第14話 暗殺未遂容疑
皇宮の厨房は毎日が慌ただしく賑わっている。
各地から集められた腕利きのシェフ。彼らが作る料理は皇族やその客人へ振る舞われる最高級のものである外、正確な人数すら把握できない程の使用人や騎士、皇宮で働く者達の食事も用意しなければならない。
更に用意された食事を運ぶ使用人達も広々とした厨房を何度も出入りする必要がある為、日々人通りの多い場所だ。
シェフがあちこちを忙しなく歩き回る中、入り口付近のカウンターには様々な菓子が並べられたケーキスタンドやクッキー、ティーポットなどが用意されている。
ふと一人のシェフは顔を上げた時、カウンターの前に立つ使用人の姿を見つけて声を掛けた。
「おーい、丁度良かった。それを皇太子殿下のところまで持って行ってくれ。庭園のテラスだ」
「わかりました。……今日は少し量が多いんですね」
「ああ、アリシア様の妹もご一緒みたいだからな。そのクッキーは手土産だそうだ」
「なるほど、クリスティーナ様の……」
「それじゃあ頼んだぞ」
シェフはケーキスタンドの傍に置かれたクッキーの皿を示すとキッチンの奥へと再び姿を消した。
使用人はそれを見送ってから再びクッキーの入った皿を見た。
そして伸ばされたその手がこの国を陰らす二つ目の引き金になり得ることなど、この時は誰もが予想していなかった。
***
(あんなことがあったのにも拘らず茶会は予定通り行われるのね)
建国祭四日目。天候は今日も晴天。
無駄に広々とした皇宮の庭園はその隅々まで花が丁寧に手入れされており、その眺めは初めて見た者を一人残らず虜にするほど美しい。
そよ風に運ばれる甘い花の香りに包まれたこの庭園を何も考えずに散策することが出来ればクリスティーナでも充実した時間を過ごせたかもしれない。
しかし生憎、現在のクリスティーナは庭園の真ん中に設置されたテラスの椅子に腰を掛けてしたくもない相手との世間話を強いられている状況である。
正面には姉のアリシア、左手には金髪碧眼の青年――皇太子フェリクス・ディ・イニティウムが一つのテーブルを囲って座っている。
フェリクスは皇宮の使用人を外させ、騎士でさえもテラスから少しだけ距離を取らせている。三人以外に傍で控えているのはフェリクスの側近とアリシアの従者、リオの三人のみである。
「箝口令を敷いたとセシルの奴は言っていたが君が聖女の力に目覚めたという噂は密かに広まっているよ、アリシア」
堅苦しい挨拶や世間話に片を付けたところでフェリクスが話題を切り替えた。
その言葉にアリシアは眉を下げて視線を落とす。
「まあ、そうなのですか。それは困りましたわね……」
クリスティーナはアリシアと共に庭園へ案内される際すれ違った皇宮の使用人たちの態度を思い出す。
アリシアの顔を見てひそひそと話す人々、敬仰の視線を向ける者達……確かにフェリクスの言う通り噂は当の本人を置いて歩き回っている様だ。
実のところ、クリスティーナは魔物の襲撃事件がレディング領で起きた直後なのにも拘わらずその地を統括する家の令嬢を招き入れて茶会を開く皇太子に対し余程頭の中がお花畑なのだろうかと不満を抱いていたのだが……。
もしかしたらアリシアが聖女であるという話を耳にしてから、彼の茶会の目的は茶を嗜むことから別のものへと変化していたのかもしれないと思い直す。
聖女とは間違いなく世界で随一の才を持つ特別な存在だ。
人間の頂点に立つ程の能力を有する聖女の存在は時に伝説に刻まれ、時に戦火の中心に立たされる程。聖女という存在が誇る価値は無限大である。
それが自国の民から生まれたとすればその事実確認は真っ先に行わなければならないし、今後国としての立ち回りを問われるのは皇族である。
聖女はその数々の能力の強力さは勿論、存在そのものが人々の光だ。
時に聖女の存在を巡って戦争が起こった時代もあるようだが、聖女の能力を欲して攻め入った国の殆どが敗北を味わってきた。
故に現在では聖女という強力な後ろ盾がある国に攻め入ろうとする国はめったに現れないだろうし、仮に争いが起きたとしても聖女の力を借りることで戦を優位に勧めることが出来るのだ。
これらのことから、聖女がいる国はその間安寧と繁栄を手に入れることが出来ると言われている。
しかし聖女の存在が明らかになることで考えられるデメリットもいくつかある。
例えば聖女が影からその身を狙われる可能性や、聖女を自国へ迎え入れる為に誘拐を企てるなど。事例はそう多くないが暗躍する国々の手に墜ちた聖女が命を落とした時代もあったという。
