第5話 忠告
路地裏の壁に背中を預けること一時間弱。
僕に向かって歩いてくる少女が見えた。
昨日と同じ服装の——殺人鬼。
彼女は僕から十メートルほどの距離で立ち止まり、ナイフを取り出した。
「やあ……」
少女は応えない。代わりに唇を歪め、ナイフを投げて遊んでいる。そのまま手でも切っちまえ、と思った。
「お前は……どうして人を殺すんだ?」
僕は無感動に言った。すると、少女は疑問げに首を傾げてナイフ投げを止める。
何を考えているのか、まったく想像がつかない。まあ、殺人鬼どころか普通の人の気持ちすら分からない僕には当然か。
「いや、なんでもない。それより、お前の狙いは僕の眼だろ? いいよ、くれてやる。別に抵抗もしない。昨日は焦って抵抗しちゃったけど、今日は何もしないでやるよ。そもそも、僕に生きる理由はないと言っても過言ではないし、殺されるのもまあ……悪くない」
僕の時間稼ぎの意味もなく、彼女は走り出した。
恐怖心はなく、目を瞑る必要はない。
死なないという絶対的な確信がある。
一回、
二回、
三回目の瞬きで、状況が一変する。
真上から降りてきた東条さんが、彼女を制圧したのだ。
頭を地面に押し付けられ、少女は「ぐぅ」と呻いていた。そんな彼女の背中に乗る東条さんは、ナイフを握っている手首を思い切り握りしめている。
やがてからんと音を立ててナイフが地面に落ち、東条さんはそれを蹴ってこちらに寄越した。
僕はナイフを拾い、畳んでポケットにしまう。
「抵抗しようってなら、このまま手首をへし折るよ。殺人犯を捕らえるためって理由なら、これぐらいは許してくれるでしょ」
東条さんの警告をまるでなんとも思っていないかのように少女は笑う。
冷めた目で東条さんは少女を見つめ——、細い手首を何の躊躇いもなくへし折った。
さすがに少女も余裕の表情が消えた。
「東条さん……」
僕が近づこうとしたその時、昨日と同じ感覚が訪れる。
そう、これは——未来を見るときの感覚だ。
東条さんは少女と赤い糸で拘束され、これから壁から出てきた男が発現させた青い炎に包まれる。単純明快な敗北。
「——は」
呼吸を忘れていたようだった。
僕は恐る恐る左端の壁に視線を送る。
壁には巨大な波紋が見え、中心から手がゆっくりと出てくる。
「東条さん──」
「……!」
東条さんも自身の右側からの敵意に気づく。
しかし、突如少女の指から出現した赤い糸によって東条さんと少女が拘束されてしまう。
「そっちからくっついてきたのに? 今更離れようだなんて勝手がすぎない?」
少女がそう言った時点で、壁からは男が上半身までを出していた。黒のパーカーにサングラスをした青年が指鉄砲を構えた途端、僕は考えることをやめた。
ただ走るだけだ。
彼の指先には揺らめく小さな青色の球体が出現している。
ああ、よかった。間に合うじゃないか。
命の恩人の命を救える……これで貸し借りなしだ。
そうだ——あくまで他人との距離は一定じゃないと気持ちが悪い。
これでいい。
これで思い残すことなく縁が切れる……。
「ちょ、バカ!」
僕が東条さんを庇える位置に立ったところで、円状の炎が発射される。
終わったと思った。
後悔は……ある。あいつの暇つぶしアイテムを買っていない。騒ぐだろうなあ、あいつ。
僕という存在が燃やし尽くされる、本当にその直前だった。
カン、と。
何かで地面を叩く音が聞こえる。途端に僕の視界の右端から木の幹が現れ、炎を受け止めた。
東条さんや僕に代わって炎に包まれた木の幹は、再び「カン」と鳴るとその姿を消した。
そして、壁から現れていた男もまた、その姿を消していた。
「こんの……いい加減にッ!」
東条さんは叫び、少女の後頭部に思い切り頭突きをした。思わず目を逸らしたくなりそうなほどに勢いが強く、それをもろにくらった少女は気を失ったようだった。
それをきっかけに赤い糸は消失し、東条さんは少女の背中から離れることが可能となる。
「さっきのは……」
路地裏の入り口から、白杖を持った少女がゆっくりとこちらに歩いて来ていた。
あの灰色ボブカットには見覚えがある。喫茶店でまるで空気のように振る舞っていた娘だ。
「な……君、どうして……」
東条さんは彼女を見て言った。
僕たちと少し距離を取ったところに立ち止まり、少女は肩を竦めて言った。
「勘違いしないで。アンタが死ぬのは別にいい」
そして、東条さんから僕に視線を移す。
「でも。彼を囮に使って、その上殺させるなんてありえない。それこそ人殺しよ。組織に所属している以上、その責任はあたしにもある」
「それは……そうだね。ごめん」
東条さんは目を逸らして謝罪する。
「魔眼コレクターの一人を捕まえたんだし、残りが捕まるのも時間の問題ね。……にしても——」
この娘はどうしてこうも正確に目を合わせることができるのだろう。
明らかに視覚に障害を持っているようだし……。光のない灰色の瞳に世界が映っているとは思えない。
「最低な女ね。人殺しを死ぬほど嫌っておいて、自分が他人を傷つけることはなんとも思わないわけ? 世界はアンタを中心に動いているわけじゃあないのよ」
表情一つ変えない少女に向かって、東条さんは大きく目を見開いた。
「今日はよく喋る。私の《血》への憎しみが増してるね。そんな揚げ足を取って、一体何になるのかな?」
「この程度で怒っちゃって。思ったより熱しやすいのね。あんたはちゃんと魔術師してるのか……根本から狂ってる」
少女はくるりと背中を向けて嘆息した。
「藍歌姫乃。着いてきなさい。送るわ」
「え、でも……」
東条さんは俯いており、垂れた髪の毛が表情を隠していた。しかし、想像することは難しくない。
陰鬱な雰囲気の人の隣で歩くのは僕としても遠慮しておきたいし、そもそも東条さんから断るだろう。
「私は人を待たなきゃいけないから、先に行ってていいよ」
案の定、東条さんは今は一人でいたいようだった。
僕は頷いて少女の背中を追う。
路地裏を出、少女の隣を歩く僕は、なんとなくこの娘の目の前で手を振ってみた。
「邪魔」
「あ……見えてるんだ」
そっと手を引いた。人通りが少ないわけじゃないから多少は心配があったのだが、それは無意味だったようだ。
歩調を合わせるだけの気まずい時間が続く。
だんだんと静けさが増してくる街並み。
いくら方向音痴の僕でも喫茶店に向かっていないことを察することができた。
「あの……」
「………………」
なんだろう……無言を強要されているみたいだ。
しっかし……あれが魔術師の戦いか。やはりと言ってはなんだが、超能力と大差なかったように思える。たしか応用次第ではそれに似た行為も可能らしいけれど……。
「ねえ」
いつの間にかベンチに腰をかけていた少女が言った。
「……うん?」
なにかな、と横の自動販売機で飲み物を見ながら言った。
「きっと、あいつらはあんたを勧誘するわ」
「あいつら……喫茶店の人たちか。勧誘って?」
ポケットから折りたたみ財布を取り出して、小銭を投入。春とはいえ、まだまだ肌寒い気温だ。だから僕はホットのおしるこを押した。
少女の前に差し出すが、まるで反応を示さずに言う。
「あんたも魔術師退治の組織に取り込まれるってこと。どうせ『その魔眼の使い方を教えてやるよ』とか言われる。だから、断りな」
「ふうん……まるで未来でも視えているようだね」
僕はもう一度自動販売機に小銭を投入し、今度はいちごミルクを買った。
そして再び差し出す。またもや無反応。
おごりだよと言って、僕は少女の隣に缶を置いた。
「え……?」
気づいていないように少女は手だけで缶を探す。
見えていないのだろうか……。僕は少女の手に缶を持たせた。
すると缶を両手で握り締め、「どうも」と言った。僕らは缶を開け一口飲んでから一息ついた。
「未来が見えない人はいない」
ごく当たり前のように少女は言う。
「誰だって未来を想像できる。未来を見ることは誰にでも許されているのだから」
「『想像』ね……。でも、それが確実に現実となるのだとしたら、だいぶ話が変わってくると思うけど」
「未来視には種類があるけれど……。…………とにかく。あんたはその勧誘を断りなさい」
「どうして?」
聞き返すと、少女は分かりやすくため息を吐いた。
「あんたがこっち側にくる必要もメリットもない。安穏の日々を崩したくないのなら、もうあたしたちには関わらないほうがいい……縁を切った方がいい」
その忠告を無視するわけにもいかず、僕はおしるこを飲み干してから缶をゴミ箱に捨て頷いた。見えていないのなら意味はないけれど、とにかく頷いた。
「安心していいよ。僕がそんな……誰かの為に何かをするような組織に入るわけがない」
「だといいわね」
疑念が含まれていそうな反応だ。
少女が飲み干すのを確認して、僕は彼女から空き缶を取ってゴミ箱に捨てた。
「誰かの為に何かをすることがありえない……自分自身の為にのみ動いているというのなら、さっきのはなに? あんたはどうしてあの女を庇ったの? あたしはあの女をいじめたくて邪魔したけれど、東条色奈ならあんな状況は一瞬で打開できたわよ」
「それは……」
「即答できないのね。結局、あんたは自分の本性を把握し切れていないのよ。言動の不一致が多い。きっとそういう人生だったんでしょ? 蒙昧主義もいいところだわ」
返す言葉も見つからなかった。
光野さんがこの娘の隣に座らない方がいいと言った理由が分かった気がする。
知らない人に弱点を曝け出すなんて、いくらなんでも無防備がすぎるだろう。あの人は全てを理解して見極めていた。僕とこの娘じゃあ相性が悪すぎる、と。
「あんたにどんな過去があったのか知らないし興味もない。でも……その過去が『何か』に因縁を持とうと、あんたは一人で生きていくべきよ」
「そう、だろうね……。君の言っていることは間違ってないだろう。でも……この眼の使い方は学ばせてもらいたいもんだよ。不幸な未来を見た時に対応できなかったら困るからさ」
「『不幸な未来』……」繰り返して、立ち上がった。「そう。忠告はしたわよ」
足を進める彼女の横につき、僕は言う。
「……君の名前を聞いても?」
少女は舌打ちをした。さすがに踏み込みすぎたか、と僕は怪訝そうな表情をする少女から目を逸らす。
「——柩ひつぎ……」
「……そう。珍しい名前だ」
僕が言うと、柩ちゃんは一層表情を暗くした。
それ以上の会話はなく、喫茶店まで不快感のない沈黙が続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます