第12話 覚醒
公爵家が騒然としたのはクリスティーナが帰宅し、夕食を終えた後のことであった。
自室で読む為の本を書庫で何冊か見繕っていた彼女は目当てのものを見つけて自室への廊下を歩いていた。
後ろにはリオが尽き従い、互いに会話をすることもなく静かに時を刻む。
定期的な感覚で壁に配置された照明に頼り切っている廊下はやや薄暗く、昼間とは異なりすれ違う使用人は殆ど見当たらない為、同じ屋敷の中であっても随分と雰囲気が変わるものだなどとぼんやり思う。
その時、銀髪の使用人が顔を青くさせて自分達の傍を駆け抜けた。
「アニーさん?」
会釈一つなく自分達とすれ違った使用人へリオが声を掛ける。
廊下を慌ただしく走り抜けるという行為は褒められたことではない。それが令嬢の目の前となれば猶更である。
アニーと呼ばれた使用人はびくりと肩を震わせて振り返る。
「り、リオさん……? ……はっ! クリスティーナ様、申し訳ありません! ご無礼をお許しください」
どうやら彼女は焦るあまりクリスティーナやリオの姿に気が付いていなかったようだ。
リオがちらりと視線をクリスティーナへ向ける。咎めるも許すも選ぶのは自分ではなく主人であると理解しているようだ。
「いいわ。急用のようだから。本来であれば咎められるべきことではあるけれど」
「あ、ありがとうございます……!」
「リオ、彼女の荷物を少し持ちなさい」
「畏まりました。アニーさん、失礼しますね」
彼女は救急箱や毛布などを抱えているようであったが一人で持つ荷物にしては明らかに多い。
アニーに一言断りを入れてからリオはその半分以上を請け負ってやる。
「……それで、随分と慌てていらっしゃいますが何かあったんですか? どなたかが怪我でも?」
「は、はい。重傷者と死亡者が運ばれてきたと……」
リオの問いに頷くアニー。
彼女の説明に耳を傾けながらクリスティーナは眉間にしわを寄せる。その脳裏には夕刻の魔物の襲撃が浮かんでいた。
同じことを考えていたのだろう。リオもまた難しい顔をしていた。
「死傷者……屋敷まで運ばれたということは騎士ですか。夕方に街で魔物が出たという話は知っていますが、状況が悪化しているということですか?」
「いいえ、それが……魔物を目撃したという報告は一度のみだったらしいのですが、街の安全を確認する為に偵察へ向かった三人の騎士が路地裏で倒れているところが発見されたらしく……」
「……そうですか。すみません、引き留めてしまって。急ぎましょう。……クリスティーナ様は」
「貴方以外に付き人がいないもの。私も向かうわ」
「畏まりました。……ご気分が優れなくなりましたらすぐに教えてください」
死亡者も運ばれてきているということは目的地の光景は凄惨なものだろう。
主人の精神を案じるリオへ問題ないと視線を送れば彼は物言いたげな表情をするものの大人しく頷いた。
二人はアニーへ案内をされて庭へ出る。
庭には家のものが大勢集まっていた。慌ただしく行き来する者、その光景を眺めているだけの者、噂をする者など様々であったがその中心には横たえられたのは三人の騎士姿があった。
その内二人の顔には布がかぶせられており、うつ伏せに寝かされたもう一人の傍では公爵家の主治医が使用人へ指示を出していた。その緊迫した様子から彼の容態も良いとは言えないだろうことは容易に想像がつく。
「……リンドバーグ卿」
息を呑んだ従者は珍しく驚きを顕わにする。
そしてクリスティーナ自身も驚いていた。背中を深く斬りつけられたらしく痛々しい傷を負って倒れているのは夕刻言葉を交わしたエリアスであったからだ。
最後に別れた時あんなにも健康であった人間がたった数時間の後に変り果てた姿になっていることに多少なりとも動揺を覚える。
「リオさん、こちらへ」
「はい」
アニーに声を掛けられたリオは彼女に連れられてエリアスの元へ向かった。
医療の知識もなければ手当の役に立てるようなことも思いつかなかったクリスティーナはその場に留まることにする。
「可哀想に。まだ若いのに」
「あれは……もう助からないだろう」
「特に肩の傷が深いらしい。話によると仮に一命を取り留めてももう剣は握れないだろうって話さ」
リオとアニーが医師の指示を受けて手伝っている姿を遠めに眺めていると、野次馬達の話声を拾った。
自分達は面白半分で見て話しているだけだなんて、随分なご身分である。
高貴な立場である自分のことは棚に上げながらクリスティーナは息を吐いた。
「そもそもリンドバーグ卿程の実力者が何故あそこまでの深手を?」
「現場で騎士同士が剣を交えた痕跡があったらしいから、決闘でもしてたんじゃないかってさ」
「俺達には良くしてくれてたけど、他の騎士とは上手くいってないって話だったからなぁ……。決闘の話が本当なら自業自得ってやつだが……あの死体見たか? ありゃあいくら剣が鋭くてもどうにかなるもんじゃないだろう」