アリシアの「困った」という発言はこれらの可能性を危惧してのことだろう。
「今、レディング公は家を離れているから正式な決定は後回しになるだろうが、君を皇宮へ迎え入れるのはどうかと考えていてね。君の意見を聞かせてもらえればと思ったのだが」
「まあ殿下、ありがたいお言葉ですわ」
幸いにもアリシアは皇太子の婚約者だ。彼女の身に危険が及ぶことを避けて暫く皇宮に居座ったとしても詳細を知らない国民達から不満の声が上がる可能性も低い。
……噂が大きく広まるのは時間の問題である気がするが。
(そう考えると、私が聖女だという噂が広まる方が厄介だったかもしれないわね)
誰が聖女であったとしても結果的に皇族はその身柄の保護へ動いただろうが、聖女に与えられる待遇を贔屓目に感じる者も少なからず現れるはずだ。皇族は常に周囲の視線を配慮した上で聖女に対して慎重に動かざる得なくなる。
特に悪名高いクリスティーナのことを良く思っていない貴族は多い。不満や疑念を抱くものが現れてもおかしくはない。
更にクリスティーナは他者から縛られることを面白く思う性格ではない。もしクリスティーナが保護される立場であったなら、常に好奇の目に晒されながら聖女としての責務に駆られて生活する毎日を送ることになっただろう。
皇族に囲まれ、人の顔色を窺いながら時に国政にも関わらなければない暮らしなどまっぴらごめんである。
それを考えれば今ある状況はクリスティーナにとって悪いものではないのかもしれない。
果たしてリオがそこまで考えた上で二日前の場の空気を作り上げたのかはさておき……。
フェリクスとアリシアの会話を聞き流しつつ自身の従者へ視線を寄越せば、視線に気付いた彼がにこりと微笑む。
相変わらず彼の考えは読めそうにない。今までは彼の顔色を気にして窺うことなどなかったのだが。
「クリスティーナ嬢はどうだ? やはり自身の姉が長く家を離れるのは心寂しいだろうか」
「……いいえ」
他所事を考えていたクリスティーナは突然振られた話に対しての初動を遅らせてしまう。
驚きが表に出ないよう何とか取り繕い、微笑んで答えたところで給仕がアフタヌーンティーの一式をワゴンに乗せてやって来た。
フェリクスは何か言いたげにクリスティーナへ目配せをしたかと思えばアリシアを一瞥する。
顔色とその動作から彼の心情を察するに、給仕が近くにいる内は聖女という単語を出して欲しくはないらしい。噂が広まりつつあるとは言え、今のところはまだ聖女の存在について公言するつもりはないのだろう。
クリスティーナは彼の望みに添って受け答えをしてやることにした。
「確かにお姉様とお会いする機会が減ることは寂しく思いますが……殿下とお姉様は既に未来をお約束されたご関係。いつかは姉離れしなければなりませんから」
テーブルへ並べられる菓子、ティーカップへ注がれる琥珀色の紅茶へ視線を落とす。
自分が手土産として用意したクッキーも皿に盛りつけられて茶請けとして出されたようだ。折角用意してくれたのだからというフェリクスの好意かもしれない。
「私はいつでも殿下とお姉様の幸福を願っています。ですから、その時期が多少早まろうとも心から祝福させていただくつもりですわ」
婚約と絡めて誤魔化した返事の意図はこうだ。『私もお姉様が皇宮へ避難することに賛成です』。
フェリクスが上手く意図を汲み取ってくれたのかはわからないが、彼はそうかと一つ頷いた。
お茶の用意を終えた給仕を下がらせ、その場から離れる姿を見送りながら彼はテーブルに置かれたクッキーへと視線を落とした。
「クリスティーナ嬢、急な誘いに応じてくれた上にこのような手土産まで用意してくれたこと、感謝しよう」
「いいえ。こちらこそわざわざお気遣いいただき、この様な場をご用意くださりありがとうございます。洋菓子屋へ立ち寄る途中、建国祭を見て回ったのですが普段よりも活気に満ちた街の景色は新鮮でございました」
「休暇を楽しめていないのではというアリシアの心配はどうやら杞憂だったようだな。君もきちんと羽を伸ばせているようで安心したよ」
貴方様のせいで重要な休日が一日潰れたのですが、などとは口が裂けても言えまい。彼は恐らく良心でクリスティーナを招いてくれたのだ。
祭りへ参加しておいたことによって休日を謳歌している自分の姿を誤魔化すことの出来たクリスティーナはほっと胸を撫で下ろしつつ愛想笑いを続ける。
