第4話 選択
四月十五日水曜日。僕が目覚めたのは午前九時だった。
「…………………………マジか?」
驚きのあまり一瞬で意識が覚醒した。
昨日はたしか六時くらいに眠りについたはずだから……ざっと十五時間寝ていたことになる。
ここまで寝過ごしたのは初めてだ。その割には疲れが取れていないことに違和感を感じる。
「……というか、学校なんですけど」
シャワーを浴びて、再び制服を着て、頬に絆創膏を貼って、それから家を飛び出た。急ぐのはそこまでで、なんだか面倒くさくなり、のんびりと歩いて登校した。
……遅刻するくらいなら欠席の方がいいのかな、なんて詮ないことを考えていると、あっという間に学校に着いた。
……何か忘れているような気がするけど……まあいいや。忘れるってことは、そこまで重要じゃないだろうし。
×
放課後になっても『何か忘れている』ということが気になって仕方がなかった。
なんだろう。このくしゃみが出そうで出ない感じ。気持ち悪くてしょうがない。
校舎を出て平された地面を歩いていると、
「姫乃くーん!」
と、背後から声をかけられた。……気がした。
ここで振り向いたとして、実は同名ってだけでしたってことになったら恥ずかしい。ああ、なんか現時点で帰宅部の人たちの視線が集まってきている気がする。
「ちょっとちょっと。なんで無視するの? 私、命の恩人なんですけど」
僕の右隣に東条さんが並ぶ。
そして思い出した。たしか今日、東条さんと一緒にあの喫茶店へ行くことになっていたか。
「ごめんなさい。振り向くことに慣れてないんで」
「へえー。変わってるね。足とか絡まっちゃうの?」
ピュアかよ。
ところで、と僕は視線を巡らす。
「東条さん……有名人だったりしますか?」
「うん? なんでかな?」
「いや、なんか、視線が集まってるような気がして」
「心当たりないなー。単に、私が男子と帰るの初めてだからとかかな? 私も困ってるんだよね。なんかいつも注目されてるみたいで」
なるほど。これは有名人だ間違いない。学校のマドンナ的立場なのだろう。それも飛び抜けてたちの悪い、《鈍感》というステータスをカンストしたタイプだ(偏見以外のなんでもないけれど)。
「東条さん、成績は?」
「一位以外取ったことないよ」
ふふん、と東条さんは誇らしげに胸を張った。
成績優秀、容姿端麗、加えて温厚篤実ときた。なんだ、この完成された人間は。まるで僕と正反対じゃねえか。
「……すごいですね」
「姫乃くんは?」
「僕は中の下って感じです。勉強は得意じゃありませんから」
「得意不得意じゃなくて、やるかやらないかだと思うけどね」
まさにその通りだった。
単に努力することが面倒くさいと思ってしまう、ただのダメ人間である。
「私が勉強教えてあげようか?」
「結構です」
僕は即答した。
この人、赤の他人の命を救って、その上でまだ尽くそうというのか。なんたる奉仕精神。
「……すげえなぁ」
「なにが?」
「いや、なんでも。それより、僕ってお金払わなくていいんですか?」
「お金?」
「東条さんは魔術師退治としての仕事をしたわけで……それに救われた僕はお金を払うべきじゃないんですか?」
「なんで? 姫乃くん、依頼してないじゃん。私が勝手に君を助けたってだけでしょ?」
「それは……まあ……」
だからといってお礼一つしないというのも気が引ける。僕が悩んでいると、「それじゃあ」と東条さんが言った。
「敬語やめてくれない?」
「敬語を……え、それだけ?」
「うん」照れ臭そうに頰を掻く東条さん。「後輩って初めてだから、敬語使われるとなんかむず痒くなっちゃって」
久しぶりになんとも言えない感情が湧いてきた気がする。
本当に、まったく……良い人だ。
羨ましいほどに。
——嫉妬してしまうほどに。
「分かりましたよ……」