話し込んでいる使用人達が見ている片方の死体を遠目に見てみるが、既に布で覆われてしまっている為 彼がどのような最期を遂げたのかを察することは難しそうだ。
しかし使用人たちの話から推測するにろくな状態ではなさそうである。
イニティウム皇国は長年平穏を保ってきた。それは皇国に含まれるレディング公爵領もまた安寧であったということ。
故に公爵家に属する騎士が命を落とすという事例にクリスティーナが遭遇することは初めてであった。
珍しい話だからこそ夜にも拘らず三十、四十という使用人がこの場に集まったのだろう。
リオを待っている間、クリスティーナが群衆の中へ視線を彷徨わせていると、ふと見知った顔を見かける。
従者を連れて野次馬から更に離れた場所で治療を見守るアリシアや、柱の傍で静かに佇むイアン。更にイアンの傍でゆったりと柱にもたれている白銀の髪の青年の姿。
(――お兄様)
兄、セシルは何か考えるように口元に手を当てていたが自身へ向けられた視線に気付くと顔を上げてにこりと微笑みかける。更にゆらゆらと手を振られるがクリスティーナがそれを無視するとイアンの肩を揺らして何やら話し始めた。
クリスティーナへ指をさしているところを見ると彼女の話をしていることは明確であったがイアンの興味なさげな対応を見るに、くだらない話題であることは明らかであった。
(珍しいわね、お兄様が庭にいるなんて)
レディング公爵――クリスティーナ達の父の業務を一部請け負い始めたこともあってか、最近のセシルは家を出ているか自分の書斎に引き籠っていることが多い印象だ。
そんな彼が騒ぎに駆け付けたということは……それだけ今回のことが異常であるということなのだろうか。
当の本人の立ち振る舞いは緊張感の欠片も感じられないものであるが。情緒がないと言われがちなクリスティーナでも流石に不謹慎だと思わざる得ない。
「お待たせしました」
突然耳元で声が聞こえたクリスティーナは瞬きをした。
そしてすぐにため息を吐く。
「……リオ」
「はい、お嬢様」
足音一つ立てずいつの間にかクリスティーナの傍に立っていた従者は何でしょうと首を傾げる。
悪気がないのだろうことはわかるのだが、彼はどうにもクリスティーナの不意を衝いて現れることが多い。
「もう少し、存在感を出して欲しいわ」
「すみません、癖なもので直しようがありません。……それに、毎度廊下の床を蹴りつけるような従者も嫌でしょう」
「そこまで大袈裟な話はしていないわ」
リオが地団太を踏みながら前進している様を想像してしまい顔を顰める。
煩すぎるか静かすぎるかで言えば後者の方がマシであることは確かな為、それ以上の言及を諦めることとした。
「もういいのかしら」
「はい。俺に出来ることはもうなさそうでしたので。……それにあの傷は恐らく手遅れでしょう」
「……そう」
親しいわけではなかった。しかし見知った顔の唐突な死というものを考えさせられた時、多少の動揺は付いて回るようだ。
「……今日はもう休むわ」
「そうされた方がよろしいかと。お送り致します」
建国祭、魔物の襲撃、騎士の死亡……今日一日だけで随分と濃い時間を過ごした。
流石に精神的な疲労も溜まっているようで体も重い。
どの道自分がこの場に留まっていたところで結果が変わるわけでもない。明日になればあの騎士がどうなったのかも、現場の状況整理も終わって更に詳しい話を聞くことが出来るはずだ。
クリスティーナはリオに導かれ、横たわる騎士達から背を向けた。
その時。
――駄目だ。
ふとクリスティーナへ声が届き、彼女は足を止める。
「……お嬢様?」
突然立ち止まったクリスティーナにリオが声を掛ける。
彼は主人が足を止めた理由に気付いていないようだ。
「リオ、今……」
声が聞こえなかったか。
告げようとしたクリスティーナを甲高い耳鳴りが襲い、その声は途中で途切れた。
頭に直接響くようなその音に堪らず耳を塞ぎ、強く目を閉じる。
「お嬢様? っ、クリスティーナ様……!」
肩を掴み、顔を覗き込むリオ。
クリスティーナを心配する彼の声はその殆どを耳鳴りに遮られてしまい、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
そしてそれとは別の声が頭に響く。
『駄目だ、まだ死ねない』
「……っ!」
それは青年の声。そしてクリスティーナはその声に聞き覚えがあった。
しかしそれが誰のものであるのか、瞬時に把握することは出来ない。けれど何故だか、その声の正体を有耶無耶にしてはならないと強く思わされる。
どこで聞いたのか。誰のものであるのか。
『死ねない……っ、誰かがオレの価値を見出すまでは』
再び聞こえる『声』。
クリスティーナはそれを頼りに自身の記憶を漁り、心当たりを探る。
穏やかな口調で話しかける従者、学院で悪評を言い広める貴族達、冷たい目をした姉、建国祭の喧騒――
――リオ、クリスティーナ様!
