第2話
遠くから油蝉の鳴き声が聞こえた。そよぐ風の音も聞こえる。
「総、おい、総」
巧の声が聞こえる。耳元で、僕を呼んでいる。
「総、起きろ」
「…ん」
僕は、目をこすった。
「朝のホームルーム中ずっと寝やがって。まったく困ったやつだな。ほら、次は体育館なんだから、さっさと更衣室行くぞ」
「雅…?」
「趣き深い様、風流な様、を雅という。次は古典の時間じゃないんだよ。総、いつまでも寝ぼけていないで、着替え持てよ」
教室はもぬけの殻だった。僕と巧だけが教室の中にぽつねんとあった。巧はジャージの入った袋を肩に担いで、疲れたように僕を見下ろしていた。時計を見ると次の授業までもう三分程度しかなく、教室移動の時間も含めれば、ほとんど猶予はない。
「俺はもう行くからな、サボるんなら一人でサボってくれ」
「あ、スマン。今すぐいくよ」
机の脇にかけてあったジャージをあわてて取ると、教室の出口に向かった巧を追った。
「あのさ、巧。葉月雅って子のこと、知らないか?」
「葉月雅? さぁ、知らないな」
「そっか…じゃあ、あれは夢…」
少しほっとした。
「何だ、総。夢の中の女に恋したのか?」
「まぁ、そんなところかな。それが妙にリアルな夢だったんだよ。こう、光とか、風とか、葉月雅とか…まるで実際にいたような感覚で、しいて言えば、現実が二つあるような」
巧はニヤニヤしながら僕の話を聞いていた。
「総、それは…性夢だ」
「性夢?」
「間違いない。思春期特有の異性の夢だ。異性への羨望、異性への好奇心、異性への執着…それらがこういう時期に現れるんだよ。どうだった? 妄想にあふれた夢の内容は。まさか、もっといやらしい夢を…」
顔を必要以上に近づけてくる。僕は思わずたじろいだ。
「そんなんじゃ…ただ」
巧は不思議そうに首をかしげた。
「巧の言っているような、単純な夢ではなかったから」
体育館までの道のりが、夢の中のように見える。夢の中で雅と歩いた光景にそっくりだ。それは、現実を夢に投影したことからも当然のことなのだが、吹いてくる風の心地よさや、太陽光の濃淡さえも、夢にそっくりだった。考えようによっては、巧と歩いているこの瞬間のほうが夢のように思える。
「とにかく、あんまり考え込むなよ、総」
肩を叩かれる。そうして広がったわずかな痛みが、現実である証拠であって欲しい。僕は、心中で念じた。
「総、さっきの夢の話なんだけど」
今日の体育はバスケットボールだった。僕たち二人は同じチームに振り分けられていた。コートの外、二人で得点係を担当している。僕はAチームの得点に二点追加した。
「ん?」
僕たち二人の目線はセンターコートでボールを取り合う両軍に注がれている。そのため、僕は声だけで話を促した。
「俺、夢の中で誰かに追われたりする夢を、最近良く見るんだ」
男子の一人がピボットを繰り返しながらボールを奪われまいとしていたが、とうとう囲まれてボールを失ってしまう。
「さっき総の話を聞いて、なんとなく似たようなところがあって、思い出したんだ。夢が現実に見えたってところが、気になってさ。夢を見ているときは、夢が現実なんだよ。俺を追ってくるものが、圧倒的な恐怖を持ったものだって、どこかで分かってしまっているから、俺は夢の中で必死に逃げている。まるで、そのルールにのっとられているかのように」
ゴール前でプッシングの反則を取られたのか、審判をしているバスケット部員のホイッスルが高く鳴り、Aチームにフリースローが与えられていた。
「それが、毎晩ではなくとも、一週間に一回は見るんだ」
僕は、巧に視線を移す。試合を傍観している巧の横顔が、不安の影を落としているように感じられた。
「総、一点追加」
「あ、ああ」
フリースローが入って、Aチームが自陣に後退していく。僕は慌てて点数を追加した。
「なんでもないような夢かもしれないんだけど、俺にはそれが不気味で仕方がないんだ。たとえば、夢の中で自分が殺されたらどうなるのかな、ってな」
「巧…」
Aチームの男子が、その背の高さを生かしてBチームのパスをカットした。
「バスケットしている時、どうしても勝負事だけに夢中になるだろ。夢中、って言葉は現実にあるわけだから、どこか俺たちは夢の中で生きているのかもしれないな」
そのまま背の高い男子がドリブルで持ち込んで、すぐさまジャンプシュートを放った。大きな放物線を描いて、ボールはリングへ。
「巧…実は――」
「総、二点追加」
「あ、悪い…」
リングにもかすらない美しいシュートが決まった。僕は点数を追加してから、巧に雅とのやり取りを告白しようと巧を振り向く。
そのとき、何かが視界の端に映った。
コートの向こう、ちょうど体育館の正面入口。僕らは一番奥の舞台の前で試合を観戦しているから、距離は少しある。僕は必死に目を凝らした。カメラのピントのように次第にそれが明瞭になる。
「母…さん? いや、母さんは…」
僕は、ありえない現象に目をこすり、二たび目を凝らすと、今度は制服姿の葉月雅が微笑んでいた。僕を真摯な眼差しで捕捉する。
時間や、距離を跳躍して、彼女の中へ引き込まれそうな心地。
恍惚なのか、嫌悪なのか、僕には判断できなかった。
高らかなホイッスルの音が、僕の耳をつんざく。
僕は我に返らざるをえなかった。
「試合終了。ほら、行くぞ総。Aチームとの決勝戦だ」
僕は巧に話しかける間もなく、センターサークルに引き寄せられていった。
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