「さて、冷めてしまわないうちに頂いてしまおうか」
「はい、殿下」
三人がそれぞれティーカップに手を伸ばした時、それは起きた。
庭園から程よく離れた建物へ続く廊下から使用人たちのざわめきが広がる。
思わず手を止めたクリスティーナとアリシアはそちらへ視線を移し、フェリクスは腰を浮かせて騎士を呼びつける。
「何事だ」
「わかりません。確認して参ります」
皇太子から離れた騎士は騒ぎの出所を把握しようと建物へ向かうが、それと同時に彼の進行方向から庭園へ転がり出る別の騎士がいた。
彼は慌てた様子でフェリクスの前まで辿り着いて跪くと声を高らかに上げる。
「皇太子殿下、今すぐ皇宮へお戻りください」
「何があった。簡潔に話せ」
「はっ、皇宮の毒見役がたった今失神を起こし倒れました。こちらに運ばれたものに遅効性の毒が混入している可能性があります」
「なっ……」
その場の空気が凍り付く。誰もが顔を強張らせてテーブルに乗せられた洋菓子やティーポットを警戒の眼差しで見つめていた。
フェリクスはアリシアやクリスティーナがティーカップに口を付けていないことを確認しつつこめかみを押さえた。
「貴方様の命を狙った者の犯行である可能性、また体内に毒物が入り込んでいる可能性がございますのですぐに身の安全の確保と容態の確認を……」
「まだ誰も口を付けていない。犯人の特定は進んでいるのか」
「それが……毒見用の残りを鑑定したところ毒物はそちらのクッキーに混入していたとのことで……」
騎士は皿に盛られたクッキーを指さす。それはクリスティーナが手土産として皇太子へ献上したものだ。
その場にいた全員が一斉にクリスティーナを見る。
(何を、言っているの……?)
騎士や給仕……皇宮の使用人達がクリスティーナへ向ける視線は疑念や恐怖だ。
今まで疑念や嫌悪の含まれた眼差しは幾度と受けてきた。けれどそれはそうなるきっかけを少なからず自分が作ってしまっているという自覚があったから。
しかし今回毒物混入に関しては流石に想定外である。クリスティーナは勿論手土産に何か細工をした覚えはないし、そもそも洋菓子の包みを開けてすらいない。
「な……何かの、間違いでは……」
今までの冤罪、もしくは悪意ある誇張については黙認してきた。しかし皇太子暗殺の疑いとなれば話は別である。
頭が回らない。
悪行を疑われる機会は数多く経験してきたが、それらを弁明することを諦めてきたクリスティーナは何を言えば自身の無罪を証明できるのかがわからなかった。
ただでさえ自分の今までの行いが良いものであったとは言えないのだ。
故に彼女が絞り出した言葉は精一杯の否定でありながらも、説得力には欠ける程度の重みのもたない言葉だった。
「しかしこちらをご用意されたのはクリスティーナ・レディング公爵令嬢であるという事実があります。故にクリスティーナ様が関わっていらっしゃる可能性は否定できません」
(――知らない)
知らない、わからない。皇太子暗殺など、誰がそんなことを企てていつ毒物を混入したのかなど。
自分は無関係なのだと心が叫びたがっている一方で、もうどうでもいいと自棄になってしまいそうな自分がいた。
今どれほど自分が違うと否定したところで、クリスティーナの身柄は一度拘束されるはずだ。現状ではクリスティーナが確実に無罪だと言い切れる材料がないのだ。
だからここでこれ以上否定を続けたところで意味を成さないのではないかというのがクリスティーナの見出した結論だった。
(……それに、誰も信じてはくれないのでしょう)
元は自分の蒔いた種とはいえ、今まで積み上げてきた数々の悪名は疑いに一層の説得力を齎すはずだ。
彼女しかありえない。彼女以外にそんなことができるわけもない。やはり彼女は悪女なのだ、と。
今までもそうだった。今回も何ら変わらない。
ただ流れに従って、自分の置かれた立場を他人事のように傍観しているだけ。反論できるだけの力を持ち合わせていない自分にできるのは何もせず罪を着せられることのみ。
クリスティーナは昂る自身の心を落ち着けるように深呼吸をする。
諦念と、ほんの少しの胸のつかえを喉の奥へ押しやるように。
「――馬鹿馬鹿しい」
しかし、彼女の気持ちを代弁するように鋭く吐き出された言葉があった。
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