突如、クリスティーナは弾かれるように振り返る。
その声の主がわかったからだ。
夕刻、誰よりも早く魔物を一掃し自分達の名を呼んで無事を確認しようとした声。自身の失態に謝罪をし、身元を明かした声……。
それらがクリスティーナの中再生される。
――し、失礼致しました。レディング騎士団所属……
「……っ、エリアス・リンドバーグ……!」
振り返ってもその場の状況が変わっているわけではない。
エリアスは意識不明のまま横たわっていて、彼が話すことは不可能だ。
にも拘わらず、クリスティーナの頭の中で彼の声が響く。
『埃でもゴミでもない何かになりたい。それを証明したい』
その声につられるように、クリスティーナの感情は搔き乱される。
生存への執着や強い野心。道半ばで果てようとしていることへの口惜しさ。溢れる感情の数々は今のクリスティーナが抱くものとしては不釣り合いな代物であったがそれに対して違和感を持つことが出来ない。
苦しい、口惜しい、死にたくない。
そんな強い感情へ引き寄せられるようにクリスティーナの足は一歩、また一歩とエリアスの元へ向かっていく。
驚いた様子の従者がクリスティーナの肩を掴んだがそれを無心で振り解き、左手首に付けたブレスレットが千切れて落ちたことに気付くことすらできない。
もはや彼女に周囲の様子など把握は出来ていなかった。
ただエリアスの元へ向かわなければという使命感によってのみその体は動かされ、クリスティーナは真っ直ぐ足を進め、彼へ手を伸ばす。
伸ばされた手が深く傷つけられた背中へ近づき、優しく触れる。
その瞬間、淡い光がクリスティーナとエリアスの周囲を包み込んだ。
暖かさを孕んでいるらしいその光はどういう訳か、クリスティーナの魔力を消費して形成されている様だ。
原理はわからない。氷属性の魔法にこのような現象を引き起こすものも存在しない。
(けれど……魔力を消費して生み出されているということはこれが魔法だということ)
暖かな光は自分達に害を及ぼしていないように思える。そればかりか優しさをも感じられるそれは自分の味方をしてくれる力だと思える何かがある。
クリスティーナは深呼吸を一つして両目を閉じ、自分を包む温もりの正体を探る様に集中する。
突如沸き立つのは自身の中心から伸ばされた手の先へ自己の体内に集まったエネルギーが放出されるイメージ。
半ば無意識的に、はたまた本能的に。
更に多くのエネルギーが自身から流れ出る感覚をクリスティーナは思い描く。
それと同時に集中した彼女を包み込む暖かさは増し、閉じた瞼の先が強く輝いたのを感じ取った。
更に魔力の放出が続くにつれて、クリスティーナに触れられていたエリアスの傷はゆっくりと閉じていき、終いには斬りつけられた痕跡だけを残して完全に塞がった。
彼の背中には痛々しい傷跡こそ残れど溢れ出した血は完全に止まり、一連の流れを見ていなければその傷が先程まで開いていたものだとは誰も思わないだろう。
更にエリアスの顔の切り傷は跡すら残さず、まるで初めから存在しなかったかのように修復され、微弱であった彼の呼吸は規則正しい健康的なものへと変化する。
峠を越え、健康な状態を取り戻したことは素人目から見ても明らかだった。
エリアスの傷が全て癒えるや否や、クリスティーナ達を包む光はより一層強く瞬き、それを最後に明るさは緩やかに収束した。
自分達を包み込んでいた暖かさがゆっくりと消滅していくのを感じたクリスティーナはゆっくりと瞼を持ち上げる。
夜中の薄暗さを取り戻した庭の景色を彼女の視界は受け入れた。
そして同時に強い倦怠感が彼女を襲う。どうやら一連の流れでクリスティーナの魔力はごっそりと持って行かれたらしい。
しかし我に返った彼女の注意を引いたのは自身のことよりも、傷が塞がったまま眠っているエリアスの容態と周囲の者から向けられた好奇の目であった。
クリスティーナを追って傍についていたリオですらも主人の顔を見たまま呆けている。
(これはもしかしなくても……)
クリスティーナは眩暈を覚える。それは過剰な疲労感によるものというよりも、自身の置かれている立場について理解してしまったからだ。
エリアスの容態や周囲の反応、そして自分の身に起こったこと……。
クリスティーナ自身も簡単に認めることは出来ないようなことではあるが、体験してしまったことから推測するに導かれる結論は一つであった。
そしてその結論に至るのは何も自分だけではなかったようだ。
「――聖女様の魔法……」
使用人の中の誰かが小さく呟いたのを聞いたクリスティーナはその見解に無言で同意せざるを得なかった。
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