としての意見を言ってみたの。鈴木君ならいいかと思って」

 別所さんはクラスでいつも1人だったような気がする。だから逆に、僕は前から別所さんのことを結構見ていたような気がする。なにか不思議な雰囲気をかもし出していて、気になっていたのだ。

「別所さんと話してると、とても落ち着くよ。直接に世界に触れている気がして。でも客観的に言えば、僕らはどんどん社会から遠のいていくようだよね。こいつはちょっと危ないのかな」

 なにか真実に触れている。別所さんがそれをどう思っているのか知りたかった。でも別所さんは具体的なことはあまり話さない。

「鈴木君は頭がいいね。わたしは鈴木君みたいに考えられない。感じたことを、ただそのまま話すだけ。うーん……」

 今日はもう帰るね、と言って別所さんは草を掻き分けて行ってしまった。土手の精だった。土手の精に、人間の質問をしては駄目だったと僕は思った。いや、別所さんも人間だ。人間なのに。

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