第2話 逃避

 ホームルームが終わると、教室内は授業中とは真逆に喧騒に満ちていた。笑顔溢れる教室を僕は足早に出、中央階段を降りて一直線に玄関へ向かう。

 外に出た時、ポケットのスマホが振動した。何かと思って画面を点けると、【読み終わった。暇つぶしグッズよろぴ】というメッセージが表示されている。


「……はあ」


 呆れた。つい数日前に分厚い小説を二冊も持って行ってやったのに、もう読破したってのか。

 仕方ない……次は推理小説を買って行ってやろう。あいつは考えだすと止まらないから、それなりに時間がかかるはずだ。

 僕は付近の行き付けの本屋に入った。適当に歩き回り、ようやく見つけた。目線の先にある本を取り出し、表紙を見る。

 その時。

 現実から切り離された何かが見えた。


 僕は本を手に取っている。

 僕は本を手に取っている。


 まるで、二つの眼で一つの現実を見ているのでなく、二つの現実を見ているような錯覚。そこに左右の概念はなく、しかし二つはどうしようもなく乖離している不可解な実感。

 その光景は重ねると一点の違いもなく、証明するまでもなく合同だ。やがてその錯覚が消え失せた。


「なんだ、コレ……」


 酔った時の感覚が襲いかかってくるようだ。

 早く家に帰ろうと本棚に本を戻す。

 足早に本屋を出る。さながら不審者だ、なんて思っていると、またも現実が二つに分断された——気がした。

 ああ、そうだ……思い出した。

 今日の授業中、まったく同じ夢を見た。

 もしも……もしも仮に、だ。僕が右を向いて、あの少女が居たのなら。


「………………」


 慎重に、僕は右を向いた。

 数メートル前方に、夢で見た少女が歩いて来ていた。

 正夢なのだろうか。

 だとしたら——あの不快感も、きっと……。

 なぜだ? なぜ不快感をもった? この後、一体何があった……?


 ポケットに手を突っ込んだ少女は、いつの間にか僕の一歩手前までやって来ていて——。


「……!」


 思い出した。

 少女がそれを取り出した瞬間、僕は躱そうとして尻餅をつく。

 周囲の人間が騒めくのも当然だ。折り畳みナイフを振るった人間と、それを躱して頬から出血した人間が居たら、誰もがその現場を見るだろう。

 しかし、誰かの通報を待つわけにはいかない。少女は既に第二の攻撃を行おうとしているのだから。


「くそ……」


 僕は走り出す。

 すぐにスタミナの限界を迎えたが、背後からの殺気が休息を許さない。

 どこへ向かったものかと考えていると、また視界の感覚が異常になる。一瞬のうちに今とは別の視界が流れ出す。


 付近の路地裏。

 追い詰められた僕の目の前に。

 折り畳みナイフを構えた少女と——僕を庇うように立ち塞がる誰か。


 妄想でも、何でもいい。

 起こり得る未来だという可能性を期待して、僕はビルとビルの間の狭い路地に曲がった。

 五十メートル程で行き止まり。開けた空間に着き、振り返る。


「は——はあ」


 十メートル先の少女から目を離し、上を見る。背の高いビルに囲まれている空間に、一体誰が来るというのだろう。

 追い詰められただけに思えた。後悔しても遅いけど。

 歩いて近づいてくる彼女に、せめてもの抵抗として僕は背負っていたカバンを投げ付けた。


「……」


 お洒落に回し蹴りで遠くに飛ばされてしまった。

 躱せばいいじゃん……。

 じゃなくて。

 お前は誰だ——と問おうとした時、体験したことがないほどの頭痛に襲われる。


「ぐぅ、う——」


 頭を押さえたところで痛みが消えることはない。


「追い詰めたよ、いい眼を持つお兄さん」


 こんな状況でも《綺麗》と思わせるような声だった。


「恨むんなら、私以外の誰かを恨むことね」


 彼女は口元を歪ませて言った。なんて雑な言い訳だ。

 もしこのまま殺されたら悔しいな。こんな訳の分からない野郎にあんなこと言われた後じゃあ、情けないにも程がある。


 要は——今は死にたいと思うようなタイミングではないわけで。


「誰かを恨む? ——面倒だよ」


 無感動に吐き出した言葉を聞くと、少女は走り出した。

 頬から血の滴が落ち、地面に打ち付けられる。

 狙ったようなタイミングで、先ほど見た誰かが僕の目の前に現れた。

 どこから現れたか? ありえないことに、上からだ。この人は、きっとビルの上から落ちてきたのだ。不自然なほど静かな着地に突っ込むことはしない。何より、今は現実となる未来を見ることができたことに驚いているのだから。

 不意に、腰が抜ける。


「人殺しはよくない事だって、理解できてる?」


 強気に仁王立ちをする暗い金色は、少女の動きを止めていた。


「今なら見逃してあげるけど、どうする?」


 ハエを払うかのように手を振る。するとやがて、パトカーのサイレンが鳴り響く。それを聞き、パーカーの少女は逃げるように走って行った。


「意気地なし。逃げるくらいなら人殺しなんてしようとするなっての。……さて」


 くるりと振り返り、僕を見る。

 僕と同じ大丘高校の制服を着ている。若干癖っ毛のあるミディアムは、この薄暗い路地裏では明るく感じられる。


「大丈夫かな? 大丈夫だね」


 はあ、とため息に近い同意をして、僕はゆっくりと立ち上がった。


「お陰様で。えっと……ありがとうございました」


「そうだね。間違いなく私のおかげだね」


 誇らしげに言って鼻を鳴らす。


「……、……」


 クールなお姉さんって感じの印象が若干崩れてしまった。


「それよりも。あなたは一体……」


 僕の質問を妨げるかのように頭痛が悪化する。

 授業中同様、意識が消えるまでに時間は掛からなかった。

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