「じゃなくて?」
「…………分かった」
歳上に敬語を使わないってのは違和感があるけれど、どうせ続かない縁だ。
東条さんとの関係も、きっとすぐに終わる。だから……今はこれでいい。
それから僕らは他愛もない話をして喫茶店にやって来た。
店内は昨日と同じく、入り口間近のカウンター席に灰色のボブカットの少女が座っていて、店員らしきお兄さんが居るだけだ。
僕と東条さんは昨日と同じ席に座る。
「光野さん。いつものお願いね」
一度は言ってみたいセリフだった。
そして少しして出されたのがコーヒーだった。東条さんの分だけでなく、僕にも差し出される。
「サービスだよ」
「……ありがとうございます」
大人っぽい東条さんのことだ。きっと想像絶するほどに苦いに違いない。
湯気のたつカップを持ち、一口飲み込む。
「…………え」
驚くほどに甘かった。思わず吐き出してしまいそうになるほどに激甘。なんだよこれ……。
左を見ると、満足げに一気飲みをする東条さんがいる。
「やっぱりコーヒーはこうでなくっちゃね」
「コーヒー馬鹿にしてるのか」
砂糖飲んでるのと大差ねえよこれ。ひょっとして、右の娘もコレを飲んでるのか……?
「それじゃあ、早速作戦会議にしようか」
東条さんは手を叩く。
「コレクターの目撃証言からして、メンバーは昨日の奴と合わせて三人と言ったところだね。同時に襲ってくることはなさそう。姫乃くんを囮に使ったとして、怪我をすることはなさそうだね」
「となると、お前さんが襲われた場所がいいな。あそこなら人目につかないし、こっちも暴れられる」
物騒な物言いに僕は疑問を抱く。
「光野さんが暴れるんですか?」
「いや。戦闘担当は色奈だ」
それじゃあ、と言おうとして、やめた。右の娘に触れることはきっとよくない。東条さんが昨日あの娘だけを紹介しなかったことに、光野さんが「そいつの隣はやめた方がいい」と言ったように、きっと何か複雑な事情があるのだろう。
でも……多分あの娘も魔術師退治の組織の一員なんだよな。どうしてハブにしているんだろう。
「とりあえず。僕は昨日の路地裏に居ればいいんですね」
「ああ。見ず知らずの魔眼持ちのお前さんをピンポイントで襲撃したんだ。きっとまた現れるだろうよ」
「ですね。でも……」
僕は右頬を撫でる。
過去にも色々あったけれど、殺されそうになることにはやはり慣れない。
情けないとは思わないけれど、かっこ悪いよな……。
「だいじょーぶ」東条さんは優しい微笑みを浮かべた。「人殺しなんかに臆する必要ないって」
「…………」
ここは「私が守るもの」とまではいかなくても、そう言ったことを言う場面じゃないのか……。
「東条さんは人殺しが嫌い?」
「え、好きな人なんているの?」
ごもっとも。考えてみりゃ質問がおかしいか。人殺しに憎悪の情を抱かない人間なんてそうそういないだろう。
東条さんはどこか遠い目をして天井を眺める。そして脱力するようにため息をついた。
「人殺しは最低だよ。殺人犯の最大の罰が死だけれど、そんなことで許されるようなものじゃないよね。一人が死んだとして、悲しむ人の数は計り知れないわけだし。どんな理由があっても、人を殺してはいけない」
人殺しに因縁でもあるような言い草だ。
いつもより強張っている表情からそう感じ取れる。
——いつも?
僕がこの人の何を知っているというんだ。馬鹿らしい。戯言にも程がある。
なんだろう……僕らしくないな。
他人のことを、知りたいと思うなんて——。
「……じゃあ、僕はもう路地裏に行くよ」
「うん、分かった」
僕は荷物を置いたままで喫茶店を出る。どうして持っていかなかったのかは、分からなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます