Ⅴ:幸せの海、誰と渡る?

 閉塞感に溢れた世界

 息ができずにのたうち回る

 あたしはさながら地上の魚


「さ、魚……」


 魚が安いぞスーパーイワタ!


「ああっ、もーっ、むりー!」

 あたしはそう叫び、スマホをベッドに放り投げた。

 そして大きくため息をついてから、スマホのメモアプリを再び開き、「毎週火曜は大感謝祭!」と付け足してみた。もちろん、すぐゴミ箱フォルダに捨てた。

「もー、なんでうまくいかないんだろう……」

 そう疑問に感じたのと同時に、私はあることに気づいた。

「うまくいかない……。そっか、うまくやろうとするからだめなんだ」

 かっこいい言葉を紡ごうとすると、身構えてしまって何も出てこない。そうじゃなくて、浮かんだ言葉をもっと気楽に綴ればいいんだ。とりあえずまずは、アイデアをたくさん出そう。

 あたしは部屋中を見回した。手当たり次第、ヒントになりそうなものを探す。ふと目に入ったのは、水色のカバーがかけられた本だった。だいぶ前に、気まぐれで買ったもの。『波の綾』――歌人・立浪タツナミ未海ミミちゃんの歌集だ。

 立浪未海ちゃんは、新聞の歌壇に投稿していた作品が注目されて、中学生の時にデビューした歌人だ。今は高校生。情熱的な恋愛を歌った短歌が特徴で、十代の女の子を中心に人気を集めている。

 あたしは、『波の綾』を手に取り、適当にページをぱらぱらと捲ってみた。


 手を取って想いを架けてくれますか

 二人で渡る幸せの海


 なんか、ちょっといいな。そう、思った。

「想いを架ける」という言葉を初めて見た。お互いの想いが通じることを、橋を架ける行為になぞらえているのかな。それで、「幸せの海」を渡るということは、二人が晴れて恋人同士になり、幸福な日々に向かって歩き出すということを例えているのかもしれない。

 おもしろい表現だと思った。

「幸せの海、か」

 そう、口に出してみた。あたしにとって、海と形容できるほどの大きな幸せってなんだろう。そう疑問に思ったとき、ふと頭の中に、亜麻色の髪をふわりと揺らし、微笑む女の人の顔が浮かんだ。

『ソプラさんのこと、もっと知りたいから』

 あの日、あたしを見てにっこり笑ってくれたミオンさんの姿は、今でも鮮明に思い出せる。彼女と音楽の仕事をしたり、何気ない話をしたりする時間は、本当に、本当に幸せだった。思い出すだけで、胸が高鳴るような……。

「あーっ、もう!」

 あたしは近くにあったクッションを、壁に向かって投げた。クッションは壁に当たった途端、くにゃっと曲がって部屋の隅に落ちた。

「あたし、ほんとダサ……」

 自分でも驚くくらい大きなため息が出た。

 なんでたった一人の女の人のことで、いちいち舞い上がったり、落ち込んだりしてるんだろう。本当にバカみたい。自分がダサくて、恥ずかしくてたまらない。

 気を紛らわそうと、スマホを手に取った。とりあえず検索アプリを開き、バーをタップして入力を始める、し、し、や……。

「わ、うわ」

 獅子屋美音。ぼーっとしていたら、いつの間にかミオンさんの名前を入力してしまっていた。あたし、本当におかしい。

 それでも、そのまま検索してみようかという気になっている自分がいた。「シオミシンヤ」という芸名で活動しているミオンさんのことだから、きっとヒットはしないだろうけど。それでも、同姓同名の人が見つかったら、それはそれでおもしろい。

 あたしは、どきどきしながら検索ボタンを押してみた。

「えっ、うそ……」

 検索結果の最初に、一件の動画がヒットした。

 ――『2012.12.15 獅子屋美音 live』。

 サムネイルに映っているのは、紛れもなくミオンさん本人だ。今より幼い顔立ちだけど、しっかりと面影が感じられる。あたしは恐る恐る、再生ボタンを押してみた。

 夜の駅前広場だ。いわゆる、路上ライブっていうやつなのかな。

 ミオンさんは白のアラン編みのニットに、デニムのマーメイドスカートを纏っていた。なんとなく初々しい感じだ。緊張しているのか、少し震えた手でマイクを握っている。

「私たちの曲を聴いてくださって、本当にありがとうございました」

 ミオンさんはすっと息を吸って吐き、ゆっくりと観客席を見回した。

「次の曲で最後です。『Marvirinoマルヴィリーノ』」

 その言葉の後、ピアノのグリッサンドが高らかに鳴り響いた。奥に立っている男の人が、キーボードの上に両手を鮮やかに滑らせていく。繊細に編まれたピアノのフレーズを聴いていると、まるで深海にゆっくりと落ちていくような心地よさを覚える。

 ふっと、ミオンさんが口を開いた。その瞬間、透き通るような美しい声が部屋中に響く。その声は、澄んでいて心が洗われるようで、それでもどこか切なげだった。

 何語で歌っているんだろう。人魚が祈りの呪文を唱えているような、幻想的な雰囲気があった。

 ミオンさんがこんなふうに歌ってたなんて、知らなかった。

 曲が終わると、盛大な拍手が鳴り響いた。

「ありがとう」

 ミオンさんは額にきらめく汗を拭って笑い、お辞儀をした。拍手が鳴り止まぬ中、彼女はふいにキーボードの方を振り返る。

「ありがとう、カイ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がずきっと痛んだ。

 カイって、誰なんだろう。

 あたしは、ミオンさんのことを何も知らなかったんだ。

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