土手はさみしい

ぺしみん

第1話

 土手が好きだ。


 僕は小学校を卒業したタイミングで、西東京の多摩市から、この荒川沿いの高層マンションに引っ越してきた。両親はどうしても東京23区内で生活がしたかったのだと言う。父と母は東北地方の出身で、若いころに上京してきて東京で就職をした。2人とも田舎育ちだけれど、東京の下町が大好きだった。

 仕事や経済の関係で、僕が生まれる少し前から、都心から離れた郊外に暮らしていた。そして今回、念願かなって23区内に戻ってきたというわけだ。うちは共働きとはいえ、金持ちでもないので、よい場所を探すのに相当苦労したらしい。交通はやや不便だけれど環境がいい。都心に近いのにこんなに緑があふれる場所は、土手沿いをおいて他にないと思う。比較的マンションの値段も安かったらしい。似たようなマンションが荒川沿いに立ち並んで、小さな建設ラッシュみたいになっていた。

 窓からはいつも川の流れが見える。自転車で15分も走れば、下町の商店街で買い物もできた。両親はとても幸せそうだったし、僕もすぐにこの場所が好きになった。

 20階建てのマンションの14階に我が家はあって、毎日エレベーターに乗って家をでる。新築のマンションだし、まるで僕はいきなり未来的な生活が始まったようでわくわくした。でも新品なのはマンションだけで、その周りには昔ながらの木造の家や、町工場が立ち並んでいて、しっとりと落ち着いた下町の情緒を残していた。それも僕は好きになった。機械で金属を叩いたり切り取ったりする甲高い音や、一服している職人さんの姿に、なんともいえない風情を感じた。


 中学校の入学にあわせて引っ越したので、転校生という扱いはなく、もちろん知った顔は1人もいないのだけれど、学校にもすんなり溶け込めた。僕の中学校は商店街のど真ん中にある。両側にお店を数えてアーケードを進んでいくと、学校の正門が見えてくる。学校は商店街の一部になっていた。

 登校するときには商店主の方々に挨拶をして、下校するときには夕飯のお使いで買い物をして帰ったりする。両親が下町が好きな理由が分かったような気がした。人がみんな温かくて、顔見知りがどんどん増えていく。暮らしやすいところだと思った。

 学校のとなりが肉屋さんで、お昼時になるとコロッケやハンバーグのいい匂いがしてきて、お腹が鳴って困った。先生も決まって腹が減ったなぁと言う。そうするとクラスのみんなも困ったような顔をして、窓から外を見つめた。なごやかな雰囲気のクラスだ。

 担任の佐々木先生は地元といってもいいほど近所の町の出身で、いわゆる下町っ子だ。口は悪いけれど情が深い。江戸っ子とも言うのだろうか。きっぷがいいので男みたいだけれど一応女性だ。きれいにしたらけっこう美人だと思うけれど、お化粧もしないので常にもったいない感じがする。遅刻もするし、そんなときは髪の毛がぼさぼさの時もある。「みんなごめんねー」と言いながら、急いで生徒の出席を取っていると、委員長がしょうがないなぁといった感じで、髪の毛をとかしてあげている。ほほえましいクラスだった。


 平和な日々が過ぎていく。僕はこの平和が本当に貴重なものだと思っていた。というのは、僕は小学校の高学年のころから自分の内面に葛藤があって、精神的な苦しみを知るようになっていたからだ。理由はよく分からない。でもそれが人間として成長していく上で避けられないものだと僕は思った。

 自分がこの世界に生まれて、存在していることの不思議。それが頭から離れなかった。考えれば考えるほど答えは出ない。自分の自我意識に押しつぶされそうになる。友達は何人かできたけれど、そういう抽象的なことを話せる相手はいなかった。僕はひとり自分だけ、少し異常なのではないかと思うようになっていた。

 まだ東京の郊外に住んでいた時分、ランドセルを背負って冬の冷たい校庭をじっと見つめていた。僕は小学5年生だった。僕は一生こうやって、頭の中の葛藤に苦しめられていくのだろうと、心の底から思った。なぜか確信を持ってそう思った。その時の気持ちと、風景は一生忘れない。僕が僕になった瞬間だった。

 土手沿いの家と、商店街の中学校はそんな僕をやさしく包み込んでくれた。僕は剣道部に入った。小学生のときは地域の道場に通っていた。体を動かしていると余計なことを考えなくて済む。まだ僕は中学生なのだから、あまり頭でっかちにならないほうがいい。もう少し勉強したら新しい世界が開けるかもしれない。それまでは1人で考えすぎずに、体を動かしていよう。その判断がもはや考えすぎなのだけれど、剣道に集中していると、だいぶ気持ちが楽になった。


 部活で疲れた体を土手の風にさらして、家に帰るまでの道のりはとても気持ちがよかった。夕焼けに染まっていく空を見ながら、まだ土手で遊んでいる子供たちを眺めたり、自転車で家路に着く人とすれ違ったりして歩いていく。どうしてこんなに安らぐのかわからない。なにか特別なものがあった。

 時には部活が長引いて、暗い夜道を歩くときもある。都会でこんなに暗くなる場所も他にそうはないだろう。荒川の土手の向こう側に高速道路が走っている。街灯や車のライトがピカピカ光っていて、幻想的な風景だった。あのトラックはこれからどこへ行くのだろう。もう二度とあのトラックをみることはないだろう。僕はたまに感傷的すぎる。でもだからこそ感じられる美しさだと思った。とつぜんゴーッと音がして、電車が荒川を渡って行く。明るい電車の窓には家路に着く人々が見える。なんだかとてもほっとさせられた。

 土手沿いの僕のマンションの周りには桜がたくさん植えられていて、引っ越し早々みごとな風景を見せてくれた。夏の青葉も素敵だった。川沿いなので風が涼しげに木々の間を通り過ぎて気持ちがよかった。ようやく詰襟に慣れてきたのに、衣替えの季節になっていた。

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